藤崎詩織は、朝の光で目を覚ました。
カーテンの隙間から、薄い春の光が差し込んでいる。
部屋は静かだった。
いつもの朝。
卒業式当日の朝。
詩織は、しばらく天井を見ていた。
夢を見ていた。
そう思った。
けれど、その一言で片づけるには、胸の奥に残っているものが重すぎた。
夢だった。
そう言えば、たぶんそれで済む。
目を覚ましたのだから。
部屋にいるのだから。
机の上には、昨日確認した卒業式のプリントが置かれている。
時計の針も、いつも通りに進んでいる。
現実は戻っている。
いや。
戻ったのではない。
時間が巻き戻ったわけではない。
昨日の夜に眠り、今、卒業式当日の朝を迎えた。
ただ、それだけだった。
予定通りの朝。
予定通りの卒業式。
詩織は、ゆっくりと体を起こした。
その時、手のひらに違和感があった。
何かを握っていたような感覚。
白い粉が残っているような感覚。
詩織は、自分の手を見つめる。
もちろん、何もない。
チョークの粉も。
黒板の文字も。
伝説の木の根元に浮かんだ言葉も。
何も残っていない。
それなのに、手は覚えていた。
チョークを持った感触。
黒板に書いた、震えた文字。
私は聞けた。
でも、聞かなかった。
詩織は、目を伏せた。
胸の奥に、言葉が残っている。
待っていた私。
選ばれたかった私。
外側に立つ私。
来てほしかった私。
置いていかない。
でも、あなたに言わせるわけでもない。
夢の中で交わした言葉が、断片のように残っている。
すべてをはっきり覚えているわけではなかった。
景色はもう曖昧になり始めている。
黒い枝。
校門。
白い粉。
伝説の木。
悠真くんの声。
詩織の影の目。
思い出そうとすると、夢らしく輪郭がぼやける。
けれど、消えていないものがある。
感覚。
痛み。
怖さ。
そして、決めたこと。
ここで終わらせない。
現実へ持ち帰る。
詩織は、息を吸った。
胸が少し苦しい。
でも、その苦しさは昨日までと違っていた。
何も分からない苦しさではない。
見ないふりをしていたものが、そこにあると知ってしまった苦しさだった。
詩織はベッドから降りる。
カーテンを開けると、朝の光が部屋に入ってきた。
空は晴れていた。
卒業式にふさわしい朝。
そう言われれば、きっとそうなのだろう。
詩織は、窓に映った自分を見る。
いつもの藤崎詩織が、そこにいた。
乱れていない髪。
少し眠そうな目。
けれど、顔は崩れていない。
今日もきっと、笑える。
友人に声をかけられれば、穏やかに答えられる。
先生に挨拶をすれば、きちんと礼を言える。
卒業おめでとうと言われれば、ありがとうと返せる。
藤崎詩織として、正しく卒業式を迎えられる。
それができてしまう。
だからこそ、詩織は怖かった。
窓に映った自分の後ろに、一瞬だけ影が見えた気がした。
制服姿の自分。
少し暗い目をした自分。
待っていた私。
選ばれたかった私。
外側に立つ私。
詩織は、振り返らなかった。
逃げるようには。
ただ、窓に映った自分を見つめたまま、小さく言った。
「置いていかないわ」
声は部屋に落ちた。
誰かに聞かせるためではない。
自分に聞かせるための言葉だった。
影は答えなかった。
それでいいと思った。
許されたわけではない。
すべて受け入れられたわけでもない。
でも、今日、自分はそれを持っていく。
卒業式へ。
伝説の木へ。
待つためではなく。
自分で言うために。
詩織は、制服に袖を通した。
ボタンを留める。
リボンを整える。
鏡の前に立つ。
そこには、いつもの藤崎詩織がいた。
けれど、少しだけ違った。
どこが違うのかは分からない。
表情も、姿勢も、髪も、何も変わっていないように見える。
ただ、胸の奥に、昨夜まで見ないふりをしていたものがある。
