中庭の入口に、詩織の影が立っていた。
藤崎詩織は、足を止める。
目の前にいるのは、自分だった。
制服姿。
整えられた髪。
背筋を伸ばした立ち姿。
けれど、昼間の自分とは違う。
影が濃い。
目の奥が暗い。
微笑んでいるのに、温度がない。
それでも、詩織は分かってしまった。
これは、まったく別の誰かではない。
藤崎詩織が認めなかった藤崎詩織。
待っていた私。
選ばれたかった私。
外側に立つ私を、どうしても認められなかった私。
詩織の影は、何も言わなかった。
ただ、道を空けるように一歩だけ横へ動いた。
中庭の奥に、伝説の木が見えた。
現実の校庭にある木よりも、少し黒い。
枝は空へ伸びているのに、空そのものは見えない。
黒板のような暗い天井に、白い粉で描かれた枝が重なっている。
その根元から、卒業式の拍手が聞こえた。
遠い。
まだ来ていないはずの明日。
けれど、この学校では、すでに何度も終わったことにされているような卒業式。
詩織は、胸の前で手を重ねた。
さっき、鏡の前で認めかけた言葉が、まだ胸に残っている。
私は待っていた。
選ばれる側でいたかった。
悠真くんが何か言ってくれるかもしれないと。
悠真くんが、自分を見つけてくれるかもしれないと。
自分から聞かなかったのに。
自分から行かなかったのに。
それでも、待っていた。
その狡さを、詩織はまだ完全には受け入れられない。
けれど、否定だけで通り過ぎることも、もうできなかった。
詩織は中庭へ入った。
足元に、白い花びらのようなものが落ちている。
拾い上げると、それは花びらではなかった。
チョークの粉でできた、薄い紙片のようなものだった。
そこに、かすれた文字が浮かんでいる。
祝福の外側。
詩織は息を止めた。
紙片は、指先の上で崩れて消えた。
中庭の景色が揺れる。
黒い枝が遠ざかる。
卒業式の拍手が近づく。
次の瞬間、詩織は校庭に立っていた。
卒業式の後の校庭だった。
青い空。
校舎。
花びら。
遠くで笑う生徒たち。
写真を撮る声。
先生に挨拶する声。
卒業おめでとう、と言い合う声。
全部が、少し遠い。
薄い膜の向こうから聞こえる。
伝説の木があった。
その下に、誰かが立っている。
顔は見えない。
けれど、そこには確かに、言葉が届いた気配があった。
誰かが誰かへ、想いを告げた。
誰かが、それを受け取った。
そういう空気が、木の下にあった。
詩織は、動けなかった。
足が地面に縫い止められたように、そこから先へ進めない。
けれど、視線だけは動いた。
木の少し外側。
祝福の輪から、ほんの少し離れた場所。
そこに、藤崎詩織が立っていた。
詩織は、息を呑んだ。
それは自分だった。
けれど、今の自分ではない。
どこか別の時間で、別の卒業式を迎えた自分。
あるいは、まだ来ていない明日の自分。
伝説の木の下ではなく、その外側に立つ自分。
その自分は、微笑んでいた。
とても綺麗に。
誰かを祝福するように。
藤崎詩織として、崩れずに。
「……やめて」
声が漏れた。
誰に向けた言葉なのか、詩織自身にも分からなかった。
外側に立つ自分に向けたのか。
そんな自分を見せるこの学校に向けたのか。
それとも、ずっとその可能性を見ないふりしてきた自分に向けたのか。
外側の詩織は、木の下を見ている。
声は届かない。
けれど、その口元が動いた。
おめでとう。
そう言っているように見えた。
詩織は、胸を押さえた。
祝福の言葉。
自分には届かなかった春を、祝うための言葉。
その言葉は、優しい。
正しい。
藤崎詩織らしい。
けれど、その正しさの下に、息ができなくなるほどの痛みがあった。
詩織は、目を逸らしたくなった。
見たくない。
こんな自分は見たくない。
藤崎詩織は、伝説の木に似合う少女でいたかった。
周囲がそう見ることに、戸惑いながらも慣れていた。
悠真くんが来るかもしれないと、どこかで待っていた。
自分が木の下に立つことは想像できた。
誰かに呼ばれることも。
選ばれることも。
でも。
木の外側に立つ自分は、想像したくなかった。
選ばれなかった自分。
届かなかった自分。
祝福する側に回る自分。
その自分を認めてしまったら、藤崎詩織として整えてきたものが、崩れてしまう気がした。
校庭の端に、白い文字が滲んだ。
外側に立つ私。
詩織は、唇を噛んだ。
その文字の下に、次の言葉が浮かぶ。
認められなかった私。
詩織は首を横に振った。
「違う」
反射的に言う。
「私は、そんな……」
そこまで言って、言葉が止まった。
そんな、何だろう。
負けたくなかった。
選ばれない自分を認めたくなかった。
自分には届かなかった春を祝福する自分を、見たくなかった。
それは、あった。
確かにあった。
外側の詩織は、まだ微笑んでいる。
声は出さない。
