春の光が戻ってきた時、水瀬悠真は校門の前に立っていた。
どれだけ時間が経ったのかは分からない。
そもそも、この学校で時間が同じように流れているのかも分からなかった。
ただ、ひとつだけ分かることがある。
ここは、もう自分だけが見る場所ではない。
悠真は、ゆっくりと顔を上げた。
そこは、最初に見た卒業式の夢で、世界が止まった場所だった。
きらめき高校の校門。
その向こうには、帰り道が続いている。
卒業式の後、何も言わずにそこを出れば、すべては終わる。
何も聞かずに。
何も言わずに。
誰も悪くないまま。
悠真は、そこから動けなかった。
校門の向こうの道は、春の光に包まれている。
明るい。
穏やかで、どこまでも普通に見える。
だからこそ、怖かった。
そこへ進めば、普通に終われてしまう。
卒業式が終わる。
高校生活が終わる。
詩織と幼馴染のまま、何も壊さず、何も確かめず、何も言わずに終わる。
それができてしまう。
悠真は、胸の奥が冷えるのを感じた。
その時、校庭の奥から足音が聞こえた。
一人分ではない。
けれど、大勢の足音でもない。
ゆっくりと近づいてくる。
悠真は振り返った。
伝説の木へ続く道の方から、藤崎詩織が歩いてきた。
隣には、詩織の影がいた。
悠真は、息を止めた。
詩織の姿を見た瞬間、胸の奥に、いくつもの光景が戻ってくる。
理想の藤崎詩織。
伝説の木に似合う少女。
外側に立つ詩織。
聞かなかった問い。
答えられなかったかもしれない答え。
そして、幼馴染という安全な距離に隠れていた自分。
詩織もまた、悠真に気づいた。
校門の前で、二人はしばらく動けなかった。
詩織の顔には、驚きがあった。
けれど、それだけではなかった。
何かを見てきた顔だった。
自分が見たくなかったものを見て、それでもここまで歩いてきた顔。
悠真は、そう思った。
詩織の影は、詩織の少し後ろに立っていた。
近い。
けれど、まだ重なってはいない。
その距離が、悠真には不思議と分かった。
詩織は、まだ影を完全に受け入れたわけではない。
けれど、もう置いてきたわけでもない。
「詩織」
悠真は名前を呼んだ。
声は、思ったより小さかった。
「悠真くん」
詩織も答えた。
いつもと同じ呼び方だった。
けれど、もう同じではなかった。
校門の上に、白い文字が滲む。
卒業式 未完了
詩織は、その文字を見上げた。
悠真も、同じ文字を見る。
文字は、黒板に書き残されたもののように揺れている。
冷たくはない。
ただ、消えずに残っている。
その下に、別の文字が浮かぶ。
届かなかった言葉があります。
聞かれなかった問いがあります。
言えなかった名前があります。
終わったことにされた時間があります。
悠真は、その文字から目を逸らせなかった。
「俺も、見た」
彼は言った。
詩織が、静かにこちらを見る。
悠真は、校門ではなく、少し離れた伝説の木の方を見た。
「藤崎詩織を」
その言葉に、詩織の表情がわずかに揺れた。
悠真は続ける。
「俺が見ていた藤崎詩織を」
「伝説の木に似合って」
「遠くて」
「努力すれば届くかもしれないって、勝手に思っていた藤崎詩織を」
詩織は、何も言わなかった。
それでも、聞いていた。
悠真にはそれが分かった。
「俺は、詩織を見ていたつもりだった」
悠真は言う。
「でも、たぶん」
そこで言葉が止まる。
まだ、言い切れない。
言い切るには、現実の詩織の前で、自分の中にあったものをもっと正確に見なければならない。
それでも、ここまで来て、言わないままではいられなかった。
「藤崎詩織に届いた自分を、見ていたのかもしれない」
声は小さかった。
だが、詩織には届いた。
詩織は、胸の前で手を握った。
その言葉は痛かった。
けれど、悠真の声に責める響きはなかった。
彼は、詩織を責めているのではない。
自分自身を見ている。
そう分かったから、詩織も口を開いた。
「私も、見たわ」
悠真がこちらを見る。
「聞かなかった私を」
「待っていた私を」
「選ばれる側でいたかった私を」
