伝説の木の下で、風が吹いていた。
春の風だった。
まだ少し冷たくて、けれど冬のものではない。
藤崎詩織は、その風の中で水瀬悠真の隣に立っていた。
さっきまで、言葉があった。
ずっと言えなかった言葉。
ずっと聞けなかった言葉。
待っていたこと。
怖かったこと。
好きだということ。
それらは、もう胸の奥だけにあるものではなくなっていた。
現実の伝説の木の下で、確かに口にした言葉になっていた。
けれど、世界は劇的には変わらなかった。
校庭の向こうでは、卒業生たちの声が聞こえている。
写真を撮る声。
先生を呼ぶ声。
友人たちの笑い声。
少し泣きそうな声。
春の午後の光の中で、きらめき高校の卒業式後の時間は、何事もなかったように流れていた。
詩織は、そのことを不思議に思った。
伝説の木の下で告白して。
悠真くんの言葉を聞いて。
自分の中では、確かに何かが変わった。
それなのに、空は同じように青く、校庭は同じように明るく、誰かの笑い声は変わらず届いている。
世界が止まることはない。
木の葉が光に揺れるだけだった。
でも、だからこそ現実なのだと思った。
夢のような学校ではない。
黒い枝も、白い粉も、校門に浮かぶ文字もない。
ここにあるのは、卒業式を終えた現実の校庭。
その中で、自分たちは言葉を交わした。
詩織は、胸の前で手を重ねた。
指先の震えは、もう少し落ち着いていた。
完全に消えたわけではない。
けれど、さっきまでとは違う震えだった。
言った後の震え。
受け取られた後の震え。
これからどうするのか分からないまま、でも終わらせなかったことだけは分かっている震え。
悠真も、すぐには何も言わなかった。
二人の間に沈黙がある。
でも、それはもう逃げるための沈黙ではなかった。
詩織は、少しだけ悠真の方を見た。
悠真は、伝説の木を見上げていた。
その横顔は、どこか落ち着かない。
それが少し可笑しくて、少し安心した。
「悠真くん」
詩織が呼ぶと、悠真は慌てたようにこちらを向いた。
「うん」
「大丈夫?」
聞いてから、詩織は自分で少し驚いた。
聞いた。
今、自分は聞いたのだ。
悠真が何を考えているのか。
どう感じているのか。
怖くないか。
大丈夫なのか。
以前なら、見ているだけで終わらせたかもしれない。
悠真くんも何か考えているのだろう、と自分の中で処理して、それ以上踏み込まなかったかもしれない。
でも、今は聞いた。
悠真は、少し困ったように笑った。
「大丈夫……だと思う」
「思う?」
「正直、まだ実感がない」
詩織は、少しだけ笑った。
「私も」
その答えに、悠真も小さく笑った。
ぎこちない笑みだった。
でも、遠くはなかった。
「俺、さっきから何を言えばいいのか考えてた」
悠真が言った。
「うん」
「でも、考えるほど、何か違う気がして」
「うん」
「詩織が言ってくれたことに、ちゃんと返せたのかも分からない」
詩織は、その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ温かくなった。
完璧な返事ではない。
整った言葉でもない。
でも、悠真が今考えていることを、そのまま出してくれている。
それが嬉しかった。
「聞けてよかった」
詩織は言った。
悠真が少し驚く。
「今のを?」
「うん」
詩織は頷いた。
「分からないって言ってくれたことも、聞けてよかった」
悠真は、少しだけ目を伏せた。
「そういうものなのか」
「たぶん」
詩織は小さく笑う。
「私も、まだよく分からないけれど」
二人は、伝説の木の下で並んでいた。
恋人になった。
そう言葉にすれば、きっとそうなのだろう。
でも、急にすべてが分かり合えるわけではない。
幼馴染として長く近くにいた。
それなのに、聞けなかったことがたくさんあった。
言えなかったことも、見ないふりをしたこともあった。
だから、これからもきっと、すぐにはうまくいかない。
詩織は待ってしまうかもしれない。
悠真はまた、藤崎詩織を遠くに見てしまうかもしれない。
詩織は怖くなって、綺麗に笑って済ませてしまうかもしれない。
悠真は言う前に、自分の中で飲み込んでしまうかもしれない。
