藤崎詩織は、伝説の木の下に立つ   作:エーアイ

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藤崎詩織は、伝説の木の下に立つ

 藤崎詩織は、伝説の木の下に立っていた。

 

 春の風が、枝を静かに揺らしている。

 

 卒業式は終わった。

 

 最後のホームルームも終わった。

 

 教室のざわめきも、友人たちの笑い声も、少し遠くにある。

 

 ここには、詩織と悠真だけがいた。

 

 水瀬悠真は、詩織の前に立っている。

 

 少し緊張した顔で。

 

 けれど、逃げるようには見えなかった。

 

 詩織は、そんな悠真を見た。

 

 幼馴染。

 

 ずっと近くにいた人。

 

 いつの間にか、遠くなった人。

 

 見ていたのに聞けなかった人。

 

 来てほしかった人。

 

 そして今、自分が呼んだ人。

 

 詩織は、胸の前で手を握った。

 

 指先が震えている。

 

 夢の中で見た黒い枝は、ここにはない。

 

 白い粉も降っていない。

 

 校門に文字も浮かばない。

 

 詩織の影も、目に見える形では立っていない。

 

 それでも、胸の奥にはいる。

 

 待っていた私。

 

 選ばれたかった私。

 

 外側に立つ私。

 

 置いていかないと決めた私。

 

 その全部を抱えたまま、詩織はここに立っている。

 

 待つためではなく。

 

 自分で言うために。

 

「悠真くん」

 

 名前を呼ぶ。

 

 声は、思っていたより小さかった。

 

「うん」

 

 悠真は答えた。

 

 いつもの声だった。

 

 けれど、いつもより慎重だった。

 

 詩織が何かを言おうとしていることを、分かっている声だった。

 

 詩織は、一度だけ息を吸った。

 

 言葉は、何度も頭の中で形になりかけた。

 

 きれいな言い方。

 

 正しい言い方。

 

 藤崎詩織らしい、落ち着いた言い方。

 

 けれど、そのどれも違う気がした。

 

 完璧な言葉にしてしまえば、また何かを隠してしまう。

 

 待っていた私も。

 

 怖かった私も。

 

 選ばれたかった私も。

 

 全部を整えて、きれいな告白にしてしまう気がした。

 

 だから、詩織は少しだけ目を伏せた。

 

「うまく言えないかもしれない」

 

 最初にそう言った。

 

 悠真は、何も言わなかった。

 

 急かさない。

 

 慰めない。

 

 ただ、待っている。

 

 その沈黙に、詩織は少しだけ救われた。

 

「私は、ずっと……」

 

 そこまで言って、言葉が止まる。

 

 ずっと。

 

 何を。

 

 待っていた。

 

 見ていた。

 

 聞けなかった。

 

 言わなかった。

 

 どれも本当で、どれもそのまま出すには怖かった。

 

 詩織は、自分の指先を見た。

 

 震えている。

 

 それでも、逃げるための震えではない。

 

「悠真くんが、変わっていくことに気づいていたわ」

 

 悠真の表情が、少しだけ動いた。

 

 詩織は続けた。

 

「勉強を頑張っていたことも」

 

「少しずつ、前より遠くを見ようとしていたことも」

 

「何かに近づこうとしていたことも」

 

「私は、たぶん気づいていた」

 

 風が吹く。

 

 枝の葉が擦れる。

 

 詩織は、顔を上げた。

 

「でも、聞かなかった」

 

 悠真は、黙って聞いている。

 

「何のために頑張っているの、って」

 

「誰に見てほしいの、って」

 

「聞けたのに、聞かなかった」

 

 声が少し震えた。

 

 でも、止めなかった。

 

「怖かったの」

 

「聞いたら、答えを受け取らなければならなくなるから」

 

「その答えが、私に向いていても」

 

「私に向いていなくても」

 

「きっと、今までと同じではいられなくなると思った」

 

 詩織は、胸の奥の影を感じた。

 

 見ている。

 

 責めるでもなく、許すでもなく。

 

 ただ、そこにいる。

 

 詩織は、その気配を置いていかなかった。

 

「それなのに、私は待っていた」

 

 言葉にした瞬間、胸が痛んだ。

 

「悠真くんが、いつか言ってくれるかもしれないって」

 

「私を見てくれるかもしれないって」

 

「私を選んでくれるかもしれないって」

 

「自分からは聞かなかったのに」

 

「自分からは言わなかったのに」

 

「待っていた」

 

 詩織は、唇を結んだ。

 

 それは、恥ずかしい言葉だった。

 

 ずるい言葉だった。

 

 藤崎詩織として、あまり言いたくない言葉だった。

 

 けれど、これを言わなければ、今日ここへ来た意味がない。

 

「私は、選ばれる側でいたかったのだと思う」

 

 悠真が息を呑んだ。

 

 詩織は、少しだけ笑おうとして、うまくできなかった。

 

「嫌な言い方ね」

 

「でも、たぶん本当」

 

「伝説の木に似合うと言われることに、驚いていなかった」

 

「誰かが来るかもしれないと思うことに、慣れていた」

 