その重さだけが、違っていた。
朝食の席では、家族がいつも通りだった。
「卒業式ね」
そう言われ、詩織は頷いた。
「うん」
「忘れ物はない?」
「大丈夫」
いつもの会話。
穏やかな朝。
誰も、詩織が夢のような学校を歩いてきたことを知らない。
誰も、詩織が自分の影と向き合ったことを知らない。
それでよかった。
これは、見せるものではない。
自分が持っていくものだ。
食事を終え、玄関で靴を履く。
扉を開けると、春の空気が頬に触れた。
少し冷たい。
でも、冬ほどではない。
詩織は、家の前で一度だけ空を見上げた。
卒業式当日の空。
現実の空。
夢の中の黒い天井ではない。
白い粉の降る空でもない。
本当の朝だった。
詩織は歩き出した。
学校へ向かう道は、いつもと同じだった。
通い慣れた道。
角を曲がり、坂を上り、校舎が見えてくる。
同じ制服の生徒たちが前を歩いている。
笑い声が聞こえる。
写真を撮ろうと話している声。
卒業式の後の予定を話す声。
伝説の木の噂を、冗談めかして口にする声。
詩織は、その声を聞きながら歩いた。
昨日までなら、少し困ったように笑って流していただろう。
今日も、きっとそうできる。
でも、流すだけでは終われない。
そのことを、もう知っている。
一方で、水瀬悠真もまた、朝の光で目を覚ましていた。
目覚まし時計が鳴る前だった。
悠真は、しばらく天井を見ていた。
夢を見た。
そう思った。
けれど、ただの夢ではない。
そう思うだけのものが、胸の奥に残っている。
校門。
黒板。
聞かなかった問い。
外側に立つ詩織。
伝説の木。
白い粉。
そして、詩織の声。
明日、ちゃんと。
悠真は、右手を見た。
何かを握っていたような感覚が残っている。
白い紙。
聞いてほしかった。
それが詩織の言葉なのか、自分の言葉なのか分からなかった。
たぶん、どちらでもあった。
その感覚だけが、手のひらに残っている。
「……夢、だよな」
呟いても、答えはない。
それでも、夢だったと言い切るには、胸が痛かった。
悠真は、体を起こす。
机の上には、卒業式の案内が置かれている。
今日、卒業式がある。
それは変わっていない。
時間が戻ったわけではない。
何かがやり直しになったわけでもない。
ただ、朝が来た。
卒業式当日の朝が。
悠真は、制服に着替えながら、昨夜の言葉を思い出していた。
藤崎詩織に届いた自分を見ていたのかもしれない。
その言葉を、夢の中で口にした。
まだ、完全には言い切れていない。
でも、なかったことにはできない。
詩織に近づきたかった。
それは本当だ。
努力したことも、本物だと思いたい。
でも、その中に、自分が報われたい気持ちもあった。
藤崎詩織に選ばれた自分を見たい気持ちもあった。
それを認めるのは、まだ苦い。
けれど、持って帰ると決めた。
夢の中だけで終わらせないと決めた。
悠真は、鞄を持つ。
部屋を出る前に、ふと窓の外を見た。
朝の光。
現実の光。
夢の中で見た春の光とは違う。
けれど、どこか似ている。
悠真は、小さく息を吐いた。
「ちゃんと会おう」
自分で言った言葉を、もう一度口の中で確かめる。
それは告白ではない。
答えでもない。
でも、逃げないための約束だった。
学校へ向かう道で、悠真は何度か足を止めそうになった。
卒業式。
今日で終わる。
そう思うと、胸の奥がざわつく。
普通に終われる。
普通に笑える。
普通に卒業できる。
それが怖かった。
校門が近づく。
あの夢で、世界が止まった場所。
現実の校門は、何事もなくそこに立っていた。
生徒たちが通っていく。
誰も止まらない。
誰も気づかない。
当然だった。
ここは現実なのだから。
悠真は、校門の前で一瞬だけ足を止めた。
夢の中では、ここから出るかどうかを問われた。