それでも。
「聞くわ」
詩織は言った。
悠真がこちらを見る。
「これから、ちゃんと聞く」
「うん」
「でも、聞けない時もあると思う」
悠真は、少し笑った。
「そこまで正直に言うんだ」
「言っておかないと、また綺麗にまとめてしまいそうだから」
詩織がそう言うと、悠真は少し驚いた顔をして、それから穏やかに笑った。
「じゃあ、俺も言っておく」
「うん」
「俺も、すぐにはうまく言えないと思う」
「うん」
「詩織を見上げてしまう時もあると思う」
「うん」
「でも、その時は……」
悠真は少し迷った。
詩織は待った。
今度は、逃げるためではなく、言葉が出てくるのを待つために。
悠真は、やがて言った。
「その時は、言ってほしい」
詩織は目を瞬かせた。
「私が?」
「うん」
「また遠くに置いてる、って」
詩織は、少しだけ考えた。
それは、簡単なことではない気がした。
言う側も怖い。
言われる側も痛い。
でも、きっと必要なことだった。
「分かった」
詩織は頷いた。
「その代わり」
「うん」
「私が待っているだけになっていたら、言って」
悠真は、少しだけ表情を引き締めた。
「分かった」
その約束は、甘いだけのものではなかった。
けれど、詩織には、それが今の二人に一番合っている気がした。
完璧な恋人になる約束ではない。
互いを傷つけない約束でもない。
見ないふりをしないための約束。
聞かないまま終わらせないための約束。
言葉にする努力を続けるための約束。
遠くから、友人の声が聞こえた。
「詩織ー!」
詩織は振り返る。
校庭の方で、友人たちが手を振っていた。
写真を撮ろうとしているらしい。
その中の一人が、悠真にも気づいて、少しだけ意味ありげな顔をした。
詩織は、一瞬だけ頬が熱くなるのを感じた。
悠真も、少し気まずそうに目を逸らした。
その反応が普通で、現実で、詩織は少し笑ってしまった。
「行かないと」
詩織が言うと、悠真は頷いた。
「うん」
けれど、二人ともすぐには動かなかった。
伝説の木の下から離れる。
それは、特別な時間が終わることのようにも感じた。
でも、終わるのではない。
ここから、日常へ戻るのだ。
伝説の木の下で選んだことを、日常の中へ持っていく。
詩織は、そう思った。
「悠真くん」
「うん」
「一緒に来る?」
友人たちのところへ。
写真を撮る場所へ。
卒業式後の、普通の校庭へ。
悠真は、少しだけ驚いた後、頷いた。
「行く」
その返事に、詩織は微笑んだ。
今度の笑顔は、さっきより少し自然だった。
二人は、伝説の木の下から歩き出した。
並んで。
少しだけぎこちなく。
けれど、離れすぎずに。
歩き出してすぐ、詩織は一度だけ振り返った。
伝説の木は、春の光の中に立っていた。
ただの木のようにも見える。
特別な木のようにも見える。
その下に、もう自分はいない。
けれど、置いてきたわけではなかった。
あの場所で言ったことは、自分の中にある。
待っていた自分も。
選ばれたかった自分も。
外側に立つ自分も。
全部、消えたわけではない。
でも、もう伝説の木の外側に置き去りにはしていない。
詩織は、胸の奥に小さな影の気配を感じた。
怖くはなかった。
少なくとも、今は。
影は何も言わない。
ただ、そこにいる。
それでいいと思った。
「詩織?」
悠真が立ち止まっていた。
詩織は、彼を見る。
「ううん」
首を横に振る。
「行きましょう」
「うん」
二人はまた歩き出す。
友人たちのところへ近づくと、声が一気に明るくなる。
「遅いよ、詩織」
「水瀬くんも一緒?」
「せっかくだし、みんなで撮ろうよ」
詩織は、少し照れたように笑った。
悠真も、少し困った顔をしながら輪に入る。
誰かがカメラを構える。
「はい、笑って」
その声に、詩織は顔を上げた。
隣に悠真がいる。
少しぎこちない距離。
でも、もう遠くはない距離。
シャッター音が鳴る。
その一枚に、伝説の木は写っていない。
校庭の端。
卒業式後の空。
友人たちの笑顔。
詩織と悠真。
ただ、それだけの写真だった。
でも、詩織はそれでよかった。
特別な場所だけに残る関係ではなく、こういう普通の時間の中に戻していく。