言うたびに、詩織の影の気配が少しだけ濃くなる。
詩織は、それでも目を逸らさなかった。
「外側に立つ私も」
悠真の表情が変わった。
悠真も、それを見たのだと分かった。
伝説の木の外側に立つ藤崎詩織。
自分には届かなかった春を、祝うための言葉。
その姿を、悠真も見ていた。
二人は、同じものを別の場所から見ていた。
「詩織」
悠真は言いかけて、止まる。
詩織は、少しだけ首を横に振った。
「まだ、全部は言えない」
その言葉は、自分でも意外なほど正直だった。
「でも、見たことをなかったことにはできない」
悠真は、静かに頷いた。
「俺も」
短い返事だった。
それだけで十分だった。
校門の向こうから、風が吹いた。
卒業式の後の、少し暖かい風。
外へ出れば、終われる。
何も言わないままでも、世界は進む。
明日は来る。
卒業式は終わる。
誰も、二人に言葉を強制しない。
だからこそ、ここで止まっている。
校門の前に、二人の影が伸びた。
詩織の影も、少し後ろに立っている。
悠真は、その影を見た。
驚いたようだった。
けれど、怯えはなかった。
ただ、少し痛そうな顔をした。
「それは」
悠真が言う。
「詩織なのか」
詩織は、自分の影を見た。
影は何も言わない。
詩織は、少し迷ってから答えた。
「まだ、そう言い切れるほど強くないわ」
影が、わずかに目を細める。
詩織は続ける。
「でも、私ではないとも、もう言えない」
悠真は黙って頷いた。
その沈黙は、余計ではなかった。
詩織は、その沈黙に少しだけ救われた。
何かをすぐに分かったふりをしない。
綺麗な言葉で包まない。
ただ、受け止める。
今の悠真は、そうしようとしているように見えた。
校門の文字が揺れた。
終わりますか。
詩織は、その文字を見た。
悠真も見上げる。
さらに文字が滲む。
何も聞かずに。
何も言わずに。
誰も悪くないまま。
全部を終わったことにして。
詩織の胸が締めつけられた。
その言葉は、責めではなかった。
選択だった。
このまま校門を出れば、終われる。
現実の卒業式が来る。
二人は普通に卒業する。
普通に笑う。
普通に別れる。
それでも、誰も悪くない。
ただ、何かが終わったことにされる。
悠真が小さく息を吐いた。
「俺は」
詩織は悠真を見る。
「このまま出たら、また言わない気がする」
その言葉は、弱かった。
けれど、正直だった。
「現実に戻ったら、たぶん怖くなる」
「いつもの詩織を見たら」
「卒業式で、みんながいて」
「普通に笑って」
「卒業おめでとうって言ったら」
「それで、終わらせられる気がする」
詩織は、胸が痛んだ。
それは、悠真だけの話ではない。
自分も同じだった。
「私も」
詩織は言った。
「きっと、できてしまうわ」
悠真がこちらを見る。
「藤崎詩織としてなら」
詩織は続けた。
「いつも通りに笑って」
「卒業おめでとうって言って」
「写真を撮って」
「何もなかったように、校門を出ることができてしまう」
その言葉は、怖かった。
できないではない。
できてしまう。
それが一番怖い。
詩織の影が、静かに言った。
「だから、私は終わらせなかった」
詩織は影を見る。
影は、校門の文字を見上げていた。
「あなたたちが悪いからではないわ」
「誰かを罰したかったわけでもない」
「ただ、できてしまうから」
「何も見なかったことにして」
「何も聞かなかったことにして」
「何も言わなかったことにして」
「綺麗に卒業できてしまうから」
影の声は静かだった。
その静けさが、かえって痛かった。
悠真は、影の言葉を聞いていた。
詩織は思った。
この影は、自分だけのものではない。
少なくとも、この終われない卒業式では。
悠真の見なかったものも、詩織の聞かなかったものも、二人が言わなかったものも、全部ここに残っている。
校門の上の文字が、少しずつ白く滲んでいく。
終わりますか。
詩織は、その問いにすぐ答えられなかった。
終わらせなければならない。