泣かない。
崩れない。
誰にも分からないように、きれいに立っている。
その姿が、詩織には痛かった。
怖かった。
そして、見覚えがあった。
彼の春に、自分がいなかった私。
その言葉が、胸の奥をかすめた。
冬の廊下。
春の約束。
終わったら行こう。
大丈夫な顔で教室に戻った私。
夜、自分が泣いていることに気づくまで、泣いている理由も分からなかった私。
それは、今の自分が歩んだ時間ではない。
けれど、まったく知らない痛みでもなかった。
彼の未来の中に、自分がいない。
その事実を祝福しながら、息ができなくなる。
その痛みは、伝説の木の外側に立つ自分の痛みと、どこかで重なっていた。
詩織は、ようやく分かりかけた。
外側に立つ私を認められなかったのは、外側が醜いからではない。
惨めだからでもない。
そこに立つ自分が、あまりにも本当だったからだ。
選ばれたかった。
届いてほしかった。
悠真くんに来てほしかった。
それが叶わなかった時、自分はきっと、笑ってしまう。
藤崎詩織として。
誰にも何も見せないまま。
その自分を、見たくなかった。
「嫌だったでしょう」
声がした。
詩織は振り返る。
いつの間にか、詩織の影が校庭の端に立っていた。
伝説の木の下ではない。
外側でもない。
その境目のような場所に。
影は静かにこちらを見ている。
怒ってはいなかった。
声を荒らげてもいない。
ただ、穏やかな顔で、詩織が一番聞きたくないことを言った。
「私みたいな藤崎詩織は」
詩織は、何も言えなかった。
影は続ける。
「選ばれたかったなんて」
「来てほしかったなんて」
「外側に立ったくせに、綺麗に祝福したなんて」
「そんなの、あなたの知っている藤崎詩織ではないものね」
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
詩織は反射的に否定しようとした。
違う。
そうじゃない。
そんなふうに思っていない。
けれど、言葉は出なかった。
思っていたからだ。
見たくなかった。
そんな自分は。
待っていたくせに、待っていなかった顔をした自分。
選ばれたかったくせに、選ばれる側に慣れていないふりをした自分。
悠真くんに来てほしかったくせに、自分からは行かなかった自分。
そして、外側に立った時でさえ、綺麗に祝福できる藤崎詩織の顔をした自分。
そんなものは、見たくなかった。
影は、一歩だけ近づいた。
「私は、あなたが捨てた私」
詩織の影は静かに言った。
「待っていた私」
「選ばれたかった私」
「悠真くんに来てほしかった私」
「でも、来なかった時のために、最初から待っていなかった顔をした私」
詩織は、息を呑んだ。
「……やめて」
「外側に立っても、祝福できる藤崎詩織のふりをした私」
影は止まらない。
「本当は痛かったのに」
「本当は息ができなかったのに」
「それでも、誰にも見せない顔で笑った私」
「そういう私を、あなたは見たくなかった」
詩織は、胸の前で手を握りしめた。
痛い。
言葉が痛かった。
けれど、それは嘘ではなかった。
影は詩織を罵っているのではない。
もっと残酷だった。
影は、詩織が隠したまま整えていた感情を、そのまま言葉にしている。
「あなたは私を汚いと思った」
影は言った。
「選ばれたかったなんて、狡い」
「来てほしかったなんて、重い」
「外側に立って傷ついたなんて、みっともない」
「それでも綺麗に笑ったなんて、嘘つき」
「そう思ったから、私をここに置いた」
詩織は、首を横に振った。
「違う……」
ようやく出た声は、ひどく弱かった。
「違うわ」
「本当に?」
影は静かに問い返す。
「なら、どうして見なかったの?」
詩織は答えられない。
影は、怒鳴らない。
詰め寄らない。
ただ、こちらを見ている。
それだけで、逃げ場がなかった。
「あなたは、藤崎詩織でいたかった」
影は言った。
「正しくて」
「穏やかで」
「誰かを恨まず」
「誰かの春を祝福できて」
「伝説の木に似合う少女で」
「選ばれても驕らず、選ばれなくても崩れない少女で」
「でも、私は違った」
詩織の影は、自分の胸に手を当てた。
「私は待っていた」
「私は選ばれたかった」
「私は来てほしかった」
「私は外側に立ちたくなかった」
「私は、祝福なんてしたくないと思った瞬間もあった」
その言葉に、詩織は目を見開いた。
祝福なんてしたくない。
それは、あまりにも生々しかった。
藤崎詩織として、思ってはいけない感情だった。
誰かの幸せを祝えない自分。
そんな自分は、認めたくなかった。
影は、穏やかに微笑んだ。
「嫌だったでしょう」
「私みたいな藤崎詩織は」
詩織は、唇を噛んだ。
否定したかった。
けれど、否定できなかった。
「……嫌だった」
声は震えていた。
