藤崎詩織は、伝説の木の下に立つ   作:エーアイ

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エピローグ後の後日談的補完エピソードです。


藤崎詩織は、春の中を歩く

 

 春は、ちゃんと来た。

 

 卒業式の日から、数日が過ぎていた。

 

 きらめき高校の制服は、もう毎朝着るものではなくなった。

 

 鞄の中に教科書を入れる必要もない。

 

 朝、校門へ向かう時間を気にしなくてもいい。

 

 ホームルームもない。

 

 授業もない。

 

 三年生の教室へ向かう必要もない。

 

 それでも、朝が来ると、少しだけ体が覚えている。

 

 制服に袖を通す時間。

 

 鞄を持つ重さ。

 

 校門へ向かう道。

 

 廊下のざわめき。

 

 誰かに名前を呼ばれる感覚。

 

 それらが、まだ完全には遠くなっていなかった。

 

 藤崎詩織は、自室の鏡の前に立っていた。

 

 制服ではない服を着ている。

 

 少しだけ迷って選んだ服だった。

 

 派手すぎないもの。

 

 けれど、ただ無難にしたわけでもないもの。

 

 誰かに見られて恥ずかしくないためだけではなく、自分が今日、着たいと思った服。

 

 詩織は、鏡の中の自分を見た。

 

 そこには、いつもの藤崎詩織がいた。

 

 けれど、少しだけ違う。

 

 卒業式の日のことを思い出す。

 

 伝説の木の下。

 

 春の光。

 

 震えた声。

 

 自分の中にあった、見ないふりをしていたもの。

 

 待っていた自分。

 

 選ばれたいと思っていた自分。

 

 外側に立つことを怖がっていた自分。

 

 それでも、言葉を届けた自分。

 

 その全部が、今も胸の奥にある。

 

 何かが綺麗に消えたわけではない。

 

 不安もある。

 

 本当に大丈夫なのかしら。

 

 悠真くんは、本当に私を見てくれているのかしら。

 

 私はまた、藤崎詩織として正しく振る舞おうとしていないかしら。

 

 そんな声が、小さく残っている。

 

 詩織は、それを追い出さなかった。

 

 聞こえないふりもしなかった。

 

 ただ、胸の奥で静かに受け止める。

 

 大丈夫ではない時もあるわ。

 

 でも、もう見ないふりはしない。

 

 そう思えるようになった。

 

 詩織は、髪を整えた。

 

 少しだけ迷って、いつもより柔らかくまとめる。

 

 鏡の中の自分が、ほんの少し緊張している。

 

 今日は、水瀬悠真と会う日だった。

 

 伝説の木の下ではない。

 

 卒業式でもない。

 

 制服でもない。

 

 校舎の中でもない。

 

 駅前で待ち合わせをしている。

 

 ただ、それだけ。

 

 けれど詩織にとっては、それがとても大事だった。

 

 伝説の木の下で、言葉は届いた。

 

 けれど、それで終わりではない。

 

 むしろ、ここから先の方が長い。

 

 噂のない場所で。

 

 条件のない場所で。

 

 誰かに見られるためではない場所で。

 

 二人が、どう歩いていくのか。

 

 詩織は小さく息を吸った。

 

「行ってきます」

 

 家を出る。

 

 春の風が頬に触れた。

 

 卒業式の日よりも、少しだけ暖かい。

 

 道端の桜は、もうかなり開いていた。

 

 枝先に薄い花が重なり、空の色をやわらかくしている。

 

 詩織は、その下を歩いた。

 

 きらめき高校へ向かう道とは、途中まで同じだった。

 

 何度も通った道。

 

 小さい頃から知っている道。

 

 悠真と並んで歩いたこともある道。

 

 けれど、今日は学校へ向かうのではない。

 

 詩織は、分かれ道で足を止めた。

 

 右へ行けば、きらめき高校へ向かう。

 

 まっすぐ行けば、駅前へ向かう。

 

 少し前までなら、迷わず右へ行っていた。

 

 毎朝の習慣として。

 

 藤崎詩織として、学校へ行くために。

 

 今日は違う。

 

 詩織は、まっすぐ歩き出した。

 

 ほんの少しだけ、胸が軽くなる。

 

 高校生活が終わったのだと、改めて思った。

 

 寂しさはある。

 

 でも、空っぽではない。

 

 ちゃんと終えたものがある。

 

 ちゃんと届けた言葉がある。

 

 それが、詩織の足元を支えていた。

 

 駅前に着くと、待ち合わせの時間より少し早かった。

 

 詩織は時計を見る。

 

 五分前。

 

 早すぎるほどではない。

 

 けれど、少しだけ早い。

 

 駅前の広場には、人が行き交っていた。

 