でも、このまま終わらせてはいけない。
その違いが、ようやく分かりかけている。
卒業式は終わる。
高校生活は終わる。
それは自然なことだ。
止めるものではない。
でも、気持ちまで終わったことにする必要はない。
聞かなかった問いを、なかったことにする必要はない。
言わなかった答えを、存在しなかったことにする必要もない。
詩織は、悠真を見た。
「悠真くん」
「うん」
「私は、ここで全部を言うのは違うと思う」
悠真は、少し驚いた顔をした。
詩織は続ける。
「ここは、明日の代わりではないから」
言いながら、自分でも納得していく。
「ここで言ってしまえば、現実で言わなくても済んでしまう」
「それでは、きっとまた同じ」
悠真は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに頷く。
「俺も、そう思う」
その返事に、詩織は少しだけ息を吐いた。
二人の間に、沈黙が落ちる。
けれど、その沈黙は前と違っていた。
言わないための沈黙ではない。
今は、言う場所を選ぶための沈黙だった。
校門の文字が揺れる。
では、どうしますか。
詩織は、ゆっくり答えた。
「このまま出ない」
悠真が、詩織を見る。
詩織は続ける。
「何も言わないまま、校門を出るのはやめる」
その言葉は、まだ告白ではない。
答えでもない。
でも、選択だった。
悠真も、校門を見る。
「俺も」
彼は言った。
「このまま終わらせない」
詩織の影が、少しだけ目を伏せた。
校門の向こうの景色が揺れる。
外へ続いていた道が、少しずつ薄れていく。
代わりに、校庭の方へ道が開いていく。
伝説の木へ続く道。
まだ遠い。
けれど、確かにある。
悠真は、その道を見た。
詩織も見た。
二人が同時にそちらを見る。
その瞬間、校門の上の文字が崩れた。
卒業式 未完了
その文字が、粉になって舞う。
完全に消えたわけではない。
ただ、形を変えた。
粉は校庭の方へ流れていく。
伝説の木へ。
詩織は、その流れを目で追った。
「まだ、終わっていないのね」
「たぶん」
悠真が言う。
「終わらせる場所は、ここじゃないんだと思う」
詩織は、頷いた。
校門は、何も言わずに出ていく場所だった。
終わったことにする場所だった。
でも、二人はそこから出なかった。
なら、次に向かうべき場所は決まっている。
伝説の木。
ただし、待つためではない。
選ばれるためでもない。
現実の代わりに何かを済ませるためでもない。
明日、何もなかったことにしないために。
詩織は、影を見る。
影は、まだそこにいる。
完全には重なっていない。
けれど、逃げるように離れてもいない。
悠真は、詩織と影の間を見ていた。
何かを言いたそうにして、言わなかった。
詩織は、それでよかった。
今、悠真が影について何かを分かったように言えば、きっと嘘になる。
今はまだ、見ているだけでいい。
互いに、相手が何かを抱えていると知るだけでいい。
詩織は、校庭へ向かって歩き出した。
悠真も隣を歩く。
ほんの少し距離を置いて。
以前の幼馴染の距離とは違う。
近すぎず。
遠すぎず。
今はまだ、答えを急がない距離。
だが、もう安全な場所に隠れるための距離ではなかった。
二人の後ろで、校門が静かに閉じる。
閉じ込めるためではない。
何も言わずに出ていく道を、閉じるために。
詩織は振り返らなかった。
悠真も振り返らなかった。
校庭の先に、伝説の木がある。
まだ遠い。
夢のような学校の中で、黒い枝を広げている。
その下へ行けば、何かが終わるのかもしれない。
あるいは、何かが始まるのかもしれない。
詩織には分からなかった。
ただ、ひとつだけ分かっていた。
このまま何も言わずに卒業することは、もうできない。
悠真も、同じことを思っているのだろう。
言葉にしなくても、今はそれだけでよかった。
二人は、伝説の木へ向かって歩いた。
待つためではなく。
終わったことにするためでもなく。
明日、現実の卒業式で、ちゃんと自分の言葉を持つために。