それが、これからなのだと思った。
写真を撮り終えると、友人たちはまた別の場所へ移動し始めた。
詩織は、悠真と並んで少しだけ校庭を歩いた。
「このあと、どうする?」
悠真が聞いた。
詩織は、その問いに少し驚いた。
どうする。
これから。
卒業式が終わった後。
伝説の木の下で告白した後。
その先を聞かれた。
詩織は、少し考えた。
以前なら、予定をきれいに答えたかもしれない。
でも今は、少しだけ素直に答えたかった。
「少し、歩きたいわ」
「どこを?」
「学校の中」
詩織は校舎を見る。
「最後だから」
悠真は頷いた。
「じゃあ、歩こう」
二人は校舎の方へ向かった。
もう生徒ではなくなる校舎。
明日からは、毎日通う場所ではなくなる場所。
けれど、思い出だけになるにはまだ少し早い場所。
廊下。
教室。
図書室。
昇降口。
いくつもの場所に、言えなかった言葉が残っていた。
でも、今はそれを責めるために戻るのではない。
これから聞いていくために、通ってきた場所を見る。
詩織は、そう思った。
歩きながら、悠真がぽつりと言った。
「詩織」
「うん」
「俺、たぶん、これから何度も間違えると思う」
詩織は、少しだけ笑った。
「私も」
「そこ、すぐ返すんだ」
「本当のことだから」
悠真は苦笑した。
その笑い方が、昔の悠真に少し似ていて、でも今の悠真でもあって、詩織は胸が柔らかくなるのを感じた。
「じゃあ」
悠真は言った。
「間違えたら、聞こう」
詩織は頷く。
「ええ」
「言えなかったら?」
「言えるようになるまで、少し待つ」
「待つの?」
詩織は、そこで少しだけ考えた。
そして、静かに笑った。
「待つわ」
悠真が少し驚く。
詩織は続けた。
「でも、待っているだけにはしない」
悠真は、その言葉を聞いて、ゆっくり頷いた。
「うん」
「私も、言うようにする」
「俺も」
短いやり取りだった。
けれど、詩織には十分だった。
伝説の木の下で交わした言葉は、ここに続いている。
特別な場所から、日常の会話へ。
大きな告白から、小さな確認へ。
そうやって、少しずつ関係は続いていくのだと思った。
廊下の窓から、校庭が見えた。
伝説の木が、遠くに見える。
詩織は足を止め、窓の外を見た。
かつて、自分はあの木の外側に立つ自分を恐れていた。
選ばれなかった自分を。
祝福するしかなかった自分を。
けれど今、その木は少し遠くにある。
そこから歩いてきたからだ。
伝説の木の下に立った。
自分から言った。
そして、そこから歩き出した。
詩織は、隣の悠真を見る。
「悠真くん」
「うん」
「聞いてもいい?」
悠真は、少し身構えた。
「何を?」
詩織は、少しだけ考える。
大きな質問はいくらでもあった。
夢のこと。
三年間のこと。
自分をどう見ていたのか。
これからのこと。
でも、今は最初の一つだけでよかった。
「今日、このあと」
詩織は言った。
「少しだけ、一緒に帰れる?」
悠真は、一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、柔らかく笑った。
「うん」
詩織は頷いた。
「ありがとう」
それは、特別な約束ではない。
永遠の誓いでもない。
卒業式の後、少しだけ一緒に帰る。
ただ、それだけの言葉。
でも、詩織にはそれが嬉しかった。
伝説の木の下で完結しないこと。
日常の道へ戻っていくこと。
聞いて、答えをもらうこと。
その一つ目のように思えた。
二人は、廊下を歩き出した。
卒業式の午後。
もう生徒ではなくなりつつある校舎。
それでも、まだ少しだけ名残の残る時間。
窓の外では、春の光が校庭を照らしている。
伝説の木は、遠くで静かに立っていた。
藤崎詩織は、もうその下にはいない。
けれど、そこから始まった言葉を持って、悠真と並んで歩いている。
これからも、きっと迷う。
待ってしまう日もある。
見上げてしまう日もある。
言えない日も、聞けない日もある。
それでも、終わったことにはしない。
聞きながら。
言いながら。
少しずつ、歩いていく。
伝説の木の下から、日常へ。
藤崎詩織と水瀬悠真は、春の光の中を並んで歩いていった。