藤崎詩織は、伝説の木の下に立つ   作:エーアイ

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藤崎詩織は、春の話に息を止める

 卒業式が近づくにつれて、校舎の中の時間は少しずつ軽くなっていった。

 

 受験の緊張が完全に消えたわけではない。

 

 まだ結果を待っている生徒もいる。

 

 進学先が決まって、ほっとしたように笑う生徒もいる。

 

 これからの生活に不安を抱えている生徒もいる。

 

 それでも、三年生の教室には少し前よりやわらかな空気があった。

 

 終わりが近い。

 

 その事実が、緊張をほどいているのかもしれない。

 

 あるいは、終わりが近いからこそ、いつまでも緊張し続けていられないのかもしれない。

 

 藤崎詩織は、進路関係の提出物を持って廊下を歩いていた。

 

 進路指導室へ提出する書類。

 

 卒業前の確認事項。

 

 大学へ進むための手続き。

 

 そうした紙は、どれも薄い。

 

 けれど、そこには確かに春から先の時間が書かれている。

 

 進学先。

 

 通学経路。

 

 入学手続き。

 

 オリエンテーションの日程。

 

 春。

 

 卒業の先にある季節。

 

 少し前までは、まだ遠くにあるものだと思っていた。

 

 けれど、もうそこまで来ている。

 

 廊下は静かだった。

 

 放課後の校舎には、以前よりも人が少ない。

 

 部活動へ向かう足音。

 

 教室に残って話し込む声。

 

 卒業式の準備をする下級生の声。

 

 そういうものはある。

 

 けれど、三年生の廊下にはどこか余白があった。

 

 もうすぐここを出る。

 

 そんな空気が、壁や窓にも染み込んでいるようだった。

 

 詩織は、階段の手前で足を止めかけた。

 

 聞き慣れた声がしたからだ。

 

 悠真の声だった。

 

 階段の近く。

 

 窓際の少し開けた場所で、悠真が男子の友人と話していた。

 

 詩織は、立ち止まるつもりではなかった。

 

 聞き耳を立てるつもりもない。

 

 ただ、進路指導室へ向かう途中で、偶然その声が聞こえただけだった。

 

「水瀬、大学決まったら、この辺あんまり来なくなるのか?」

 

 友人の声だった。

 

 軽い調子。

 

 卒業前の雑談。

 

 どこにでもある会話。

 

 悠真は少し考えてから答えた。

 

「たぶん。通学も変わるし、今みたいには来ないんじゃないかな」

 

「そっか。まあ、そうだよな」

 

「うん」

 

 普通の会話だった。

 

 何もおかしくない。

 

 卒業すれば、生活は変わる。

 

 学校へ来る理由もなくなる。

 

 通学路も、時間の使い方も、人と会う頻度も変わる。

 

 当然のことだった。

 

 詩織は、そのまま歩き出そうとした。

 

 けれど、友人が少し笑いながら続けた。

 

「じゃあ、藤崎さんとも今みたいには会わなくなるのか?」

 

 詩織の足が、止まった。

 

 ほんの少しだけ。

 

 誰にも気づかれない程度に。

 

 悠真は、すぐには答えなかった。

 

 短い沈黙があった。

 

 詩織は、その沈黙を聞いてしまった。

 

 やがて悠真が言う。

 

「……まあ、幼馴染だからって、ずっと同じ距離ってわけじゃないだろ」

 

 冷たい声ではなかった。

 

 突き放すような言い方でもなかった。

 

 むしろ、普通だった。

 

 あまりにも普通に、悠真はそう言った。

 

 友人も深く考えた様子はなかった。

 

「まあな。卒業したら、みんなそんなもんか」

 

「そうだな」

 

 会話は、それだけだった。

 

 その後は、進学先の話や、卒業式後の写真の話に変わっていく。

 

 詩織は、ようやく息を吸った。

 

 自分が少しだけ息を止めていたことに気づいた。

 

 どうして。

 

 そう思った。

 

 悠真が言ったことは、何もおかしくない。

 

 卒業したら、今までと同じようには会わない。

 

 同じ教室にいる理由もなくなる。

 

 毎朝、同じ制服で校門をくぐることもなくなる。

 

