伝説の木へ続く道は、細かった。
藤崎詩織は、その道を歩いていた。
隣には、詩織の影がいる。
並んでいるわけではない。
導かれているわけでもない。
ただ、同じ方向へ進んでいる。
それだけだった。
中庭の奥に、黒い枝が広がっている。
現実の伝説の木とは違う。
もっと暗く、もっと重い。
根は地面に深く絡み、枝は空ではなく、黒板のような暗い天井へ伸びていた。
その枝先から、白い粉が少しずつ落ちている。
チョークの粉のようだった。
落ちた粉は、地面に触れる前に言葉になる。
待っていた私。
選ばれたかった私。
外側に立つ私。
詩織は、その言葉を見ながら歩いた。
どれも、もう知らないふりはできなかった。
私は聞けた。
でも、聞かなかった。
私は待っていた。
選ばれる側でいたかった。
外側に立つ私を、見たくなかった。
それでも、なかったことにはできない。
そこまでは来た。
けれど、それだけでは足りない。
詩織は、それを感じていた。
見た。
認めかけた。
でも、それで終わるなら、明日も同じだ。
藤崎詩織として笑い、卒業式を迎え、友人たちと写真を撮り、先生に挨拶をして、悠真くんに「卒業おめでとう」と言う。
そして、そのまま終わる。
何も聞かずに。
何も言わずに。
何もなかったことにして。
それは、もうできない気がした。
いや。
できる。
きっと、できてしまう。
藤崎詩織としてなら。
だからこそ、怖かった。
「ねえ」
隣を歩く影が、静かに言った。
詩織は足を止めない。
「あなたは、どうしたいの?」
その問いは、短かった。
けれど、伝説の木の噂よりも重かった。
詩織は、すぐには答えられなかった。
どうしたいのか。
そんなことを、自分に聞いたことがどれだけあっただろう。
何をするべきか。
どう振る舞うべきか。
どう見られるか。
誰を傷つけないか。
どうすれば藤崎詩織として正しいか。
そういうことなら、何度も考えた。
けれど。
自分がどうしたいのか。
それは、ずっと後ろへ置いてきた気がする。
「分からないわ」
詩織は答えた。
正直な言葉だった。
影は、責めなかった。
ただ、こちらを見ている。
「本当に?」
詩織は唇を結ぶ。
本当に分からないのか。
それとも、分かるのが怖いだけなのか。
その違いを、もう誤魔化せなかった。
「……怖いの」
詩織は言った。
「分かってしまうのが」
影は、少しだけ目を細めた。
「分かってしまったら、もう待てないものね」
その言葉に、詩織は胸を押さえた。
その通りだった。
分かってしまえば、待つだけではいられない。
聞きたかったこと。
言いたかったこと。
選ばれたかったこと。
来てほしかったこと。
その全部が自分の中にあったと認めてしまえば、もう「何もなかった」顔ではいられない。
影は歩きながら言う。
「悠真くんに選ばれたい?」
詩織は、足を止めた。
その問いは、鋭かった。
「それは……」
言葉が出ない。
選ばれたい。
その気持ちはあった。
なかったとは言えない。
悠真くんに見てほしかった。
悠真くんに来てほしかった。
悠真くんが、自分を特別だと言ってくれることを、どこかで待っていた。
それは、もう否定できない。
でも、それだけではない。
それだけで終わってしまえば、また同じ場所に戻る。
選ばれる側。
待つ側。
相手が言葉を届けてくれるのを待つ場所。
詩織は、影を見た。
「選ばれたい気持ちは、あったわ」
その言葉は苦かった。
「でも、それだけじゃない」
影は何も言わない。
詩織は、言葉を探す。
「悠真くんが何を思っていたのか、知りたい」
「私をどう見ていたのかも」
「でも、それ以上に……」
そこで、息が詰まる。
言葉にすれば、戻れなくなる。
けれど、言わなければまた戻ってしまう。
詩織は、ゆっくり息を吸った。
「私が、何を思っていたのかを」
「私の言葉で、伝えたい」
影の目が、少しだけ揺れた。
「伝えたい?」
「ええ」
詩織は答えた。
まだ声は震えていた。
でも、逃げるための震えではなかった。
「悠真くんに選んでもらうためだけじゃない」
