藤崎詩織は、伝説の木の下に立つ   作:エーアイ

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藤崎詩織は、伝説の木へ歩く

 最後のホームルームが終わると、教室の空気は一気にほどけた。

 

 誰かが椅子を引く。

 

 誰かが友人の名前を呼ぶ。

 

 机の間を移動する足音。

 

 笑い声。

 

 泣きそうな声。

 

「写真撮ろう」

 

「先生、こっち向いてください」

 

「寄せ書き、まだ書いてない人いる?」

 

 そんな声が、教室のあちこちで重なっていた。

 

 卒業式は終わった。

 

 本当に終わった。

 

 藤崎詩織は、その中に立っていた。

 

 友人に呼ばれ、写真を撮った。

 

 肩を寄せ、微笑む。

 

 もう一枚。

 

 今度は先生も一緒に。

 

 少し照れたように笑う担任の横で、詩織はいつも通りに微笑んだ。

 

「藤崎さん、卒業おめでとう」

 

「ありがとうございます」

 

 先生にそう言われ、詩織は深く頭を下げた。

 

「先生も、お体に気をつけてください」

 

「最後まで藤崎さんらしいな」

 

 先生は、少しだけ寂しそうに笑った。

 

 その言葉に、詩織も笑った。

 

 藤崎さんらしい。

 

 その言葉は、何度も聞いてきた。

 

 今日も、きっと何度も聞く。

 

 以前なら、それだけで済ませていただろう。

 

 今も、表情は崩れない。

 

 けれど、胸の奥には小さな影がいる。

 

 待っていた私。

 

 選ばれたかった私。

 

 外側に立つ私。

 

 置いていかない、と言った私。

 

 詩織は、その気配を感じながら、もう一度先生に頭を下げた。

 

 友人たちが卒業後の予定を話している。

 

「このあと、駅前行く?」

 

「その前に校庭で写真撮りたい」

 

「伝説の木の前も行く?」

 

 その言葉に、詩織の胸が小さく鳴った。

 

 伝説の木。

 

 軽い会話の中に出たその名前だけで、手のひらが熱くなる。

 

 友人の一人が、詩織の顔をのぞき込む。

 

「詩織も行く?」

 

 詩織は、一瞬だけ返事に迷った。

 

 皆と写真を撮る。

 

 伝説の木の前で、卒業の記念として笑う。

 

 それは自然なことだった。

 

 きっと、いつもの藤崎詩織なら、穏やかに頷いただろう。

 

 けれど、今日の詩織にとって、伝説の木はただの記念写真の場所ではなかった。

 

「ごめんね」

 

 詩織は微笑んだ。

 

「少しだけ、先に用事があるの」

 

「用事?」

 

「うん。少しだけ」

 

 友人は、何かを察したように瞬きをした。

 

 それから、軽く笑った。

 

「そっか。じゃあ、あとでね」

 

「うん」

 

 詩織は頷いた。

 

 胸の奥に、静かな緊張が増えていく。

 

 用事。

 

 そんな言い方しかできなかった。

 

 けれど、嘘ではない。

 

 自分で言うために行く。

 

 そのための用事だった。

 

 教室の向こう側で、水瀬悠真が友人たちと話していた。

 

 卒業証書の筒を手に、少し困ったように笑っている。

 

 友人の一人が、悠真の肩を叩いた。

 

「水瀬、このあとどうすんの?」

 

「まだ決めてない」

 

「写真撮ろうぜ」

 

「ああ。あとで」

 

「あとでって、逃げるなよ」

 

 悠真は苦笑した。

 

 そのやり取りは、いつもの悠真だった。

 

 けれど、詩織にはもう、以前と同じようには見えなかった。

 

 悠真くんも、持ってきている。

 

 見たものを。

 

 言わなかったものを。

 

 なかったことにしないと決めたものを。

 

 詩織は、胸の前で手を重ねた。

 

 足が、すぐには動かなかった。

 

 声をかける。

 

 それだけのこと。

 

 幼馴染なら、何も不自然ではない。

 

 けれど、今日のそれは違う。

 

 写真を撮ろう、ではない。

 

 帰ろう、でもない。

 

 少し話せる、でも足りない気がした。

 

 伝説の木へ来てほしい。

 

 その言葉を、自分から言う。

 

 それだけで、喉が乾いた。

 

 待っていた自分が、胸の奥でこちらを見ている気がした。

 

 選ばれたかった自分が、息を潜めている。

 

 外側に立つ自分が、もし届かなかった時のことを静かに思い出させる。

 

 それでも。

 

 詩織は一歩、歩き出した。

 

 教室のざわめきの中を進む。

 

 机と机の間を抜ける。

 

 卒業証書を抱えた生徒たちの横を通る。

 