 幼馴染だからといって、同じ距離がずっと続く保証はない。

 

 それは普通のことだ。

 

 自然なことだ。

 

 間違ってはいない。

 

 詩織は、そう思った。

 

 そう思おうとした。

 

 けれど、胸の奥に小さなものが残った。

 

 痛みというほど大きくはない。

 

 悲しみと呼ぶには、まだはっきりしない。

 

 ただ、小さな棘のようなもの。

 

 指先に刺さって、すぐには抜けないような感覚。

 

 詩織は、提出物を持つ指に少しだけ力を入れた。

 

 悠真くんの言ったことは、普通のこと。

 

 自分にそう言い聞かせる。

 

 卒業すれば、生活は変わる。

 

 それぞれの大学へ行く。

 

 それぞれの春が始まる。

 

 そうなれば、今までのように会うことはなくなる。

 

 幼馴染であることは消えない。

 

 けれど、幼馴染というだけで同じ距離が続くわけではない。

 

 それは、分かっている。

 

 分かっていたはずだった。

 

 それなのに、どうして息が止まったのだろう。

 

 詩織は、階段の手すりに視線を落とした。

 

 金属の手すりには、夕方の光が細く反射している。

 

 冷たそうだと思った。

 

 触れてはいないのに、指先が少し冷えるような気がした。

 

 その時、悠真がこちらに気づいた。

 

「詩織?」

 

 詩織は顔を上げた。

 

 いつものように微笑む。

 

「悠真くん」

 

 声は乱れなかった。

 

「職員室?」

 

 悠真が聞く。

 

「ええ。進路指導室へ提出物を出しに行くところ」

 

「そっか」

 

 悠真は少しだけ頷いた。

 

 友人が軽く会釈する。

 

「藤崎さん、お疲れ」

 

「お疲れさま」

 

 詩織は自然に返した。

 

 何も聞いていないふりをしたわけではない。

 

 実際、聞くつもりで聞いたわけではない。

 

 ただ、会話が耳に入っただけ。

 

 だから、普段通りにすればいい。

 

「卒業式の準備、いろいろあるわね」

 

 詩織が言うと、友人は笑った。

 

「藤崎さんは大変そうだな。先生にも頼られてるし」

 

「そんなことないわ」

 

「いや、絶対あるって」

 

 悠真が少しだけ笑った。

 

「詩織は、こういうのちゃんとしてるからな」

 

 その言葉は、いつもの悠真の声だった。

 

 昔から知っている声。

 

 詩織をよく知っているようで。

 

 けれど、今は少し遠く聞こえる声。

 

 詩織は微笑んだ。

 

「できる範囲でしているだけよ」

 

「それがちゃんとしてるってことだろ」

 

 悠真はそう言った。

 

 何でもないやり取りだった。

 

 幼馴染らしい、短い会話。

 

 だからこそ、さっきの言葉が胸の奥で小さく響いた。

 

 幼馴染だからって、ずっと同じ距離ってわけじゃないだろ。

 

 本当に、その通りだ。

 

 それなのに。

 

「じゃあ、私、行くわね」

 

「うん」

 

 悠真は頷いた。

 

「また後で」

 

 また後で。

 

 その言葉に、詩織は少しだけ安心した。

 

 後で会える。

 

 今日のうちは。

 

 明日もたぶん。

 

 卒業式までは、同じ学校にいる。

 

 同じ教室にいる。

 

 同じ廊下を歩く。

 

 けれど、その「後で」がいつまで続くのかは、もう分からない。

 

「ええ」

 

 詩織は答えた。

 

「また後で」

 

 そう言って、二人の前を通り過ぎる。

 

 背中に悠真たちの声が遠ざかっていく。

 

 会話はもう別の話題に移っていた。

 

 卒業後に集まるかどうか。

 

 誰が写真を撮るか。

 

 春からの通学が大変かどうか。

 

 どれも普通の話だった。

 

 詩織は、進路指導室へ向かった。

 

 書類を提出すると、先生はいつものように確認してくれた。

 

「藤崎、これで大丈夫だな」

 

「ありがとうございます」

 

「卒業式までもう少しだ。体調には気をつけろよ」

 

「はい」

 

