伝説の木は、夢のような学校の校庭に立っていた。
現実のきらめき高校にある木と、同じ形をしている。
けれど、同じではない。
幹は少し黒く、枝は空ではなく、黒板のような暗い天井へ伸びている。
葉の代わりに、白い粉が舞っていた。
チョークの粉。
届かなかった言葉の残り。
聞かれなかった問いの残り。
言えなかった名前の残り。
それらが、春の花びらのように木の周りを漂っている。
藤崎詩織は、その木を見上げた。
隣には、水瀬悠真がいる。
少し離れたところに、詩織の影がいた。
近い。
けれど、まだ一つではない。
それでも、もう置き去りにはしていない。
詩織は、そう感じていた。
校門からここまで、二人はほとんど話さなかった。
何も言わないための沈黙ではなかった。
言うべき場所を、間違えないための沈黙だった。
校門の外へ出れば、何もなかったことにして卒業できた。
でも、二人は出なかった。
だから、ここへ来た。
終わったことにするためではない。
現実の代わりに言葉を済ませるためでもない。
明日、何もなかったことにしないために。
伝説の木の根元には、二つの道があった。
一つは、木の下へ続く道。
もう一つは、校舎へ戻る道。
木の下へ続く道には、白い文字が浮かんでいる。
ここで言いますか。
詩織は、その文字を見つめた。
胸が小さく鳴る。
ここで言うこともできるのだろう。
この夢のような学校で。
誰もいない校庭で。
未完了の卒業式を前にして。
悠真くんに向き合って。
待っていたこと。
選ばれたかったこと。
聞けなかったこと。
自分で言うためにここまで来たこと。
そのすべてを、ここで言葉にしてしまうこともできる。
けれど、詩織はすぐに首を横に振った。
違う。
ここではない。
ここで言ってしまえば、明日、現実で言わなくても済んでしまう。
それは、また逃げることになる。
きれいな夢の中でだけ言って、現実の卒業式では藤崎詩織の顔で笑う。
それでは、また同じだ。
詩織は、悠真を見た。
悠真も、同じ文字を見ていた。
その顔には迷いがあった。
けれど、前よりも少しだけ、迷いから逃げていないように見えた。
「ここで言えば、楽かもしれないな」
悠真が言った。
詩織は、驚かなかった。
自分も同じことを思ったからだ。
「ええ」
詩織は答えた。
「楽かもしれないわ」
悠真は、苦笑するように息を吐いた。
「ここなら、たぶん言える」
その声は小さい。
「夢みたいな場所だから」
「現実じゃないから」
「ここでなら、俺は自分の弱いところを言える気がする」
詩織は黙って聞いていた。
悠真は、伝説の木を見上げる。
「俺は、詩織を見ていたつもりだった」
「でも、見ていたのは、藤崎詩織に届いた自分だったのかもしれない」
その言葉は、校門の前でも聞いた。
けれど、ここでは少しだけ深く響いた。
悠真は続ける。
「詩織に近づきたかった」
「詩織の隣に立てる自分になりたかった」
「それは本当だと思う」
「でも、その中に」
そこで、言葉が止まる。
詩織は急かさなかった。
悠真は、少し時間を置いて言った。
「詩織に選ばれたら、自分の三年間が報われるっていう気持ちも、あったと思う」
詩織は、胸の奥が痛むのを感じた。
でも、それは悠真だけの痛みではなかった。
自分も、似たような場所にいた。
悠真くんが来てくれたら。
悠真くんが何かを言ってくれたら。
自分が選ばれる側でいられたら。
そう待っていた。
「私も」
詩織は言った。
悠真がこちらを見る。
詩織は、影の気配を背中に感じながら続けた。
「悠真くんが来てくれるかもしれないと、待っていた」
「何か言ってくれるかもしれないと、思っていた」
「自分から聞かなかったのに」
「自分から言わなかったのに」
「選ばれる側でいたかった」
口にするたびに、胸が痛んだ。
けれど、今度は言葉を止めなかった。
「それが、ずるいことだとも分かったわ」
「でも、怖かった」
「自分から行って、違った時に」
「今までの関係が変わってしまうのが怖かった」
悠真は、何も言わなかった。
その沈黙は、逃げではなかった。
詩織の言葉を、受け止めるための沈黙だった。
伝説の木の枝から、白い粉が落ちる。
粉は地面に触れる前に、文字になった。
見ました。
その下に、もう一つ。
まだ、終わっていません。
詩織は、その文字を見つめた。
そう。
見た。
言葉にもした。
でも、まだ終わっていない。
