藤崎詩織は、伝説の木の下に立つ   作:エーアイ

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藤崎詩織は、幼馴染の距離を測れない

水瀬悠真は、変わった。

 

藤崎詩織がそう思ったのは、いつからだっただろう。

 

卒業式まで、あと少し。

 

三年生の教室には、終わりに向かう空気が少しずつ満ちていた。

 

誰かが卒業文集の話をしている。

 

誰かが進学先の話をしている。

 

誰かが、卒業式の日に写真を撮ろうと約束している。

 

笑い声はある。

 

けれど、その笑い声の奥には、もうすぐこの教室で過ごす日々が終わるのだという気配が混じっていた。

 

詩織は、自分の席で提出用のプリントをそろえていた。

 

紙の端を指で整えながら、ふと教室の入口を見る。

 

そこに、悠真がいた。

 

水瀬悠真。

 

昔から知っている男の子。

 

幼馴染。

 

その言葉を使えば、二人の関係は簡単に説明できる。

 

近所に住んでいて。

 

小さい頃から知っていて。

 

名前を呼び合えて。

 

同じ教室にいても、不自然ではない。

 

それだけで、たくさんのことが説明できる。

 

けれど最近の詩織は、その簡単さが少しだけ気になることがあった。

 

悠真は、クラスの男子に声をかけられていた。

 

卒業後の集まりの話をしているらしい。

 

相手の話を最後まで聞いて、少し考えてから、穏やかに頷く。

 

昔なら、もう少し面倒そうな顔をしたかもしれない。

 

「また今度でいいだろ」と軽く流したかもしれない。

 

けれど今の悠真は、ちゃんと聞く。

 

相手が何を言っているのかを受け取り、自分の都合を確認して、返事をする。

 

小さな変化だった。

 

他の人なら、気づかないかもしれない。

 

でも詩織は、気づいていた。

 

気づいていたことを、誰にも言ったことはなかった。

 

一年生の春。

 

同じクラスになった日、悠真は少し照れたように笑った。

 

「同じクラスだな」

 

「ええ。よろしくね、悠真くん」

 

それだけで、詩織は少し安心した。

 

新しい教室。

 

知らない顔。

 

慣れない空気。

 

その中に、昔から知っている名前がある。

 

それは、思っていた以上に心強かった。

 

もちろん、詩織はそれを口にはしなかった。

 

藤崎詩織として、新しい教室で不安を見せる必要はなかった。

 

けれど、心のどこかで安心していたことは覚えている。

 

悠真くんがいる。

 

それだけで、少しだけ息がしやすかった。

 

その頃の悠真は、今より少し頼りなかった。

 

授業中に眠そうにしていることもあった。

 

提出物をぎりぎりで出すこともあった。

 

体育では、得意ではない競技になると少しだけ手を抜こうとすることもあった。

 

詩織は、それを見て呆れることもあった。

 

けれど、嫌ではなかった。

 

昔から知っている悠真らしいと思った。

 

「悠真くん、提出物、大丈夫?」

 

「大丈夫だって」

 

「本当に?」

 

「たぶん」

 

「たぶんは大丈夫とは言わないわ」

 

そう言うと、悠真は困ったように笑った。

 

そんな会話が、何度もあった。

 

幼馴染だからできる会話。

 

幼馴染だから踏み込める距離。

 

その時は、そう思っていた。

 

けれど高校生活が進むにつれて、悠真は少しずつ変わっていった。

 

最初に気づいたのは、勉強だった。

 

放課後の教室。

 

他の生徒が帰った後、悠真が参考書を開いていた。

 

たまたま忘れ物を取りに戻った詩織は、その姿を見た。

 

悠真は、詩織に気づいて少し慌てた。

 

「何だよ」

 

「何だよって、私は忘れ物を取りに来ただけよ」

 

「そっか」

 

机の上には、英語の参考書とノートがあった。

 

ノートには、思ったより細かく書き込みがされていた。

 

詩織は少し驚いた。

 

「勉強していたの?」

 

「まあ、ちょっと」

 

悠真は目を逸らした。

 

「ちょっと、ね」

 

詩織がそう言うと、悠真は照れ隠しのように笑った。

 

その時、詩織は何かを聞けたはずだった。

 

どうして急に頑張っているの。

 

何か目標があるの。

 

何か変えたいことがあるの。

 

そう聞くことはできた。

 

けれど、聞かなかった。

 

「無理しないでね」

 

詩織は、それだけを言った。

 

悠真は軽く手を振った。

 

「ああ」

 

それで会話は終わった。

 

二年生になると、悠真とは別のクラスになった。

 

毎日同じ教室で顔を合わせることはなくなった。

 

それでも、廊下で見かけることはあった。

 

図書室で見かけることもあった。

 

体育館で、少し真剣な顔をしている姿を見たこともある。

 

悠真は、前より逃げなくなった。

 