 詩織は丁寧に頭を下げた。

 

 いつも通りにできた。

 

 進路指導室を出る。

 

 廊下には、さっきよりも濃い夕方の光が差していた。

 

 詩織は、そのまますぐに教室へ戻らなかった。

 

 少しだけ、人の少ない窓際で足を止めた。

 

 窓の外には、校庭が見える。

 

 その向こうに、伝説の木が立っていた。

 

 夕方の光を受けて、枝の影が長く伸びている。

 

 卒業式の日。

 

 あの木の下で、女の子から告白されて結ばれた二人は、永遠に幸せになれる。

 

 何度も聞いた噂。

 

 友人たちにも、からかわれた。

 

 藤崎さんなら。

 

 詩織なら。

 

 伝説の木に似合う。

 

 そう言われることに、詩織は驚かなかった。

 

 けれど今、窓の外にある木を見ながら思う。

 

 あの木の下に立つことだけを考えていたのかもしれない。

 

 あるいは、誰かが来ることを、どこかで想像していたのかもしれない。

 

 でも、そこへ誰も来なければ。

 

 誰も何も言わなければ。

 

 そして、何も言わないまま卒業してしまえば。

 

 幼馴染という距離は、どうなるのだろう。

 

 悠真くんは、春へ行く。

 

 自分も、春へ行く。

 

 それぞれの春へ。

 

 その言葉は、正しい。

 

 けれど、正しいことがいつも平気なこととは限らない。

 

 詩織は、胸元に手を当てかけて、やめた。

 

 大げさにすることではない。

 

 まだ何も起きていない。

 

 悠真はただ、普通のことを言っただけだ。

 

 卒業したら、今みたいな距離ではなくなる。

 

 それだけ。

 

 それだけのこと。

 

 そう思って、詩織は窓の外から目を離そうとした。

 

 けれど、その瞬間、伝説の木の下ではない場所が目に浮かんだ。

 

 ほんの少し離れた場所。

 

 木の外側。

 

 そこに立つ自分。

 

 誰かを見ている。

 

 何かを言おうとしている。

 

 けれど、声は届かない。

 

 詩織は瞬きをした。

 

 景色は元に戻っている。

 

 窓の外には、夕方の校庭と伝説の木があるだけだった。

 

 そんな場所に立ったことはない。

 

 卒業式は、まだ来ていない。

 

 何も終わっていない。

 

 それなのに、どうしてそんな想像をするのだろう。

 

 詩織は小さく息を吐いた。

 

 考えすぎだ。

 

 卒業式が近いから。

 

 春が近いから。

 

 悠真の言葉が少し気になったから。

 

 きっと、それだけ。

 

「藤崎さん?」

 

 声がして、詩織は振り向いた。

 

 クラスメイトの女子が、廊下の向こうに立っている。

 

「まだいたんだ。教室戻る?」

 

「ええ。今行くわ」

 

 詩織は微笑んだ。

 

 きちんと笑えた。

 

 相手も何も気づかずに笑い返す。

 

 それでいい。

 

 今はまだ、何も起きていない。

 

 ただ、悠真が普通のことを言っただけ。

 

 卒業後は、今みたいな距離ではなくなる。

 

 それだけ。

 

 詩織は窓から目を離した。

 

 教室へ向かって歩き出す。

 

 廊下の先から、誰かの笑い声が聞こえる。

 

 卒業式の話。

 

 写真の話。

 

 春からの話。

 

 その中に、自分の春もある。

 

 悠真の春もある。

 

 それぞれの春。

 

 詩織は、その言葉を心の中で繰り返した。

 

 それぞれ。

 

 自然なことだ。

 

 正しいことだ。

 

 間違ってはいない。

 

 けれど詩織は、その自然さが少しだけ怖かった。

 

 悠真くんは、春へ行く。

 

 私が何も言わなければ、きっと普通に。

 

 幼馴染として。

 

 それぞれの道へ。

 

 藤崎詩織は、そのことをまだ悲しみとは呼ばなかった。

 

 好きとも呼ばなかった。

 

 失うとも、選ばれないとも、呼ばなかった。

 

 ただ、胸の奥に刺さった小さな棘を、まだ抜かずに歩いていた。

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