それでも、言った。
「見たくなかった」
影は、何も言わない。
詩織は、外側に立つ自分を見る。
その自分は、まだ微笑んでいる。
木の下を見ている。
誰かに届いた言葉を見ている。
自分には届かなかった春を見ている。
それでも、祝福している。
「私は……」
詩織は、言葉を探す。
「外側に立つ自分を認めたくなかった」
「選ばれなかった自分を」
「届かなかった自分を」
「それでも笑う自分を」
「見たくなかった」
言葉にするたびに、校庭の空気が揺れた。
白い花びらが舞う。
花びらは途中で粉になり、校庭に落ちる前に消える。
影は、静かに聞いている。
「でも」
そこで、言葉が止まる。
外側に立つ私も、私だった。
そこまで言うには、まだ怖い。
言ってしまえば、自分の中の何かが大きく変わってしまう気がした。
影は急かさなかった。
外側の詩織も、こちらを見ない。
ただ、待っている。
詩織が自分で言葉にするのを。
詩織は、目を伏せた。
「でも、あなたをなかったことには……できない」
それが、今言える精一杯だった。
外側の詩織の微笑みが、ほんの少しだけ揺れた。
泣きそうに見えたのかもしれない。
笑ったまま、少しだけほどけたようにも見えた。
影が、初めて少しだけ表情を変えた。
優しくなったわけではない。
ただ、冷たすぎる微笑みが、少しだけ消えた。
「まだ、認めきれない?」
詩織は頷いた。
「ええ」
正直に答えた。
「まだ、怖い」
「でも、見ているわ」
影は、わずかに目を細める。
「見ているだけで済ませるの?」
詩織は、言葉を失った。
影は、また一歩近づく。
「見た」
「分かった」
「怖かった」
「だから何もしない」
「それなら、明日も同じよ」
「藤崎詩織の顔で笑って、何もなかったことにして卒業するだけ」
詩織は、息を止めた。
その言葉は、慰めではなかった。
でも、必要な痛みだった。
「私は、また置いていかれる」
影は言った。
「あなたが私を見ただけで満足するなら」
「あなたが怖いまま、何も選ばないなら」
「私はまた、外側に立つ」
「綺麗に笑って」
「本当は痛いのに」
詩織は、胸を押さえた。
待っていた私。
選ばれたかった私。
外側に立つ私。
それを見た。
けれど、見るだけでは足りない。
見たうえで、どうするのか。
そこから逃げたら、また同じだ。
校庭の景色が崩れ始める。
伝説の木の下の誰かが薄れていく。
祝福の声が遠ざかる。
外側の詩織の姿も、少しずつ白く滲む。
詩織は、思わず手を伸ばした。
届かない。
まだ、届かない。
けれど、目を逸らさなかった。
外側の詩織は、最後にこちらを見た。
その目は、静かだった。
責めていない。
許してもいない。
ただ、そこにいる。
そう伝える目だった。
景色が消える。
詩織は、中庭の入口に戻っていた。
黒い枝の影が、頭上に広がっている。
詩織の影は、すぐ前に立っていた。
さっきよりも近い。
けれど、まだ触れられる距離ではない。
足元に、白い文字が浮かぶ。
外側に立つ私を、見ました。
その下に、もう一行。
まだ、受け入れてはいません。
詩織は、その文字を見つめた。
「……正直ね」
小さく言う。
影は答えない。
詩織は、息を整えた。
外側に立つ自分を見た。
認めたくなかったことも認めた。
でも、まだ受け入れきれていない。
それでいいのかは分からない。
けれど、もう見ていないふりはできない。
詩織は、影を見た。
「次は、何をすればいいの?」
影は少しだけ首を傾げる。
その仕草は、ひどく自分に似ていた。
「それも、私に聞くの?」
詩織は、息を呑んだ。
影の声は静かだった。
だが、その静けさの中に、鋭いものがあった。
「待っていた私を見た」
「外側に立つ私を見た」
「それでもまだ、誰かが答えをくれるのを待つの?」
詩織は、何も言えなかった。
影は導かない。
教えてくれない。
ただ、突きつける。
それもそうだと思った。
この影は、案内役ではない。
自分が捨てたものだ。
自分が見ないことにしてきたものだ。
だから、何を選ぶのかまで、影に決めさせてはいけない。
詩織は、ゆっくりと視線を上げた。
影の背後で、中庭の道が開いていく。
その奥に、伝説の木へ続く細い道が見えた。
まだ遠い。
けれど、確かにそこへ続いている。
待っているだけでは届かない。
選ばれる側にいるだけでは、辿り着けない。
外側に立つ私をなかったことにしたままでは、歩けない。
それだけは、分かった。
詩織は一歩、道の方へ進んだ。
影は、その横を静かに歩き出した。
並ぶわけではない。
導くわけでもない。
ただ、同じ方向へ進むように。
詩織は、影の横顔を見た。
まだ怖い。
まだ認めきれない。
でも、もう置いていくことはできない。
そう思いながら、詩織は伝説の木へ続く道を歩き始めた。