「悠真くんが来てくれるかもしれないって、どこかで思っていた」

 

 風がまた吹く。

 

 今度は少し冷たい。

 

 詩織は、悠真を見た。

 

「でも、待っているだけでは届かないって、やっと分かった」

 

 その言葉は、胸の奥から出てきた。

 

「だから、今日は」

 

 喉が詰まる。

 

 ここから先が、一番怖い。

 

 夢ではない。

 

 終われなかった卒業式の中でもない。

 

 黒板に書く言葉でもない。

 

 現実の伝説の木の下で、悠真の前に立っている。

 

 ここで言えば、言葉は残る。

 

 届くかもしれない。

 

 届かないかもしれない。

 

 それでも、言う。

 

 詩織は、一歩も動かずに、けれど確かに前へ出るような気持ちで言った。

 

「今日は、待つために来たんじゃない」

 

 悠真が、詩織を見ている。

 

 詩織も、悠真を見る。

 

「私が、自分で言うために来たの」

 

 その言葉が、伝説の木の下に落ちた。

 

 静かだった。

 

 誰かの声も、拍手もない。

 

 ただ、風だけがある。

 

 詩織は、息を吸った。

 

「悠真くん」

 

「私は」

 

 そこで、声が揺れた。

 

 でも、止めなかった。

 

「私は、あなたが好きです」

 

 言った。

 

 言ってしまった。

 

 長く抱えていたものに比べれば、驚くほど短い言葉だった。

 

 けれど、その短さの中に、今まで言えなかったものが全部入っていた。

 

 聞けなかった問い。

 

 待っていた時間。

 

 選ばれたかった弱さ。

 

 外側に立つ怖さ。

 

 それでも、自分で言うと決めたこと。

 

 全部を抱えたまま、詩織は言った。

 

「幼馴染としてだけじゃなく」

 

「藤崎詩織を見てほしいからだけでもなく」

 

「伝説の木に似合う誰かとしてでもなく」

 

「今、ここにいる私として」

 

 声が震える。

 

「悠真くんが好き」

 

 言い終えた瞬間、胸の奥が空になったような気がした。

 

 軽くなったのではない。

 

 ただ、隠していたものを外へ出したのだと分かった。

 

 詩織は、悠真から目を逸らさなかった。

 

 怖かった。

 

 今でも怖い。

 

 返事を聞くのが怖い。

 

 選ばれないかもしれない。

 

 届かないかもしれない。

 

 外側に立つ自分が、今度は現実になるかもしれない。

 

 それでも、もう言った。

 

 自分の言葉で。

 

 悠真は、すぐには答えなかった。

 

 その沈黙は、長かった。

 

 詩織の心臓の音だけが、やけにはっきり聞こえる。

 

 けれど、詩織は思った。

 

 すぐに答えないことを、怖がりすぎないようにしよう。

 

 今、悠真は受け取っている。

 

 そう信じたかった。

 

 悠真は、ゆっくり息を吸った。

 

「詩織」

 

 その声は、少しかすれていた。

 

「うん」

 

「ありがとう」

 

 最初の言葉は、それだった。

 

 詩織は、胸が小さく震えた。

 

 悠真は続けた。

 

「ちゃんと、受け取った」

 

 その言葉だけで、詩織は泣きそうになった。

 

 返事ではない。

 

 まだ、答えではない。

 

 でも、自分の言葉が受け取られた。

 

 藤崎詩織という理想像ではなく。

 

 今、ここにいる自分の言葉として。

 

 悠真は、少しだけ目を伏せた。

 

「俺も、言わなきゃいけないことがある」

 

 詩織は、頷いた。

 

 悠真は、伝説の木を見上げる。

 

 それから、詩織を見る。

 

「俺は、ずっと詩織を見ていたつもりだった」

 

「でも、たぶん」

 

 声が少し止まる。

 

 悠真は逃げなかった。

 

「藤崎詩織に届いた自分を、見ていた」

 

 詩織は、黙って聞いた。

 

「詩織に近づきたかった」

 

「詩織の隣に立てる自分になりたかった」

 

「それは本当だ」

 

「でも、その中に」

 

 悠真は、自分の手を見る。

 

「詩織に選ばれたら、自分の三年間が報われるっていう気持ちもあった」

 

「詩織を好きだと思いながら」

 

「詩織を見ることで、自分が届いたかどうかを見ていた」

 

「それは、たぶん」

 

 言葉を探す。

 

「詩織を見ることとは、少し違っていた」

 

 詩織は、その言葉を胸に受け止めた。

 

 痛くなかったわけではない。

 

 でも、嫌ではなかった。

 

 悠真もまた、自分の未熟さを持ってここに立っている。

 

 そう分かったから。

 

「だから」

 

 悠真は言った。

 

「今、ちゃんと見る」

 

 詩織は、息を止めた。

 

 悠真は、まっすぐに詩織を見ていた。

 

「伝説の木に似合う藤崎詩織じゃなくて」

 

「俺が届いたかどうかを確かめるための藤崎詩織じゃなくて」

 