 買い物へ向かう人。

 

 友人同士で話す学生。

 

 親子連れ。

 

 スーツ姿の大人。

 

 きらめき高校の校庭とは違う音がする。

 

 チャイムもない。

 

 先生の声もない。

 

 卒業式のざわめきもない。

 

 伝説の木もない。

 

 ここには、噂も条件もない。

 

 誰が誰に告白すれば永遠に幸せになれる、という話もない。

 

 ただ、日常がある。

 

 詩織は、その場所で悠真を待っていた。

 

 待っている。

 

 その言葉に、胸の奥が少しだけ反応する。

 

 けれど、今の待つは、あの日までの待つとは違った。

 

 選ばれるために待っているのではない。

 

 誰かが来ることを当然だと思っているわけでもない。

 

 自分が会いたいから、少し早く来ただけ。

 

 自分がここで会うと決めたから、ここにいるだけ。

 

 詩織は、その違いを大切に胸の中で確かめた。

 

「詩織」

 

 声がした。

 

 詩織は振り向いた。

 

 水瀬悠真が、少しだけ息を弾ませて立っていた。

 

 制服ではない。

 

 見慣れたようで、少し見慣れない服装。

 

 卒業式の日とは違う悠真。

 

 けれど、ちゃんと悠真だった。

 

 詩織は自然に微笑んだ。

 

「悠真くん」

 

 名前を呼ぶ。

 

 もう、誰かに聞かれても恥ずかしくないように整えた声だけではない。

 

 嬉しいと思った声だった。

 

 悠真は、少し照れたように笑った。

 

「待たせた?」

 

「いいえ」

 

 詩織は首を横に振る。

 

「私が少し早く来ただけ」

 

「そっか」

 

 悠真は、少し安心したように息を吐いた。

 

 それから、詩織を見る。

 

「その服、似合ってる」

 

 詩織は一瞬、言葉に詰まった。

 

 褒められ慣れていないわけではない。

 

 藤崎さんは何でも似合う。

 

 詩織なら綺麗。

 

 そういう言葉は、何度も聞いてきた。

 

 けれど、今の悠真の言葉は、少し違って聞こえた。

 

 藤崎詩織だから似合う、ではない。

 

 今日の詩織を見て言った言葉。

 

 そう感じた。

 

 詩織は、少しだけ目を伏せる。

 

「ありがとう」

 

 それから、小さく付け加えた。

 

「少し迷ったの」

 

 悠真は、意外そうに瞬きをした。

 

「そうなんだ」

 

「ええ」

 

 詩織は笑う。

 

「藤崎詩織でも、服くらい迷うわ」

 

 悠真は一瞬きょとんとして、それから笑った。

 

「それは、そうだな」

 

「そうよ」

 

 詩織も笑った。

 

 そのやり取りが、少し嬉しかった。

 

 完璧な藤崎詩織ではない。

 

 迷う藤崎詩織。

 

 少し早く来る藤崎詩織。

 

 褒められて、少し照れる藤崎詩織。

 

 そういう自分で、悠真の前にいられる。

 

「どこ行く?」

 

 悠真が聞いた。

 

 詩織は、駅前の通りを見る。

 

 店が並んでいる。

 

 春休みの学生たちが歩いている。

 

 少し先には、新しくできた喫茶店がある。

 

 卒業式前に、誰かが話していた場所。

 

 受験が終わったら行こう。

 

 春になったら行こう。

 

 そんな言葉が、どこかの記憶の奥で揺れた。

 

 けれど、今は痛みではなかった。

 

 詩織は言った。

 

「少し歩きたいわ」

 

「歩く?」

 

「ええ」

 

 悠真は頷いた。

 

「じゃあ、歩こう」

 

 二人は並んで歩き出した。

 

 駅前の通り。

 

 商店街。

 

 桜の見える小さな川沿い。

 

 学校ではない場所。

 

 伝説の木ではない場所。

 

 誰も二人を特別な物語の中心として見ていない。

 

 道行く人たちは、詩織と悠真のことを知らない。

 

 藤崎詩織という名前も。

 

 水瀬悠真が三年間、何を見ていたのかも。

 

 伝説の木の下で言葉を交わしたことも。

 

 誰も知らない。

 

 そのことが、詩織には少しだけ新鮮だった。

 

 同じように並んで歩いているはずなのに、学校にいた頃とは少し違う。

 

 教室へ向かうのでもない。

 

 校門を出るのでもない。

 

 伝説の木へ歩いているのでもない。

 

 ただ、春の街を歩いている。

 

 それだけのことが、少し照れくさくて、少し落ち着かなかった。

 

「悠真くん」

 

「うん?」

 

「こういう普通の日って、少し緊張するわね」

 