なぜなら、ここは明日の代わりではないから。
悠真も、同じものを見ていた。
「ここで全部言ったら」
悠真が言う。
「明日、言わなくて済む気がする」
「ええ」
詩織は頷いた。
「それでは、また終わったことにしてしまうわ」
「ここで言ったからいいって」
「夢の中で向き合ったからいいって」
「現実では、何もなかったように卒業してしまう」
その言葉に、校庭の空気が少し揺れた。
伝説の木の根元に、新しい文字が浮かぶ。
では、持ち帰りますか。
悠真は、その文字を見て、少しだけ目を細めた。
「持ち帰る」
詩織は、その言葉を繰り返した。
持ち帰る。
この場所で終わらせない。
この場所で告白しない。
この場所で互いの答えを確定させない。
見たものを、現実へ持って帰る。
聞かなかった問いを。
言わなかった答えを。
待っていた自分を。
理想を見ていた自分を。
外側に立つ自分を。
それらを持ったまま、明日の卒業式へ行く。
詩織は、胸の奥が震えるのを感じた。
怖い。
ここで済ませるより、ずっと怖い。
現実の卒業式には、人がいる。
友人がいる。
先生がいる。
いつもの校舎がある。
藤崎詩織として笑える自分がいる。
そこで、自分の言葉を持つ。
それは、夢の中で何かを言うより、ずっと難しい。
でも、たぶんそれをしなければ、この卒業式は閉じない。
詩織は、ゆっくり頷いた。
「私は、持ち帰る」
悠真が詩織を見る。
詩織は続けた。
「ここで終わらせない」
「ここで悠真くんに言わせるのでもない」
「ここで私が言ったことにするのでもない」
詩織は、自分の胸に手を当てた。
「明日、現実の卒業式で」
「私の言葉として、持っていく」
悠真は、静かに聞いていた。
その表情は、少し苦しそうだった。
けれど、逃げてはいなかった。
「俺も」
悠真は言った。
「ここで終わらせない」
「詩織に届いた自分を見ていたことも」
「幼馴染っていう距離に隠れていたことも」
「聞いてほしかったくせに、答える覚悟がなかったことも」
「持ち帰る」
詩織は、悠真を見る。
悠真は、少しだけ困ったように笑った。
「正直、現実で言えるかは分からない」
その言葉は、弱かった。
でも、正直だった。
詩織は頷く。
「私も、分からないわ」
「明日になったら、怖くなると思う」
「いつもの自分に戻りたくなると思う」
「でも」
詩織は、伝説の木を見上げた。
「何もなかったことには、もうしたくない」
悠真は、静かに頷いた。
「俺も」
二人の声は、大きくなかった。
けれど、伝説の木の下に届いた。
木の枝が、小さく揺れる。
根元の文字が、ゆっくり変わっていく。
ここでは終わらせない。
現実へ持ち帰る。
その文字は、冷たい記録ではなかった。
二人の決めたことが、黒板に書き残されたように見えた。
その時、詩織の影が一歩前に出た。
「それで」
詩織は、影を見る。
影は、詩織だけを見ていた。
悠真ではない。
伝説の木でもない。
まっすぐに、詩織を見ている。
「私は、どうするの?」
詩織は、息を止めた。
影の声は静かだった。
けれど、その問いは鋭かった。
「私を置いていくの?」
詩織は、すぐに答えられなかった。
悠真は何も言わない。
詩織が答えるべき問いだと、分かっているのだろう。
詩織は、影を見た。
待っていた私。
選ばれたかった私。
悠真くんに来てほしかった私。
外側に立った私。
綺麗に祝福したふりをした私。
祝福なんてしたくないと思った私。
そういう自分を、詩織はまだ完全には好きになれない。
胸を張って、これも私だと言い切るには、まだ怖い。
でも、置いていくことは、もうできなかった。
「置いていかない」
詩織は言った。
影の目が、少しだけ動く。
詩織は続けた。
「でも、あなたに言わせるわけでもない」
影は黙っている。
詩織は、ゆっくり言葉を選んだ。
「待っていた私がいたこと」
「選ばれたかった私がいたこと」
「外側に立つ私を見たくなかったこと」
「それは、もうなかったことにはしない」
「でも」
詩織は、自分の胸に手を当てる。
「明日、言葉を届けるのは私」
「あなたに言わせるのではなく」
「藤崎詩織として整えた顔だけで言うのでもなく」
「あなたを置いていかない私が、言う」
影は、長く黙っていた。
その沈黙の間、校庭には風の音だけがあった。
やがて、影は小さく笑った。
「まだ、綺麗に言うのね」
その言葉は、少し刺すようだった。
