水瀬悠真が、藤崎詩織に追いつきたいと思ったのは、高校一年の春だった。
はっきりとした言葉があったわけではない。
好きだと思った。
恋をしていると自覚した。
そういう分かりやすい始まりではなかった。
ただ、同じ教室にいるはずの詩織が、少し遠く見えた。
名前を呼べるのに。
話しかければ、いつものように返事をしてくれるのに。
幼馴染だと周囲に言われるのに。
それでも、遠い。
その感覚が、少しずつ悠真の中に積もっていった。
「水瀬って、藤崎さんと幼馴染なんだろ?」
一年の春、何度もそう聞かれた。
「いいな」
そう言われた。
悠真は、そのたびに曖昧に笑った。
いいな。
その言葉の意味が、最初はよく分からなかった。
詩織は昔から知っている。
家も近い。
普通に話せる。
名前も呼べる。
それだけのことだった。
けれど、周囲が詩織を見る目を知るほど、悠真は自分がどこに立っているのか分からなくなった。
幼馴染。
それは近い言葉のはずだった。
でも、近さの証明にはならなかった。
詩織は同じ教室にいる。
名前を呼べば振り向いてくれる。
話しかければ、いつものように答えてくれる。
それなのに、遠い。
自分だけが昔の距離を持っているつもりで、実際にはもう、詩織はずっと先にいるのではないか。
そう思うようになった。
一年の春。
悠真は、初めてはっきりと思った。
このままでは、詩織の隣には立てない。
隣に立つ。
その言葉がどういう意味なのか、当時の悠真はうまく分かっていなかった。
恋人になりたい、というほどはっきりしたものではない。
好きだ、と言い切るほど整理されたものでもない。
ただ、詩織の横にいても恥ずかしくない自分になりたかった。
藤崎詩織の幼馴染と言われた時に、胸を張れる自分になりたかった。
詩織にとって、昔から知っているだけの少年で終わりたくなかった。
それが、最初の理由だった。
一年の冬。
悠真は、少しずつ生活を変え始めた。
最初は勉強だった。
模試の結果を見て、ため息をついた日のことを覚えている。
悪い成績ではなかった。
けれど、詩織の名前はもっと上にあった。
当たり前のように。
その差を見た瞬間、胸の奥が重くなった。
詩織はきっと、特別なことをしているつもりはない。
努力して、積み重ねて、その結果としてそこにいる。
そう分かっているからこそ、遠かった。
悠真は、放課後に少しだけ教室へ残るようになった。
最初は、誰にも見られたくなかった。
急に勉強し始めたと思われるのが恥ずかしかった。
詩織に気づかれるのも、何となく嫌だった。
けれど、ある日、忘れ物を取りに戻ってきた詩織に見られた。
「勉強していたの?」
詩織は少し驚いたように言った。
悠真は、参考書を閉じかけて、やめた。
「まあ、ちょっと」
「そう」
詩織はそれ以上、深く聞かなかった。
その代わり、机の上のノートを少しだけ見て、穏やかに言った。
「無理しないでね」
それだけだった。
聞かれなかった。
どうして頑張っているのか。
何を目指しているのか。
そういうことは、聞かれなかった。
ほっとした。
同時に、少しだけ残念だった。
矛盾していると思った。
聞かれたら困る。
でも、聞かれないと寂しい。
自分でもよく分からなかった。
悠真は、その日も結局何も言わなかった。
詩織に近づきたいから。
そう言えるはずがなかった。
二年生になると、詩織とは別のクラスになった。
最初は、少し寂しかった。
その一方で、少しだけ楽になるかもしれないとも思った。
毎日同じ教室で詩織を見ることがなくなれば、この落ち着かない気持ちも薄れるのではないか。
そう思った。
けれど、そうはならなかった。
廊下で見かける。
図書室で見かける。
体育館で見かける。
行事のたびに、彼女の名前を聞く。
違うクラスになっても、藤崎詩織は藤崎詩織だった。
むしろ、遠くから見る分だけ、余計に遠くなった。
だから悠真は、勉強だけでなく、他のことも少しずつ変えた。
体育の授業で手を抜くのをやめた。
苦手な競技でも、最初から諦めるのをやめた。
走るのは得意ではなかった。
それでも、最後まで走った。
失敗して笑われても、すぐに逃げないようにした。
身だしなみにも気を遣うようになった。
髪が跳ねたままでも平気だった自分が、朝、鏡を見るようになった。
制服の着方を直すようになった。
靴が汚れていれば、少し拭くようになった。
そんなことをしている自分に、最初は自分で笑いそうになった。
けれど、続けた。
人との付き合い方も少し変えた。
面倒だからと断る前に、一度は聞く。
頼まれたことを、雑に流さない。
できないことはできないと言う。
でも、できることなら引き受ける。
それは、詩織に近づくためだけではなかった。
変わってみると、少しだけ自分が楽になることもあった。
誰かに礼を言われると、悪い気はしなかった。
テストの点が上がると、素直に嬉しかった。
最後まで走り切れば、少しだけ胸を張れた。
努力した分だけ、自分が前より少しだけましになっている気がした。
それは本当だった。
けれど、その奥にはいつも詩織がいた。
詩織に見られても恥ずかしくない自分。
詩織の隣にいても不自然ではない自分。