「悠真くんに、答えを出してもらうためでもない」
「私が、待っていたこと」
「聞けなかったこと」
「怖かったこと」
「それでも、悠真くんを見ていたこと」
「それを、私が言いたい」
言ってしまった。
言葉は戻らない。
けれど、不思議と、胸の奥が少しだけ軽くなった。
影は静かに尋ねる。
「言って、選ばれなかったら?」
詩織は、目を伏せた。
怖い。
その可能性は、何より怖い。
伝説の木の下に立って、自分から言葉を届けて。
それでも届かなかったら。
それでも選ばれなかったら。
外側に立つ自分は、今度こそ現実になる。
祝福の外側ではなく、自分の言葉が届かなかった外側に立つことになる。
詩織は、拳を握った。
「怖いわ」
正直に言った。
「とても」
影は、目を逸らさない。
「それでも?」
詩織は、伝説の木へ続く道を見た。
道はまだ遠い。
黒い枝の下には、玉座のように歪んだ根が見える。
そこは、待っていた私が座っていた場所。
選ばれたかった私が、動かずにいた場所。
外側に立つ私を認められず、藤崎詩織として綺麗に終わらせようとしていた場所。
詩織は、その場所を見ながら答えた。
「それでも、待つだけには戻りたくない」
影は、何も言わなかった。
詩織は続ける。
「待っていたら、傷つかないわけではなかった」
「選ばれる側にいれば、怖くないわけでもなかった」
「何も言わなければ、何も壊れないと思っていた」
「でも、本当は」
声が少し震える。
「何も言わないまま、少しずつ壊れていたのかもしれない」
廊下の壁に、白い文字が滲む。
終わったことにされた時間。
詩織は、その文字を見る。
それは責める言葉ではなかった。
ただ、そこにある事実だった。
言わなかった時間。
聞かなかった時間。
待っていた時間。
終わったことにされた時間。
そのすべてが、ここに積もっている。
「私は」
詩織は、ゆっくりと言った。
「伝説の木の下で待つために行くんじゃない」
影が、わずかに顔を上げる。
詩織は、その目を見た。
怖い。
でも、見返した。
「自分で言うために行く」
言葉が、道の上に落ちた。
黒い枝が小さく揺れる。
白い粉が、雪のように舞った。
詩織は、胸の奥が痛むのを感じた。
でも、その痛みはさっきまでとは違った。
誰かを待っている痛みではない。
自分で選ぼうとしている痛みだった。
影は、静かに笑った。
優しくはない。
けれど、さっきまでのように冷たくもない。
「ようやく?」
その一言には、少しだけ皮肉があった。
詩織は、小さく頷く。
「ええ」
認める。
「ようやく」
影は、伝説の木の方を見る。
「でも、まだ私を連れてはいけないでしょう?」
詩織は息を止めた。
「連れていく……?」
「あなたは、私をどうするの?」
影は言った。
「見た」
「認めかけた」
「なかったことにはできないと言った」
「でも、私はまだここにいる」
「待っていた私」
「選ばれたかった私」
「外側に立つ私」
「綺麗に祝福したふりをした私」
「来てほしかった私」
影は、一つ一つ言葉を並べる。
詩織は、それを聞いていた。
逃げずに。
「あなたは、私を置いていくの?」
影は問う。
「それとも、私を連れて伝説の木へ行くの?」
詩織は、すぐには答えられなかった。
連れていく。
それは、影を肯定することに近かった。
待っていた自分も。
選ばれたかった自分も。
外側に立つ自分も。
祝福したくないと思った自分も。
それらを持ったまま、伝説の木へ行く。
そんなことができるのだろうか。
藤崎詩織として。
正しく、穏やかで、誰からも信頼される自分として。
影を連れていくということは、その藤崎詩織を少し壊すことではないのか。
影は、詩織の沈黙を見ていた。
「嫌でしょう」
静かに言う。
「私を連れていくのは」
詩織は、答えられない。
影は続ける。
「だって私は、あなたが見たくなかったものだもの」
「私を連れて行けば、あなたはもう、ただ綺麗な藤崎詩織ではいられない」
「待っていたことも」
「選ばれたかったことも」
「悠真くんに来てほしかったことも」
「全部、あなたの中にあるものとして伝説の木の下に立つことになる」