 悠真が、詩織に気づいた。

 

 友人たちとの会話が、そこで少しだけ止まる。

 

「詩織?」

 

 いつもの呼び方。

 

 いつもの声。

 

 けれど、その奥に小さな緊張があった。

 

 詩織は、悠真の前で足を止めた。

 

 友人たちが、何となく二人を見ている。

 

 からかうような空気も、少しだけある。

 

 卒業式の日。

 

 伝説の木の噂。

 

 藤崎詩織と水瀬悠真。

 

 その組み合わせは、きっと誰かの想像の中にあった。

 

 詩織は、その視線に気づいていた。

 

 以前なら、それだけで笑って流していたかもしれない。

 

「何でもないわ」

 

「あとで」

 

「またね」

 

 そう言って、安全な距離へ戻ったかもしれない。

 

 でも、今日は違う。

 

 詩織は、悠真を見た。

 

 理想の中の誰かではなく。

 

 今日、同じ卒業式を終えた幼馴染を。

 

「悠真くん」

 

「うん」

 

 詩織は、一度だけ息を吸った。

 

「少し、来てくれる?」

 

 悠真の表情が変わった。

 

 驚き。

 

 緊張。

 

 そして、どこかで予感していたような静けさ。

 

「どこへ?」

 

 そう聞く声は、少しかすれていた。

 

 詩織は、すぐには答えられなかった。

 

 教室のざわめきが遠くなる。

 

 伝説の木。

 

 その名前を言えば、もう戻れない。

 

 それでも、言うためにここまで来た。

 

 詩織は、静かに答えた。

 

「伝説の木まで」

 

 悠真は、息を止めた。

 

 友人たちの空気が変わる。

 

 誰かが小さく「お」と言いかけて、別の誰かに肘で止められた。

 

 詩織は、そちらを見なかった。

 

 見れば、藤崎詩織として笑ってしまう気がした。

 

 困ったように。

 

 恥ずかしそうに。

 

 何でもないことのように。

 

 だから、悠真だけを見た。

 

「話したいことがあるの」

 

 言えた。

 

 声は大きくなかった。

 

 でも、逃げなかった。

 

 悠真は、しばらく詩織を見ていた。

 

 それから、静かに頷いた。

 

「分かった」

 

 たったそれだけ。

 

 けれど、詩織の胸の奥で何かがほどけた。

 

 悠真は、友人たちに短く声をかけた。

 

「悪い。少し行ってくる」

 

「おう」

 

「あとでな」

 

 友人たちは、思ったよりも軽く返した。

 

 その中には、からかいをこらえている顔もあった。

 

 けれど、誰も引き止めなかった。

 

 卒業式の日だった。

 

 誰もが、何かを終わらせたり、何かを始めたりする日なのだと、どこかで分かっているのかもしれない。

 

 詩織は、教室を出た。

 

 悠真が少し後ろからついてくる。

 

 廊下に出ると、教室のざわめきが少し遠くなった。

 

 校舎の中は、卒業式後の空気で満ちていた。

 

 廊下のあちこちで写真を撮る生徒たち。

 

 先生に挨拶する生徒。

 

 下級生から花束を受け取る卒業生。

 

 笑い声と泣き声が混ざった空気。

 

 詩織は、その中を歩いた。

 

 悠真は隣に並んだ。

 

 ほんの少し距離がある。

 

 幼馴染として自然な距離より、少しだけ慎重な距離。

 

 でも、逃げる距離ではなかった。

 

 しばらく、二人は何も言わなかった。

 

 言葉がなかったわけではない。

 

 ありすぎて、どれから出せばいいのか分からなかった。

 

 階段を下りる。

 

 昇降口へ向かう。

 

 窓の外に、春の校庭が見える。

 

 夢のような学校の黒い枝ではない。

 

 現実の校庭。

 

 空は青く、風は少し冷たい。

 

 白い粉は降っていない。

 

 ただ、春の光がある。

 

 悠真が、小さく言った。

 

「本当に、終わったんだな」

 

 詩織は横を見る。

 

「卒業式?」

 

「うん」

 

 悠真は前を向いたまま答えた。

 

「夢じゃなくて」

 

 詩織は、少しだけ目を伏せた。

 

「ええ」

 

 現実の卒業式は終わった。

 

 式も。

 

 ホームルームも。

 

 先生の言葉も。

 

 教室の拍手も。

 

 全部、現実として終わった。

 

 だからこそ、ここから先は自分たちの時間だった。

 

 終わった式の後に、終わらせないものを持って歩く時間。

 

 昇降口で靴を履き替える。

 

 下駄箱の扉が閉まる音が、少し大きく聞こえた。

 

 三年間使った下駄箱。

 

 もう、明日からは使わない。

 

 そんな当たり前のことが、胸に染みた。

 