詩織は、小さく頷いた。
「そうかもしれない」
「まだ、私は綺麗に言おうとしている」
「あなたを完全に受け入れたわけでもない」
「あなたに許されたわけでもない」
影の目が、わずかに細くなる。
詩織は、逃げずに続けた。
「でも、置いていかない」
「それだけは、今決める」
影は、詩織を見つめていた。
やがて、その輪郭が少しだけ揺れた。
消えるのではない。
薄れるのでもない。
ただ、詩織との距離が少しだけ変わった。
近づいた。
でも、まだ重ならない。
影は言った。
「なら、明日も逃げないで」
詩織は、息を吸う。
「ええ」
「悠真くんが何も言わなくても?」
詩織の胸が痛んだ。
けれど、答えた。
「それでも」
「あなたが先に言うことになっても?」
怖い。
とても怖い。
それでも、ここまで来た。
詩織は頷いた。
「それでも」
影は、最後に問いを落とす。
「選ばれなかったとしても?」
その言葉に、詩織の体が強く震えた。
選ばれなかったとしても。
その可能性は、まだ怖い。
怖くないはずがない。
伝説の木の下へ行って、自分から言葉を届けて。
それでも届かなかったら。
それでも、悠真くんが同じ気持ちではなかったら。
外側に立つ自分は、現実になる。
詩織は、目を閉じた。
外側に立つ私。
祝福の外側。
届かなかった春。
その痛みを見た。
まだ受け入れきれてはいない。
でも、なかったことにはしないと決めた。
詩織は目を開ける。
「怖いわ」
正直に言った。
「でも、怖いから待つだけに戻るのは、もう嫌」
影は、黙った。
その答えで十分だったのかは分からない。
けれど、影はそれ以上問い詰めなかった。
悠真は、そのやり取りを黙って聞いていた。
詩織は、少しだけ悠真を見る。
彼は、何かを言いかけて、やめた。
代わりに、静かに言った。
「俺も、持って帰る」
詩織は、悠真を見る。
「詩織だけに言わせるんじゃなくて」
悠真は続けた。
「俺も、見たものを持って帰る」
「明日、怖くなっても」
「普通に終わらせたくなっても」
「ここで見たものを、なかったことにはしない」
それは、告白ではなかった。
答えでもない。
でも、詩織には大切な言葉だった。
悠真も、現実へ持ち帰ると言っている。
夢の中だけで終わらせないと言っている。
それだけで、少しだけ足元が確かになった。
伝説の木の根元に、また文字が浮かぶ。
では、戻りますか。
詩織は、その文字を見た。
戻る。
現実へ。
卒業式当日の朝へ。
何も解決していないままではない。
けれど、すべてが解決したわけでもない。
言うべき言葉を残したまま。
その言葉を持ったまま。
戻る。
詩織は、悠真を見た。
悠真も頷く。
二人は、同時に伝説の木を見上げた。
黒い枝の先から、白い粉が落ちる。
その粉が、今度は文字にならず、光になった。
淡い、朝の光。
卒業式当日の朝のような光。
校庭が少しずつ白くなっていく。
校舎も、校門も、伝説の木も、輪郭を失っていく。
詩織の影も、少しずつ白い光に包まれた。
詩織は、思わず手を伸ばす。
影は、まだ完全には重ならない。
けれど、離れてもいかなかった。
「まだ、私はここにいるわ」
影は言った。
「あなたの中に入ったふりはしない」
詩織は頷く。
「分かっている」
「でも、明日」
影は続ける。
「私を置いていったら、またここに戻るわよ」
その言葉は、脅しではなかった。
事実だった。
詩織は、静かに答えた。
「置いていかない」
影は、少しだけ目を細めた。
その表情は、信じたわけではないようだった。
でも、聞いたことは確かだった。
光が強くなる。
悠真の姿も、少しずつ白く滲む。
「詩織」
悠真の声が聞こえた。
「うん」
「明日」
そこで、悠真は止まった。
言葉を選んでいる。
詩織も、待った。
今度の沈黙は、逃げではなかった。
「明日、ちゃんと会おう」
それは、告白ではない。
約束とも言い切れない。
けれど、今の二人には十分だった。
詩織は頷いた。
「ええ」
声が震えた。
けれど、笑わなかった。
藤崎詩織として整えた笑顔ではなく、今の自分のまま頷いた。
「明日、ちゃんと」
光が、すべてを包み込む。
最後に、伝説の木の根元に文字が浮かんだ。
卒業式 未完了
その文字は、すぐに消えなかった。
けれど、その下に新しい文字が加わった。
現実へ持ち帰る。
詩織は、その文字を見た。
そして、目を閉じた。
白い朝の光が、すべてを満たした。