詩織は、息を詰めた。
その通りだった。
影を置いていけば、楽かもしれない。
見た。
分かった。
でも、私は違う。
そう言って、綺麗な部分だけを持って戻ることもできるかもしれない。
けれど、それではまた同じだ。
また、なかったことにするだけだ。
見たくない自分を置き去りにして、藤崎詩織として正しく微笑むだけだ。
詩織は、ゆっくり手を伸ばした。
影へ。
まだ届かない距離だった。
影は動かない。
詩織は、言葉を探す。
「あなたを、好きだとはまだ言えない」
影の目が、わずかに揺れた。
詩織は続ける。
「あなたを見ていると、苦しい」
「恥ずかしい」
「嫌になる」
「こんな私がいたのだと認めるのは、怖い」
正直な言葉だった。
影を美化しない。
影をすぐに抱きしめることもしない。
ただ、逃げない。
「でも」
詩織は、手を下ろさなかった。
「あなたを置いていくことも、もうできない」
影は、黙っている。
「待っていた私も」
「選ばれたかった私も」
「外側に立つ私も」
「来てほしかった私も」
「全部、今の私が見ないことにしてきた私だから」
詩織は、一歩近づいた。
「まだ、受け入れきれてはいない」
「でも、連れていかないといけないのだと思う」
「私が、自分の言葉で何かを伝えるなら」
「あなたを置いていったままでは、きっと嘘になる」
影は、初めて少しだけ目を伏せた。
その表情は、勝ち誇ったものではなかった。
怒りでもない。
どこか、疲れているように見えた。
長い間、置き去りにされていたものの顔だった。
「私を連れていくと、痛いわよ」
影は言った。
「知っているわ」
「綺麗ではいられないかもしれない」
「それも、たぶん分かっている」
「悠真くんに届かないかもしれない」
詩織は、少しだけ目を閉じた。
それが一番怖かった。
でも、目を開けた。
「それでも、待つだけよりはいい」
声は小さかった。
けれど、はっきりしていた。
「何も言わないまま終わるよりは、いい」
影は、しばらく詩織を見ていた。
やがて、横を向く。
伝説の木へ続く道が、少しだけ明るくなった。
暗い中庭の奥へ、細い光が伸びる。
春の光ではない。
まだ夜に近い。
けれど、完全な闇ではなかった。
「なら、歩きなさい」
影は言った。
詩織は、その言葉を聞いて、少しだけ眉を寄せた。
「あなたが決めるの?」
「いいえ」
影は静かに返す。
「今のは、あなたが言ったことよ」
詩織は、息を呑む。
確かに、そうだった。
歩くと決めたのは、影ではない。
誰かに選ばれたからでもない。
促されたからでもない。
自分が、待つだけには戻りたくないと言った。
自分で言うために行くと言った。
影は、それを返しただけだ。
詩織は、伝説の木へ続く道を見る。
その先には、何があるのか分からない。
悠真くんがいるのか。
自分の影がもっと濃くなるのか。
未完了の卒業式が待っているのか。
それでも、行かなければならない。
待つためではなく。
選ばれるためでもなく。
自分の言葉を持って行くために。
詩織は歩き出した。
影も隣を歩く。
今度は、さっきより少し近かった。
触れられるほどではない。
けれど、置いていく距離ではなかった。
道の左右に、声が浮かぶ。
藤崎さんなら。
詩織なら。
伝説の木に似合う。
誰に選ばれるの。
誰を選ぶの。
詩織は、その声を聞きながら歩いた。
以前なら、笑って流した声。
少し困ったように受け止めていた声。
どこかで慣れていた声。
今は、それが少し違って聞こえる。
藤崎詩織なら。
その言葉の中に、自分を閉じ込めていたものがある。
でも、それだけではない。
藤崎詩織だから、できることもあるのかもしれない。
正しくあるためではなく。
誰かに似合うと言われるためではなく。
自分の言葉を、きちんと届けるために。
詩織は足を止めた。
道の途中に、黒板が立っていた。
そこには、白い文字が書かれている。
伝説の木の下で、誰を待ちますか。
詩織は、その文字を見つめた。
少し前の自分なら、答えられなかった。
あるいは、待つ相手を考えていた。