藤崎詩織の幼馴染だと言われて、曖昧に笑うだけではなく、胸を張れる自分。
そういうものを、悠真はどこかで求めていた。
二年の終わり頃、友人に言われた。
「水瀬、最近ちゃんとしてるよな」
悠真は、少し驚いた。
「そうか?」
「ああ。前より真面目っていうか、逃げなくなったっていうか」
「何だよ、それ」
「褒めてるんだって」
悠真は笑って流した。
でも、その言葉は少し嬉しかった。
変わっている。
自分は少しずつ変わっている。
そう思えた。
それなのに、詩織との距離が縮まったかと聞かれると、答えられなかった。
廊下で会えば、話す。
図書室で見かければ、挨拶する。
行事で一緒になれば、自然に作業もできる。
けれど、何かが決定的に近づいた感じはなかった。
幼馴染。
その言葉は相変わらず便利だった。
便利で、少し残酷だった。
三年生になって、また詩織と同じクラスになった。
掲示板で名前を見つけた時、悠真は一瞬だけ息を止めた。
最後の一年。
詩織と同じ教室。
その事実に、胸が落ち着かなくなった。
「また同じクラスね、悠真くん」
詩織は自然に言った。
悠真も笑って答えた。
「よろしく、詩織」
その瞬間、ほんの少しだけ昔に戻ったような気がした。
でも、戻ったわけではなかった。
三年生の詩織は、もう完全に藤崎詩織だった。
先生から頼られる。
友人に囲まれる。
進路の話でも、当然のように期待される。
卒業式が近づけば、伝説の木の話題に名前が出る。
藤崎さんなら。
詩織なら。
伝説の木に似合う。
そう言われるたびに、悠真は少しだけ胸がざわついた。
似合うと思った。
それは本当だった。
伝説の木の下に立つ詩織は、きっととても自然だ。
制服姿で。
少し緊張して。
けれど、綺麗に立っている。
そう想像できてしまう。
できてしまう自分が、少し嫌だった。
詩織本人を見ているのか。
藤崎詩織という名前に似合う姿を見ているのか。
その違いが、まだ分からなかった。
三年の秋。
模試の結果が返った日、詩織が言った。
「悠真くん、頑張ったのね」
その言葉は、思っていたより深く胸に入った。
詩織は、見ていた。
少なくとも、少しは。
自分が勉強していたこと。
前より変わろうとしていたこと。
何かに向かっていたこと。
それを、見ていた。
悠真は嬉しかった。
嬉しかったのに、素直には受け取れなかった。
「いや、たまたまだよ」
そう返した。
詩織は首を横に振った。
「たまたまではないと思うわ」
その言葉に、何かを言いそうになった。
本当は、聞きたかった。
詩織は、どう思っていたのか。
自分が頑張っていたことを見て、何を感じていたのか。
自分が詩織に近づこうとしていたことに、気づいていたのか。
でも、聞けなかった。
聞いてしまえば、何かが変わる。
詩織が気づいていなかったなら、苦しい。
気づいていたなら、もっと苦しい。
どちらの答えも、今の悠真には受け取れなかった。
だから、笑ってごまかした。
「詩織に言われると、少し怖いな」
「どうして?」
「ちゃんとしろって言われてるみたいで」
「そんなつもりではないわ」
詩織は少しだけ笑った。
その笑顔は優しかった。
優しかったからこそ、悠真は何も言えなかった。
卒業式まで、あと少しになった今も、悠真は同じ教室で詩織を見ている。
放課後の教室。
窓から夕方の光が差し込んでいる。
詩織は、提出用のプリントをそろえていた。
紙の端を丁寧に整える仕草が、彼女らしいと思った。
「詩織」
名前を呼んだ。
詩織がこちらを見る。
「なに?」
今なら、何か言える気がした。
卒業式のこと。
伝説の木のこと。
三年間のこと。
ずっと追いつきたかったこと。
それを詩織が見ていたのか、聞きたかったこと。
でも、言葉は喉の奥で止まった。
言ってしまったら、何が変わるのだろう。
言えなかったら、何が終わるのだろう。
そのどちらも、怖かった。
「……いや」
悠真は、小さく笑った。
「何でもない」
詩織は、少しだけ目を伏せた。
何かを言いたそうにも見えた。
でも、彼女も何も言わなかった。
二人は、また沈黙した。
窓の外で、伝説の木が夕方の光の中に立っている。
悠真は、その木を見た。
三年間、詩織に追いつこうとしていた。
それは本当だった。
勉強したことも。
逃げないようにしたことも。
少しずつ変わろうとしたことも。
全部、本当だった。
けれど、その先に何を望んでいたのか。
詩織の隣に立ちたかったのか。
詩織に自分を見てほしかったのか。
藤崎詩織に選ばれてもおかしくない自分になりたかったのか。
その違いが、分からなかった。
分からないまま、卒業式が近づいている。
伝説の木の下へ行けば、何かが決まるのだろうか。
詩織に選ばれれば、自分の三年間に意味がつくのだろうか。
そう考えかけて、悠真は目を伏せた。
違う。
そう言いたかった。
けれど、言い切れなかった。
追いつきたかった相手が、本当に詩織だったのか。
それとも、藤崎詩織に届いた自分だったのか。
その問いに、悠真はまだ答えられなかった。
卒業式まで、あと少し。
水瀬悠真は、藤崎詩織に追いつきたかった。
けれど、追いつきたいと思って走ってきた道の先で、自分が本当に誰を見ていたのかを、まだ知らない。