苦手なことを最初から避けるのではなく、一度は向き合うようになった。

 

人に誘われた時も、面倒だからとすぐに断るのではなく、少し考えるようになった。

 

身だしなみにも気を遣うようになった。

 

寝癖のまま登校することが減った。

 

制服の着方も、以前より少しだけ整っていた。

 

本当に少しずつ。

 

でも、詩織には分かった。

 

悠真くんは、変わろうとしている。

 

そう思った。

 

何のために。

 

その問いが、何度か胸に浮かんだ。

 

けれど、詩織はそれを深く考えなかった。

 

考えなかったというより、考えすぎないようにした。

 

自分に近づこうとしているのかもしれない。

 

そう思いかけたことが、ないわけではない。

 

けれど、そこまで言い切るのは違う気がした。

 

悠真にも、悠真の理由がある。

 

進路のためかもしれない。

 

周囲に影響されたのかもしれない。

 

ただ、少し大人になっただけかもしれない。

 

それをすぐに自分へ結びつけるのは、傲慢な気がした。

 

だから、詩織は結論を出さなかった。

 

結論を出さないまま、見ていた。

 

三年生になって、また同じクラスになった。

 

掲示板で自分と悠真の名前を見つけた時、詩織は少しだけ嬉しかった。

 

本当に、少しだけ。

 

けれど、悠真に会った時にはいつものように言った。

 

「また同じクラスね、悠真くん」

 

悠真も笑った。

 

「よろしく、詩織」

 

その言葉は、昔と同じだった。

 

けれど、三年生の二人はもう昔と同じではなかった。

 

近い。

 

でも、どこか遠い。

 

話せる。

 

でも、肝心なことは話せない。

 

名前を呼べる。

 

でも、その名前の先に踏み込めない。

 

詩織は、その距離をうまく測れなくなっていた。

 

近いはずなのに、手を伸ばすと遠い。

 

遠いはずなのに、何も言わなくても隣にいられる。

 

その曖昧さは、とても便利だった。

 

便利で、少し怖かった。

 

けれど、その怖さに名前をつけるには、まだ早かった。

 

秋の終わり頃。

 

模試の結果が返ってきた日だった。

 

悠真が、思っていたより良い成績を取ったと聞いた。

 

本人はあまり大げさにしなかった。

 

けれど、友人たちがからかうように肩を叩いていた。

 

「水瀬、頑張ってるじゃん」

 

「いや、たまたまだって」

 

悠真はそう言っていた。

 

たまたまではない。

 

詩織には分かった。

 

放課後に残っていたこと。

 

苦手なところを友人に聞いていたこと。

 

休み時間に単語帳を見ていたこと。

 

全部を知っていたわけではない。

 

けれど、少しずつ見ていた。

 

だから、詩織は言った。

 

「悠真くん、頑張ったのね」

 

悠真は言葉に詰まった。

 

「いや、まあ……たまたまだよ」

 

「たまたまではないと思うわ」

 

詩織は静かに返した。

 

悠真は、少し困ったように笑った。

 

その笑顔を見た時、詩織はまた何かを聞けたはずだった。

 

何のために頑張っているの。

 

どうして変わろうと思ったの。

 

何を目指しているの。

 

そう聞くことは、きっとできた。

 

幼馴染なのだから。

 

昔から知っているのだから。

 

でも、詩織は聞かなかった。

 

「この調子なら、大丈夫そうね」

 

そう言った。

 

悠真は肩をすくめた。

 

「詩織に言われると、少し怖いな」

 

「どうして?」

 

「いや、ちゃんとしろって言われてるみたいで」

 

詩織は少しだけ笑った。

 

「そんなつもりではないわ」

 

本当に、そんなつもりではなかった。

 

けれど、悠真がそう受け取ったことは、少し胸に残った。

 

自分の言葉は、悠真にどう届いているのだろう。

 

励ましとして。

 

幼馴染の何気ない言葉として。

 

それとも、もっと別のものとして。

 

考えかけて、詩織はやめた。

 

そこまで考えると、また何かを聞かなければならなくなる。

 

そして聞けば、答えを受け取らなければならなくなる。

 

答えを受け取れば、自分も何かを返さなければならなくなる。

 

詩織は、それが少し怖かった。

 

今、教室の入口で悠真が男子生徒と話している。

 

卒業後の予定。

 

進学先。

 

また会うかどうか。

 

そんな話をしている。

 

悠真は、昔より落ち着いた顔で相手の話を聞いていた。

 

詩織は、その横顔を見た。

 

変わった。

 

そう思う。

 

そして、その変化にずっと気づいていた自分を、あらためて意識した。

 

気づいていた。

 

見ていた。

 

でも、踏み込まなかった。

 

「藤崎さん」

 

声をかけられて、詩織は顔を上げた。

 

クラスメイトがプリントの束を持っている。

 

「これ、先生に渡してもらっていい? 藤崎さん、職員室行くって言ってたよね」

 