 言ってから、詩織は少しだけ恥ずかしくなった。

 

 普通の日。

 

 それをわざわざ言葉にすること自体が、少し大げさに思えたから。

 

 けれど、悠真は笑わなかった。

 

「俺も」

 

「本当?」

 

「ああ」

 

 悠真は、前を見ながら言った。

 

「伝説の木の下より緊張してない、とは言えないかもしれない」

 

 詩織は思わず彼を見る。

 

「そこまで?」

 

「いや、あの日とは種類が違うけど」

 

 悠真は少し照れたように笑った。

 

「伝説の木の下は、言わなきゃいけないことがあっただろ」

 

「うん」

 

「今日は、何を言えばいいのか決まってないから」

 

 詩織は、その言葉を聞いて、胸の奥が少し温かくなった。

 

 分かる気がした。

 

 卒業式の日には、怖くても言わなければならない言葉があった。

 

 けれど今日は違う。

 

 言わなければならない言葉はない。

 

 だからこそ、何を言えばいいのか分からなくなる。

 

 それは、少し不安で。

 

 でも、少し自由だった。

 

「私も同じ」

 

 詩織は言った。

 

「今日は、何を話せばいいのか決まっていないもの」

 

「じゃあ、決まってないまま歩くか」

 

「それでいいの?」

 

「たぶん」

 

 悠真は少し笑った。

 

「分からないけど」

 

 詩織も笑った。

 

「分からないけど、ね」

 

 川沿いの道に出る。

 

 桜が咲いている。

 

 満開ではない。

 

 けれど、枝には十分な花があった。

 

 川面に、薄い花びらが数枚浮かんでいる。

 

 風が吹くと、花びらが少しだけ揺れる。

 

 詩織は足を止めた。

 

「綺麗ね」

 

「そうだな」

 

 悠真も隣で立ち止まる。

 

 二人は、しばらく桜を見ていた。

 

 伝説の木ではない木。

 

 噂のない桜。

 

 誰かを永遠に幸せにすると言われているわけではない花。

 

 ただ、春になったから咲いている花。

 

 詩織は、それがとても綺麗だと思った。

 

「伝説の木も、ただの木だったのかもしれないわね」

 

 詩織は、ぽつりと言った。

 

 悠真がこちらを見る。

 

 詩織は桜を見たまま続ける。

 

「もちろん、特別な場所ではあると思う」

 

「うん」

 

「たくさんの人が、あそこで言葉を届けたのだろうし」

 

 届かなかった言葉も、きっとあったのだろうし。

 

 そう思ったけれど、そこまでは声にしなかった。

 

 今は、それでよかった。

 

「でも」

 

 詩織は、少しだけ微笑む。

 

「木が全部決めてくれるわけではないのよね」

 

 悠真は頷いた。

 

「ああ」

 

「私たちが、これから決めていくのよね」

 

「うん」

 

 その返事は短かった。

 

 でも、詩織には十分だった。

 

 怖さは、まだある。

 

 悠真と歩いている今も、どこかで不安が残っている。

 

 本当にうまくいくのか。

 

 いつかまた、藤崎詩織として綺麗に振る舞おうとしてしまわないか。

 

 悠真が、自分に失望することはないか。

 

 自分が、悠真をまた遠くに置いてしまわないか。

 

 そういう怖さは、簡単には消えない。

 

 けれど、今はその怖さを抱えたまま歩ける。

 

 怖さをなくしたからではない。

 

 怖さがあっても、目の前の春を見られるから。

 

 詩織は、川沿いの桜を見上げた。

 

 白に近い薄桃色の花びらが、風に揺れている。

 

 綺麗だと思う。

 

 その気持ちは、とても普通だった。

 

 普通なのに、少しだけ特別だった。

 

「悠真くん」

 

「うん?」

 

 詩織は、桜を見たまま少し迷った。

 

 聞いてみたいことがあった。

 

 大きなことではない。

 

 三年間のことでも、夢のような学校のことでも、伝説の木の下での言葉でもない。

 

 もっと小さなこと。

 

 今、この瞬間のこと。

 

「今、楽しい?」

 

 悠真は少し驚いたように詩織を見た。

 

「急だな」

 

「そうね」

 

 詩織は少し笑った。

 

「でも、聞いてみたくなったの」

 

「俺が?」

 

「うん」

 

「今、どう思っているのか」

 

 その問いは、告白よりもずっと小さかった。

 

 けれど、詩織には少し勇気がいった。

 

 聞く。

 

 相手の答えを待つ。

 

 自分の中で勝手に決めない。

 

 その小さな練習のようだった。

 

 悠真は、少しだけ考えた。

 

 すぐに「楽しい」と返さなかったことに、詩織は少し安心した。

 

