藤崎詩織は、伝説の木の下に立つ   作:エーアイ

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水瀬悠真は、藤崎詩織を見上げていた

水瀬悠真にとって、藤崎詩織という名前は、最初から特別だったわけではない。

 

少なくとも、本人はそう思っていた。

 

詩織は、幼馴染だった。

 

近所に住んでいて、親同士も顔見知りで、小さい頃から何度も顔を合わせていた。

 

学校へ行く時間が重なることもあった。

 

帰り道が途中まで同じになることもあった。

 

忘れ物を注意されたこともある。

 

宿題を後回しにしていることを見抜かれたこともある。

 

転びそうになって、逆に詩織の方が驚いた顔をしたこともある。

 

「悠真くん、ちゃんと前を見て歩かないと危ないわよ」

 

「見てるって」

 

「見てないから言ってるの」

 

そう言って、詩織は少しだけむきになった。

 

その頃の詩織は、確かにしっかりしていた。

 

でも、遠くはなかった。

 

悔しい時は悔しそうにした。

 

負けた時は、次は勝つと言った。

 

褒められれば、少し照れた顔をした。

 

悠真がだらしないことをすれば、呆れたように注意した。

 

藤崎詩織というより、ただの詩織だった。

 

少ししっかりしていて、少し負けず嫌いで、少しだけ悠真より前を歩いている女の子。

 

そのくらいだった。

 

だから、高校に入って同じクラスになった時も、悠真は最初、ただ自然に思った。

 

また詩織と同じ教室なのか。

 

それだけだった。

 

入学してすぐの春。

 

クラス発表の掲示板の前で、悠真は詩織を見つけた。

 

「同じクラスだな」

 

そう言うと、詩織は少し嬉しそうに笑った。

 

「ええ。よろしくね、悠真くん」

 

自然な会話だった。

 

幼馴染が同じクラスになった。

 

それだけのこと。

 

そのはずだった。

 

けれど、同じ教室で過ごすうちに、周囲の見方が少しずつ悠真の中へ入り込んできた。

 

「藤崎さんって、入試の成績良かったんだって」

 

「運動もできるらしいよ」

 

「綺麗だよな」

 

「水瀬、幼馴染なんだろ? いいな」

 

そう言われるたびに、悠真は曖昧に笑った。

 

いいな。

 

そう言われても、最初は何がいいのか分からなかった。

 

詩織は昔から知っている。

 

家も近い。

 

普通に話せる。

 

名前も呼べる。

 

それだけのことだと思っていた。

 

けれど、周囲は詩織をそうは見なかった。

 

藤崎詩織。

 

成績優秀。

 

運動もできる。

 

容姿も良い。

 

先生からも信頼される。

 

クラスメイトからも頼られる。

 

誰に対しても感じが良い。

 

その言葉が、一つずつ彼女の周りに積み重なっていく。

 

詩織自身は、何も変わっていないように見えた。

 

授業中の姿勢も。

 

誰かに声をかけられた時の返事も。

 

先生に頼まれごとをされた時の微笑みも。

 

悠真に向ける「悠真くん」という呼び方も。

 

昔と同じものが、いくつも残っていた。

 

それなのに、悠真の中で何かが少しずつ変わっていった。

 

同じ教室にいるはずなのに、詩織が少し高い場所にいるように見える。

 

同じ廊下を歩いているはずなのに、彼女の周りだけ空気が整って見える。

 

誰かが詩織の名前を呼ぶたびに、悠真はその名前が自分の知っているものと少し違って聞こえるようになった。

 

藤崎さん。

 

藤崎詩織。

 

その名前は、幼馴染の名前であるはずなのに、いつの間にか教室の中で特別な響きを持ち始めていた。

 

悠真は、気づけば詩織を見上げるようになっていた。

 

見上げる。

 

その言葉が、一番近かった。

 

詩織は、実際に高い場所に立っていたわけではない。

 

同じ教室にいた。

 

同じ時間割で授業を受けていた。

 

同じ行事に参加していた。

 

同じ卒業へ向かっていた。

 

それでも、悠真には彼女が少し遠く見えた。

 

テストで良い点を取る詩織。

 

体育の授業で自然に動ける詩織。

 

先生に頼られる詩織。

 

友人に囲まれる詩織。

 

誰かに声をかけられ、困ったように笑いながらもきちんと応える詩織。

 

そのたびに、悠真は思った。

 

すごいな。

 

さすがだな。

 

詩織らしいな。

 

そして、そのたびに少しずつ、昔の距離が分からなくなっていった。

 

幼馴染だから近い。

 

それは確かだった。

 

詩織の名前を呼べる。

 

詩織も悠真の名前を呼ぶ。

 

何気ない会話もできる。

 

先生から頼まれたプリントを渡せば、ありがとうと笑ってくれる。

 

でも、その近さは本当に近さなのだろうか。

 

ただ昔から知っているというだけではないのか。

 

そう思うことが、少しずつ増えていった。

 

卒業式まで、あと少しになった頃。

 

放課後の廊下で、悠真は窓の外を見ていた。

 

夕方の光が校庭を薄く染めている。

 

校舎の奥に、伝説の木が見えた。

 

卒業式の日。

 