悠真くんが来るかどうか。
誰が自分を選ぶのか。
自分は選ばれるのか。
けれど、今は違う。
詩織は、黒板の前に置かれていたチョークを手に取った。
手が震える。
それでも、書いた。
待つためには行かない。
白い文字が黒板に残る。
続けて、もう一行。
自分で言うために行く。
書き終えた瞬間、黒板が静かに割れた。
音は小さかった。
チョークの粉が舞う。
その向こうに、道が続いている。
影が、横でその文字を見ていた。
「まだ足りないわ」
詩織は頷いた。
「分かっている」
これだけで、すべてが終わるわけではない。
待っていた私を完全に受け入れたわけでもない。
外側に立つ私を抱きしめられたわけでもない。
悠真くんに何を言うのかも、まだはっきりしていない。
でも、方向だけは決まった。
待つためではない。
自分で言うために。
詩織は、黒板の欠片を踏まないように歩いた。
その先に、伝説の木の根が見えた。
玉座のように歪んだ根。
そこには、誰も座っていない。
少なくとも、今は。
詩織は、その空いた玉座を見た。
かつて、影が座っていた場所。
待っていた私が動かなかった場所。
選ばれる側でいたかった私が、誰かを待っていた場所。
詩織は、その前で立ち止まった。
影も隣に立つ。
「座る?」
影が聞いた。
詩織は、玉座を見つめた。
そこに座れば、楽かもしれない。
また待てる。
誰かが来るのを。
誰かが言うのを。
自分を選ぶのを。
藤崎詩織として、そこにいることができる。
けれど、詩織は首を横に振った。
「座らないわ」
影は、少しだけ微笑む。
「どうして?」
「そこは、待つ場所だから」
詩織は答えた。
「今の私は、そこに座るために来たんじゃない」
影は黙る。
詩織は、玉座の横を通り過ぎた。
それだけのことだった。
けれど、足が震えた。
待つ場所を通り過ぎる。
選ばれる側でいられる場所を通り過ぎる。
それは、思っていたよりも怖かった。
でも、進んだ。
伝説の木の根元に、細い道が続いている。
その先には、まだ見えない出口があるように感じた。
詩織は、影とともに歩いた。
途中で、影がぽつりと言った。
「私は、まだあなたの中に入れないわ」
詩織は、足を止める。
「どうして?」
「あなたが、まだ私を許していないから」
詩織は、何も言えなかった。
影は続ける。
「そして、私もまだ、あなたを許していない」
その言葉は、静かだった。
だが、重かった。
詩織は、影を見た。
「私を?」
「ええ」
影は答えた。
「私を置いてきたあなたを」
「待っていたことを、なかったことにしようとしたあなたを」
「外側に立つ私を、汚いと思ったあなたを」
「私は、まだ許していない」
詩織は、胸が痛んだ。
けれど、不思議と納得もした。
そうだ。
受け入れるというのは、一方的に抱きしめることではない。
捨てた側と、捨てられた側が、すぐにひとつになれるわけではない。
影にも、怒りがある。
痛みがある。
置き去りにされた時間がある。
それを無視して、綺麗に「私の一部」と言うことはできない。
詩織は、静かに頷いた。
「分かった」
影は、少しだけ意外そうに見た。
詩織は続ける。
「まだ許してくれなくていい」
「私も、まだ全部を好きにはなれない」
「でも、置いていかない」
それだけは、言えた。
影は、何も言わなかった。
しかし、その足は止まらなかった。
二人は、また歩き出す。
伝説の木の黒い枝の下を抜ける。
道の先に、淡い光が見えた。
春の朝のような光。
卒業式の朝へ続くような光。
詩織は、その光を見つめた。
まだ、戻るには早い。
そう感じた。
まだ、伝えたい言葉を掴みきれていない。
まだ、影を受け入れきれていない。
まだ、悠真くんと向き合っていない。
それでも、ひとつだけ決まった。
伝説の木へは、待つために行かない。
誰かが来るのを待つためではない。
自分の言葉を届けるために行く。
詩織は、その決意を胸に抱いた。
影は隣にいる。
まだ一つにはなっていない。
でも、もう遠くに置いてはいない。
それだけで、道は少しだけ明るく見えた。