 ちゃんと考えてくれている。

 

 そう思えたから。

 

「楽しいよ」

 

 悠真は言った。

 

「本当?」

 

「本当」

 

 彼は少しだけ照れたように笑った。

 

「ただ、少し緊張してる」

 

「私も」

 

 詩織は、すぐにそう言った。

 

 悠真が笑う。

 

「そこは早いんだな」

 

「だって、本当だから」

 

 詩織も笑った。

 

 その笑いは、伝説の木の下で交わした言葉ほど大きなものではなかった。

 

 けれど、胸に静かに残った。

 

 普通の日に。

 

 普通の道で。

 

 今、楽しいかを聞く。

 

 楽しいけれど緊張している、と返ってくる。

 

 自分も同じだと言う。

 

 たったそれだけのこと。

 

 でも、それだけのことを、今までどれだけしてこなかったのだろうと思った。

 

 二人は、川沿いの道をもう一度歩き出した。

 

 歩幅は、完全に同じではない。

 

 少しずれる時もある。

 

 詩織が少し早くなることもある。

 

 悠真が少し遅れることもある。

 

 けれど、そのたびに自然と調整できる。

 

 昔からそうだったのかもしれない。

 

 でも、今は少し違う。

 

 合わない時は、合わせようとする。

 

 離れた時は、気づこうとする。

 

 分からない時は、少しだけ聞いてみる。

 

 それが、これから必要なのだと思った。

 

 やがて、小さな橋の上に出た。

 

 詩織は立ち止まり、川を見下ろす。

 

 水面に桜の花びらが流れている。

 

 どこから来て、どこへ行くのかは分からない。

 

 けれど、ちゃんと流れている。

 

 止まってはいない。

 

 詩織は、その流れを見つめながら思った。

 

 卒業式は終わった。

 

 伝説の木の下で言葉は届いた。

 

 けれど、それは物語の終わりではなかった。

 

 むしろ、ようやく日常へ戻ってきたのだ。

 

 条件もない。

 

 評価もない。

 

 伝説の保証もない。

 

 それでも、自分で選んだ春がある。

 

 詩織は、悠真の方を見た。

 

「悠真くん」

 

「うん」

 

「今日は、来てくれてありがとう」

 

 悠真は少しだけ笑う。

 

「俺も、来たかったから」

 

 その言葉が、詩織には嬉しかった。

 

 選ばれたからではない。

 

 来たかったから来た。

 

 それだけのことが、今はとても大事だった。

 

 詩織は、橋の上で小さく息を吸った。

 

 春の匂いがした。

 

 卒業式の日とは違う春。

 

 伝説の木の下ではない春。

 

 駅前から続く、普通の春。

 

「ねえ、悠真くん」

 

「うん?」

 

「このあと、少しだけお茶でもしない?」

 

 言ってから、詩織は自分で少し驚いた。

 

 聞く、というより。

 

 誘った。

 

 自分から、次の時間を差し出した。

 

 悠真は、一瞬だけ目を瞬かせた。

 

 それから、柔らかく笑った。

 

「うん。行こう」

 

 詩織は頷いた。

 

「ありがとう」

 

「俺も行きたいから」

 

 さっきと同じような言葉だった。

 

 けれど、その響きは少し違っていた。

 

 詩織は笑う。

 

「そう言ってもらえると、安心するわ」

 

「じゃあ、言うようにする」

 

「無理にじゃなくていいの」

 

「分かってる」

 

 悠真は、少しだけ照れたように前を向いた。

 

「でも、今のは本当だから」

 

 詩織は、胸の奥がやわらかくなるのを感じた。

 

 伝説の木の下で、大きな言葉を届けた。

 

 その後にあるのは、こういう小さな言葉なのかもしれない。

 

 似合ってる。

 

 迷ったの。

 

 緊張する。

 

 楽しい? 

 

 楽しいよ。

 

 お茶でもしない? 

 

 行こう。

 

 そんな一つ一つを重ねていくこと。

 

 それが、日常へ戻るということなのだと思った。

 

 詩織は、一歩を踏み出した。

 

 悠真も隣で歩き出す。

 

 二人は、春の中を歩いていく。

 

 藤崎詩織は、伝説の木の下に立った。

 

 けれど、そこに留まり続けるわけではない。

 

 選ばれるためではなく、自分が選んだ言葉を届けるために立った。

 

 そして今は、伝説の木ではない場所を歩いている。

 

 条件も、噂も、物語の保証もない場所を。

 

 水瀬悠真と並んで。

 

 少し迷いながら。

 

 少し緊張しながら。

 

 それでも、今が楽しいかを聞けるくらいの距離で。

 

 自分で選んだ春の中を。

 

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