伝説の木の下で、女の子から告白されて結ばれた二人は、永遠に幸せになれる。

 

その噂を、悠真も知っている。

 

本気で信じているわけではない。

 

でも、卒業式が近づくにつれて、その木はただの木ではなくなっていく。

 

誰かが何かを言うかもしれない場所。

 

誰かが誰かを選ぶ場所。

 

そして、誰かが選ばれる場所。

 

悠真は、伝説の木の下に立つ詩織を想像した。

 

制服姿で。

 

少しだけ緊張して。

 

けれど、きっと綺麗に立っている。

 

その想像は、あまりにも自然だった。

 

驚くほど、似合っていた。

 

伝説の木の下に立つ藤崎詩織。

 

その絵は、悠真の中にすぐ浮かんだ。

 

浮かんでしまった。

 

だから、少しだけ怖くなった。

 

自分は今、詩織を想像したのだろうか。

 

それとも、藤崎詩織という名前にふさわしい姿を想像したのだろうか。

 

その違いが、分からなかった。

 

「悠真くん」

 

声がして、悠真は振り向いた。

 

詩織が、廊下の少し先に立っていた。

 

手には、卒業文集用の確認用紙を持っている。

 

「これ、先生に提出してくるわ」

 

「ああ、頼む」

 

短い会話だった。

 

それだけで済む会話。

 

詩織は微笑んだ。

 

いつものように。

 

穏やかに。

 

自然に。

 

藤崎詩織らしく。

 

悠真は、その笑顔を見た。

 

その瞬間、小さい頃の詩織を思い出した。

 

転んで少し泣きそうになっていた詩織。

 

負けてむきになっていた詩織。

 

悠真の忘れ物を見つけて、少し怒ったような顔をしていた詩織。

 

あの頃の詩織は、もっと近かった。

 

そう思って、すぐに違う気がした。

 

近かったのではない。

 

悠真が、見上げていなかっただけかもしれない。

 

詩織は今も、同じ場所にいるのかもしれない。

 

幼馴染として。

 

一人の女の子として。

 

けれど、悠真が勝手に少し高い場所へ置いた。

 

藤崎詩織という名前の、届かない場所へ。

 

「悠真くん?」

 

詩織が不思議そうに首を傾げる。

 

悠真は我に返った。

 

「あ、悪い。ちょっと考え事してた」

 

「卒業式のこと?」

 

「まあ、そんな感じ」

 

「もうすぐだものね」

 

「そうだな」

 

会話はそこで止まった。

 

続けようと思えば、続けられた。

 

卒業式の後のこと。

 

進学先のこと。

 

伝説の木のこと。

 

さっき自分が想像してしまった、木の下の詩織のこと。

 

何かを聞くことはできたはずだった。

 

でも、悠真は言わなかった。

 

詩織も、それ以上は聞かなかった。

 

二人の間には、そういう沈黙がいくつもあった。

 

昔は、こんな沈黙はなかった気がする。

 

いや、あったのかもしれない。

 

ただ、気にならなかっただけかもしれない。

 

幼馴染だから。

 

そう思えば、沈黙にも理由はいらなかった。

 

けれど今は、その言葉だけでは足りなくなっている気がした。

 

「じゃあ、また明日」

 

詩織が言った。

 

いつもの言葉だった。

 

何度も聞いてきた言葉。

 

小さい頃から。

 

一年の春も。

 

二年の廊下でも。

 

三年の教室でも。

 

けれど、卒業式が近づいた今、その言葉はいつもと同じ形をしていなかった。

 

また明日。

 

その「明日」が、いつまで続くのか分からない。

 

卒業式が来れば、当たり前のように同じ教室で会う日々は終わる。

 

会おうと思わなければ会えない。

 

話そうと思わなければ話せない。

 

幼馴染という言葉だけでは、距離を自動で保ってはくれない。

 

そんなことを考えた瞬間、悠真の胸の奥に小さな痛みが走った。

 

まだ何も起きていない。

 

卒業式は、まだ来ていない。

 

何も終わっていない。

 

それなのに、もう何かを言い損ねた後のような気がした。

 

「うん」

 

悠真は答えた。

 

「また明日」

 

詩織は微笑んで、廊下を歩いていった。

 

悠真は、その背中を見送った。

 

昔から知っている背中。

 

けれど、いつの間にか見上げるようになった背中。

 

窓の外では、伝説の木が夕方の光の中に立っている。

 

悠真は、それを見た。

 

木の下に立つ詩織を、もう一度想像してしまう。

 

それは綺麗だった。

 

とても自然だった。

 

藤崎詩織らしかった。

 

だからこそ、胸の奥に小さな違和感が残った。

 

自分は、藤崎詩織を見ていた。

 

そう思っていた。

 

けれど、本当はどうなのだろう。

 

幼馴染だった少女を見ていたのか。

 

それとも、藤崎詩織という名前に、自分で距離を作っていたのか。

 

その問いは、まだ言葉になりきらなかった。

 

ただ、胸の奥に小さく残った。

 

卒業式まで、あと少し。

 

水瀬悠真は、藤崎詩織を見上げていた。

 

見上げていることに慣れすぎて、それが本当に彼女を見ることなのか、まだ分からないまま。

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