「ええ、分かったわ」

 

詩織はプリントを受け取った。

 

立ち上がる。

 

その時、悠真と目が合った。

 

「職員室?」

 

悠真が聞いた。

 

「ええ。これを届けに」

 

「手伝おうか?」

 

ほんの短い言葉だった。

 

詩織は少しだけ迷った。

 

頼むこともできた。

 

一緒に廊下を歩くこともできた。

 

その間に、何かを聞くこともできたかもしれない。

 

最近、頑張っているわね。

 

どうしてなの。

 

そう聞くこともできたかもしれない。

 

けれど、詩織はいつものように微笑んだ。

 

「大丈夫よ。これくらい」

 

悠真は少しだけ頷いた。

 

「そっか」

 

それだけだった。

 

詩織はプリントを抱えて教室を出た。

 

廊下に出ると、夕方の光が窓から差し込んでいた。

 

人の少ない廊下は、教室よりも少し静かだった。

 

詩織は、歩きながら自分の返事を思い返した。

 

大丈夫よ。

 

これくらい。

 

いつもの言葉。

 

何もおかしくない言葉。

 

けれど、本当に大丈夫だったのだろうか。

 

手伝ってもらうことが大きな意味を持つわけではない。

 

ただプリントを運ぶだけ。

 

それでも、断った瞬間に何かを一つ閉じたような気がした。

 

詩織は、窓の外を見た。

 

校庭の向こうに、伝説の木が見える。

 

冬を越えた枝が、夕方の光を受けている。

 

卒業式の日。

 

あの木の下で、誰かが誰かに言葉を届ける。

 

誰かが選び、誰かが選ばれる。

 

そんな噂を、詩織は何度も聞いてきた。

 

自分があの木の下に立つ姿を想像できないわけではない。

 

けれど今、ふと別の場所が頭をよぎった。

 

木の下ではない。

 

ほんの少し離れた場所。

 

そこに立っている自分。

 

誰かを見ている。

 

何かを言おうとしている。

 

けれど、その声は届かない。

 

詩織は足を止めた。

 

胸の奥が、少しだけ冷えた。

 

そんな記憶はない。

 

そんな出来事は起きていない。

 

卒業式はまだ来ていない。

 

それなのに、どうして今そんなことを考えたのだろう。

 

詩織は、ゆっくり息を吸った。

 

きっと、卒業式が近いから。

 

伝説の木の話を何度も聞いたから。

 

悠真のことを考えていたから。

 

そう思うことはできた。

 

けれど、その想像はすぐには消えなかった。

 

声が届かない場所。

 

伝説の木の外側。

 

詩織は目を伏せる。

 

自分は、何を怖がっているのだろう。

 

まだ、その答えは分からなかった。

 

職員室へプリントを届けた後、詩織はゆっくり教室へ戻った。

 

廊下の窓には、さっきよりも濃い夕方の光が差している。

 

伝説の木の影が、校庭に長く伸びていた。

 

悠真は、変わった。

 

詩織は、そのことを知っている。

 

頑張っていたことも。

 

何かに近づこうとしていたことも。

 

もしかすると、その何かの中に自分がいたのかもしれないことも。

 

たぶん、知っていた。

 

けれど、確かめなかった。

 

どうして。

 

そう問うには、まだ早かった。

 

答えを出すには、まだ怖かった。

 

だから詩織は、心の中でいつもの言葉を繰り返した。

 

幼馴染だから。

 

その言葉は、近さを説明してくれる。

 

けれど、遠さも隠してしまう。

 

教室の前まで戻ると、中から悠真の声が聞こえた。

 

誰かと笑っている。

 

その声は、昔より少し落ち着いていた。

 

詩織は扉の前で一度だけ立ち止まった。

 

そして、何もなかったように教室へ入った。

 

「藤崎さん、ありがとう」

 

プリントを頼んだクラスメイトが声をかける。

 

「ええ。大丈夫」

 

詩織は自然に答えた。

 

いつも通りに。

 

藤崎詩織として。

 

悠真がこちらを見る。

 

「おかえり」

 

「ただいま」

 

短い言葉。

 

何でもない言葉。

 

けれど、詩織はその言葉の距離をうまく測れなかった。

 

近い。

 

それなのに、遠い。

 

遠い。

 

それなのに、すぐそこにいる。

 

幼馴染という言葉は、二人の関係を簡単にしてくれる。

 

でも、簡単にしすぎてしまう。

 

藤崎詩織は、まだ知らない。

 

自分がその距離にどれほど守られていたのかを。

 

水瀬悠真が変わっていくことに気づきながら、自分からは一歩も測ろうとしなかったことを。

 

そして、その一歩を測らなかったことが、いつか自分自身に問い返されることを。

 

まだ、知らない。

 

ただ、伝説の木の外側から吹いたような冷たさだけが、胸の奥に小さく残っていた。

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