「今、ここで震えながら、自分の言葉で言ってくれた詩織を見る」

 

 その言葉に、詩織の胸の奥が揺れた。

 

 藤崎詩織として整えていた何かが、少しだけほどける。

 

 悠真は、もう一度息を吸った。

 

「俺も、詩織が好きだ」

 

 詩織は、目を見開いた。

 

 悠真の声は、完璧ではなかった。

 

 少し震えていた。

 

 けれど、まっすぐだった。

 

「幼馴染だからだけじゃない」

 

「遠くに見えたからだけでもない」

 

「詩織に届きたかったからだけでもない」

 

「今、ここにいる詩織が好きだ」

 

 言葉が、静かに届く。

 

 詩織は、何も言えなかった。

 

 胸の奥で、何かがほどける。

 

 ずっと待っていたものとは違う。

 

 誰かに選ばれて満たされる感覚とも違う。

 

 自分で言った言葉が、受け取られた。

 

 そして、相手も自分の言葉で返してくれた。

 

 そのことが、ただ、あたたかかった。

 

 詩織は、目を伏せた。

 

 涙は出ていない。

 

 けれど、視界が少しだけ揺れていた。

 

 悠真が一歩近づく。

 

 近づきすぎない距離で、止まる。

 

「詩織」

 

「うん」

 

「俺は、まだうまくできないと思う」

 

 悠真は言った。

 

「理想の藤崎詩織を、すぐ全部消せるわけじゃない」

 

「また、見上げてしまうかもしれない」

 

「自分がどう見られるかを、気にしてしまうかもしれない」

 

 詩織は、ゆっくり顔を上げた。

 

「私も」

 

 声は小さかった。

 

「まだ、待ってしまうかもしれない」

 

「選ばれたいと思ってしまうかもしれない」

 

「怖くなって、藤崎詩織として綺麗に笑ってしまうかもしれない」

 

 胸の奥で、影が少しだけ息をした気がした。

 

 詩織は、その気配を否定しなかった。

 

「でも」

 

 悠真が言う。

 

 詩織も頷いた。

 

「でも、聞くわ」

 

 詩織は言った。

 

「今度は、聞く」

 

 悠真は少し驚いた顔をする。

 

 詩織は続ける。

 

「何を考えているのか」

 

「どう見ているのか」

 

「怖いと思っていることも」

 

「私に言えないことも」

 

「聞けるかどうか分からなくても、聞こうとする」

 

 悠真は、静かに頷いた。

 

「俺も、言う」

 

「聞かれるのを待つだけじゃなくて」

 

「言えるようにする」

 

 そこで少しだけ苦笑した。

 

「たぶん、時間はかかるけど」

 

 詩織も、小さく笑った。

 

 今度の笑みは、藤崎詩織として整えたものだけではなかった。

 

 少しだけ照れて。

 

 少しだけ泣きそうで。

 

 それでも、自然な笑みだった。

 

「私も、時間はかかると思う」

 

「うん」

 

「でも」

 

 詩織は、伝説の木を見上げた。

 

 枝が揺れている。

 

 春の光が、葉の隙間から落ちてくる。

 

 夢の中の木ではない。

 

 現実の木。

 

 卒業式の日に、二人が自分の足で来た場所。

 

 詩織は、もう一度悠真を見る。

 

「ここに来てよかった」

 

 悠真は、少しだけ目を細めた。

 

「俺も」

 

 風が吹いた。

 

 葉が揺れる。

 

 遠くで、誰かが笑っている。

 

 卒業式後の校庭の声が、少しずつ戻ってくる。

 

 世界は止まらない。

 

 伝説の木の下で何かを言ったからといって、時間が止まるわけではない。

 

 物語のように、すべてが一瞬で変わるわけでもない。

 

 けれど、確かに何かは変わった。

 

 終わったことにされかけた時間が、言葉を持った。

 

 聞かなかった問いが、次は聞こうという約束になった。

 

 待っていただけの場所が、自分から歩いてきた場所になった。

 

 詩織は、そっと息を吐いた。

 

 胸の奥にいた影が、消えたわけではない。

 

 完全に溶けたわけでもない。

 

 けれど、少しだけ近くなった気がした。

 

 もう、外側に立つ自分を置いてはいない。

 

 もう、待っていた自分を知らないふりはしない。

 

 その全部を抱えたまま、詩織は悠真の前に立っている。

 

「悠真くん」

 

「うん」

 

「これから、少しずつでいいから」

 

 詩織は言った。

 

「聞かせて」

 

 悠真は、静かに頷いた。

 

「詩織も」

 

「うん」

 

「聞かせてほしい」

 

 その言葉に、詩織は頷いた。

 

 告白の返事は、もう交わされた。

 

 けれど、それだけでは終わらない。

 

 むしろ、ここから始めなければならない。

 

 幼馴染として近かった二人が、ようやく互いを聞き合うために。

 

 伝説の木の下で。

 

 藤崎詩織は、初めて自分から選んだ。

 

 そして、水瀬悠真は、その言葉を理想ではなく、現実の詩織の言葉として受け取った。

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