何も言わずに出れば、すべて終わる場所だった。
今は違う。
今は、入る場所だ。
卒業式へ向かうために。
悠真は、校門をくぐった。
その時、校庭の向こうに、詩織の姿が見えた。
藤崎詩織。
制服姿。
背筋を伸ばして、友人に声をかけられている。
いつものように見えた。
けれど、悠真は立ち止まった。
いつものように見える。
でも、昨夜見たものを、もうなかったことにはできない。
詩織も、何かを持ってここに来ている。
そう思った。
詩織も、悠真に気づいた。
一瞬だけ、二人の視線が合う。
友人たちの声。
校庭のざわめき。
卒業式の朝の空気。
その全部の中で、二人はほんの短い時間だけ、互いを見た。
言葉は交わさなかった。
まだ、ここではない。
詩織は、軽く会釈するように目を細めた。
悠真も、短く頷いた。
それだけだった。
けれど、その短いやり取りの中に、昨夜の言葉が残っていた。
明日、ちゃんと。
詩織は、友人たちと校舎へ向かった。
悠真も、自分の教室へ向かう。
廊下は、卒業式の日の特別な空気に満ちていた。
浮き立つ声。
少し寂しそうな笑い。
写真を撮る生徒たち。
もうこの廊下を歩くのも最後だ、という誰かの声。
詩織は、その中を歩いた。
いつも通りに挨拶をする。
いつも通りに微笑む。
けれど、胸の奥には、いつも通りではないものがあった。
待っていた私。
選ばれたかった私。
外側に立つ私。
それらを抱えたまま、詩織は教室に入った。
悠真もまた、教室に入る。
友人に声をかけられ、軽く返事をする。
いつものように笑おうとして、少しだけ遅れる。
それでも、誰も気づかない。
卒業式の朝は、誰もが少し落ち着かないものだから。
ホームルームが始まる。
担任の先生が、卒業式の流れを説明する。
何度も聞いた内容。
集合。
入場。
証書授与。
校歌。
退場。
式の後は、教室に戻って最後の挨拶。
その先に、伝説の木がある。
誰もそのことを正式には言わない。
噂だから。
学校行事ではないから。
でも、きらめき高校の卒業式に、その木の存在は確かにある。
詩織は、プリントを見つめていた。
そこには当然、伝説の木のことなど書かれていない。
それでも、彼女の胸にはその場所があった。
待つためではない。
自分で言うために。
その言葉を、まだはっきり声にはできない。
けれど、胸の奥では確かに残っている。
悠真は、少し離れた席から詩織を見た。
見上げるのではなく。
届いた自分を見るためでもなく。
ただ、今そこにいる詩織を見るように。
完全にはできていない。
すぐに理想の藤崎詩織が重なりそうになる。
それでも、見ようと思った。
現実の詩織を。
今朝ここにいる、一人の少女を。
チャイムが鳴った。
卒業式の時間が近づいていく。
生徒たちが立ち上がる。
椅子の音。
制服の布が擦れる音。
誰かの小さなため息。
教室の扉が開く。
体育館へ向かう列ができる。
詩織は立ち上がった。
悠真も立ち上がる。
二人は別々の位置にいた。
近くはない。
けれど、遠くもない。
列が動き出す。
廊下へ出る。
体育館へ向かう。
詩織は、前を向いて歩いた。
心臓が静かに速く打っている。
夢は終わった。
でも、持ち帰ったものは消えていない。
卒業式は、予定通り始まる。
やり直しではない。
巻き戻りでもない。
これが、現実の卒業式だった。
詩織は、胸の奥にいる影の気配を感じながら、体育館へ向かった。
悠真もまた、列の中で前を向いていた。
明日、ちゃんと。
その言葉は、もう今日のものになっていた。
今日、ちゃんと。
彼はそう言い換える。
声には出さずに。
卒業式の扉が開く。
春の光とは違う、体育館の明るさが二人を迎えた。
二人は、それぞれの列の中で、現実の卒業式へ入っていった。