藤崎詩織は、伝説の木の下に立つ   作:エーアイ

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藤崎詩織の影は、春の中へ帰る

 

 家に帰る頃には、春の光は少しだけ傾いていた。

 

 水瀬悠真とは、駅前で別れた。

 

 またね。

 

 そう言って、手を振った。

 

 その言葉は、驚くほど普通だった。

 

 けれど、詩織にはそれが嬉しかった。

 

 伝説の木の下ではない場所で会って。

 

 春の街を歩いて。

 

 川沿いの桜を見て。

 

 少し迷った服のことを話して。

 

 普通の日が少し緊張すると言って。

 

 今、楽しいかを聞いた。

 

 そして、またね、と言った。

 

 ただ、それだけ。

 

 けれど、その全部が、詩織には新しかった。

 

 自室に戻ると、部屋は朝出た時のままだった。

 

 机の上には、まだ片づけきれていない卒業式のものがある。

 

 きらめき高校の卒業アルバム。

 

 友人たちと撮った写真。

 

 使わなくなった教科書。

 

 制服は、もう椅子には掛かっていない。

 

 詩織は、鏡の前に立った。

 

 そこには、普通の服を着た自分がいる。

 

 伝説の木の下に立っていた自分ではない。

 

 卒業式の日の自分でもない。

 

 誰からも完璧だと思われる藤崎詩織でもない。

 

 今日、服を選ぶのに少し迷って。

 

 悠真に似合うと言われて少し照れて。

 

 春の道を歩いて、今は家に帰ってきた自分。

 

 詩織は、鏡の中の自分を見つめた。

 

 少し疲れている。

 

 少し緊張が残っている。

 

 でも、嫌な顔ではなかった。

 

 その時、胸の奥で、小さな声がした。

 

「本当に、それでいいの?」

 

 詩織は驚かなかった。

 

 怖くもなかった。

 

 その声を、もう知らないものとして扱わなかった。

 

 鏡の中の自分を見たまま、静かに答える。

 

「ええ」

 

 声は、胸の奥から続いた。

 

「また怖くなるかもしれないわ」

 

「ええ」

 

「また待ってしまうかもしれないわ」

 

 詩織は、少しだけ目を伏せた。

 

 待つ。

 

 その言葉は、今でも簡単には消えない。

 

 誰かが気づいてくれるのを待つ自分。

 

 誰かが選んでくれるのを待つ自分。

 

 正しく藤崎詩織でいれば、いつか言葉が届くのではないかと思ってしまう自分。

 

 その自分は、確かにいる。

 

 詩織は否定しなかった。

 

「その時は、気づくわ」

 

 胸の奥の声は、少し黙った。

 

 それから、また言った。

 

「また綺麗に笑って済ませるかもしれない」

 

「そうね」

 

 詩織は、小さく頷いた。

 

「その時は、聞くわ」

 

 少しだけ考えて、続ける。

 

「聞けなかったら、あとで聞くわ」

 

「あとで?」

 

「ええ。すぐにできない日もあると思うから」

 

 鏡の中の自分は、少しだけ困ったように笑っていた。

 

 でも、その笑みは嘘ではなかった。

 

 綺麗にまとめるための笑顔ではない。

 

 できないかもしれない自分を、先に認めるための笑顔だった。

 

「怖いままでいいの」

 

 詩織は言った。

 

「怖くなくなったから歩けるんじゃないわ」

 

 胸の奥の声は、何も返さない。

 

 詩織は、その沈黙を待った。

 

 逃げるためではなく。

 

 責めるためでもなく。

 

 そこにいるものを、そこにいるまま受け止めるために。

 

 やがて、胸の奥にあった冷たい場所が、ほんの少しだけ形を変えた気がした。

 

 外側に立っていた自分。

 

 伝説の木の下ではなく、少し離れた場所から見ていた自分。

 

 選ばれなかった時の顔を、先に用意していた自分。

 

 祝福するしかない自分を恐れていた自分。

 

 その自分が、ふと気づいたように沈黙している。

 

 今日、詩織が歩いている時。

 

 影も、そこにいた。

 

 駅前で悠真を待っている時。

 

 影も、胸の奥にいた。

 

 服を迷ったと言った時。

 

 影も、それを聞いていた。

 

 普通の日が少し緊張すると言った時。

 

 影も、その緊張を知っていた。

 

 今、楽しいかを聞いた時。

 

 影も、一緒にその答えを待っていた。

 

 外側から見ていたのではない。

 

 置いていかれたのでもない。

 

 詩織の中にいた。

 

 詩織が歩く時、一緒に歩いていた。

 

 詩織は、胸に手を当てた。

 

「もう、そこにいなくていいの」

 

 誰に向けた言葉なのか、自分でもはっきりとは分からなかった。

 

 けれど、言わなければならない気がした。

 

「外側で待っていなくていいの」

 

 胸の奥で、何かがわずかに揺れた。

 

 泣いたのかもしれない。

 

 笑ったのかもしれない。

 

 怒ったのかもしれない。

 

 それは分からない。

 

 ただ、そこにあった冷たさが、少しずつ詩織の中へ溶けていく。

 

 消えるのではない。

 

 帰ってくる。

 

 そんな感覚だった。

 

「私は、また迷うわ」

 

 詩織は鏡の中の自分に言った。

 

「また怖くなる」

 

「また、藤崎詩織らしく笑おうとするかもしれない」

 

「また、聞けない日もある」

 

 そこで、少しだけ息を吸った。

 

「でも、そのたびに置いていかない」

 

 鏡の中の自分が、静かにこちらを見ている。

 

 普通の服を着た藤崎詩織。

 

 伝説の木の下に立った藤崎詩織。

 

 春の中を歩いてきた藤崎詩織。

 

 そして、外側に立っていた藤崎詩織。

 

 その全部が、一人の中にいる。

 

 詩織は、ようやくそう思えた。

 

 胸の奥の声は、もう問いかけてこなかった。

 

 ただ、そこにいる。

 

 近くに。

 

 内側に。

 

 詩織は、鏡に向かって小さく微笑んだ。

 

「行きましょう」

 

 誰に向けた言葉かは、はっきりさせなかった。

 

 自分へ。

 

 胸の奥の影へ。

 

 これからの春へ。

 

 その全部へ向けた言葉だった。

 

 窓の外では、春の夕方の光が揺れていた。

 

 伝説の木は、ここからは見えない。

 

 けれど、詩織はもう、その下だけに立っているわけではない。

 

 外側に立っていた自分も。

 

 待っていた自分も。

 

 怖かった自分も。

 

 連れていく。

 

 藤崎詩織の影は、春の中へ帰った。

 

 そして詩織は、明日もまた、自分の足で歩いていく。

 

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