 校舎を出ると、春の風が二人を包んだ。

 

 校庭には、まだ生徒がたくさんいた。

 

 写真を撮る人。

 

 友人同士で笑う人。

 

 部活の後輩に囲まれている人。

 

 先生に最後の挨拶をしている人。

 

 卒業式後の明るさ。

 

 その明るさの中を、詩織と悠真は歩く。

 

 伝説の木は、校庭の奥にあった。

 

 遠目にも分かる。

 

 昔からそこにある木。

 

 きらめき高校の噂の中心。

 

 何度も話題に上がった木。

 

 けれど、詩織にとって、その木はもう噂だけの場所ではなかった。

 

 待つ場所ではない。

 

 自分で言うために行く場所。

 

 そう思った瞬間、足が少しだけ重くなる。

 

 怖い。

 

 今でも怖い。

 

 夢の中で決めたからといって、現実で簡単にできるわけではない。

 

 むしろ、現実だからこそ怖い。

 

 人がいる。

 

 空がある。

 

 時間が進んでいる。

 

 ここで言えば、言葉は現実になる。

 

 夢の中の黒板に書いた文字のように、消えてはくれない。

 

 悠真も黙っていた。

 

 詩織は、彼が何を考えているのか分からない。

 

 分からないから、聞かなければならない。

 

 でも、今はまだ、その前に自分が言うべきことがある。

 

 悠真が、ふと立ち止まりかけた。

 

 詩織も足を緩める。

 

「詩織」

 

 呼ばれて、胸が鳴った。

 

「うん」

 

 悠真は、何かを言いかけた。

 

 でも、すぐに言葉を飲み込んだ。

 

 詩織は、それを見ていた。

 

 以前なら、その沈黙をそのままにしたかもしれない。

 

 聞けたのに、聞かなかった。

 

 それを、自分はもう知っている。

 

 だから、詩織は小さく尋ねた。

 

「何?」

 

 悠真は、少し驚いたようにこちらを見る。

 

 それから、困ったように笑った。

 

「いや」

 

「うん」

 

「ここで、俺が先に何か言うのは違う気がした」

 

 詩織は、息を止めた。

 

 悠真は、視線を伝説の木へ向ける。

 

「でも、何も言わないのも違うと思った」

 

 詩織は、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。

 

 それは告白ではなかった。

 

 答えでもなかった。

 

 けれど、悠真もこの沈黙から逃げようとしていない。

 

 そのことが分かった。

 

「ありがとう」

 

 詩織は言った。

 

 悠真は、少しだけ目を見開く。

 

「まだ、何も言ってない」

 

「ううん」

 

 詩織は首を横に振る。

 

「今のは、言ってくれたことだと思う」

 

 悠真は、何も返さなかった。

 

 ただ、少しだけ表情を緩めた。

 

 二人はまた歩き出す。

 

 伝説の木が近づいてくる。

 

 その木の下には、今は誰もいなかった。

 

 少し離れたところで、何人かの生徒が写真を撮っている。

 

 けれど、木の真下は空いている。

 

 まるで、そこだけが待っていたように。

 

 詩織は、その考えをすぐに打ち消した。

 

 違う。

 

 待っていたのは木ではない。

 

 待っていたのは、自分だ。

 

 そして、今日は待つために来たのではない。

 

 詩織の胸の奥で、影が静かに息をした気がした。

 

 来てほしかった私。

 

 選ばれたかった私。

 

 外側に立つ私。

 

 その全部を置いていかない。

 

 でも、その全部に言わせるのでもない。

 

 詩織自身が言う。

 

 伝説の木の前で、二人は足を止めた。

 

 風が枝を揺らす。

 

 葉が擦れる音が、静かに降ってくる。

 

 夢の中で見た黒い枝ではない。

 

 現実の木。

 

 春の午後の光を受けた、普通の木。

 

 それでも、この学校の誰もが知っている特別な場所。

 

 詩織は、木を見上げた。

 

 ここまで来た。

 

 そう思った。

 

 伝説の木の外ではない。

 

 誰かを待つためでもない。

 

 自分で歩いて、ここまで来た。

 

 悠真は、詩織の少し横に立っている。

 

 正面には立っていない。

 

 まだ、言葉は始まっていない。

 

 詩織は、深く息を吸った。

 

 胸が震える。

 

 手も少し震えている。

 

 それでも、逃げるための震えではなかった。

 

 ここから言うのだ。

 

 自分の言葉で。

 

 詩織は、悠真の方を向いた。

 

 悠真も、ゆっくり詩織を見る。

 

 二人の間に、春の風が通った。

 

 言葉は、まだ出ていない。

 

 けれど、もう始まっていた。

 

 藤崎詩織は、伝説の木の下に立っていた。

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