藤崎詩織は、伝説の木の下に立つ   作:エーアイ

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藤崎詩織は、選ばれることに慣れている

 翌朝になっても、悠真の言葉は少しだけ残っていた。

 

 幼馴染だからって、ずっと同じ距離ってわけじゃないだろ。

 

 水瀬悠真は、ただ普通のことを言っただけだった。

 

 卒業すれば、生活は変わる。

 

 通学路も変わる。

 

 毎日同じ教室で顔を合わせることもなくなる。

 

 幼馴染だからといって、今までと同じ距離が自然に続くわけではない。

 

 それは、何もおかしなことではない。

 

 藤崎詩織は、朝の支度をしながら、何度かそう考えた。

 

 制服のリボンを結ぶ。

 

 髪を整える。

 

 鏡を見る。

 

 そこには、いつもの藤崎詩織が映っていた。

 

 少し眠そうに見えるわけでもない。

 

 顔色が悪いわけでもない。

 

 昨日、ほんの少し息が止まったことなど、誰にも分からない。

 

 自分でも、分からなくしてしまえそうだった。

 

 大げさに考えることではない。

 

 悠真くんは、正しいことを言っただけ。

 

 卒業したら、今までとは変わる。

 

 それだけ。

 

 詩織は、そう自分に言い聞かせた。

 

 それでも、胸の奥に小さな棘のようなものは残っていた。

 

 痛いというほどではない。

 

 けれど、ふとした瞬間に、そこにあると分かる。

 

 朝食を食べている時。

 

 家を出る時。

 

 校門へ向かう道で、見慣れた住宅街を歩いている時。

 

 詩織は、何度かその棘を思い出した。

 

 悠真くんの春に、私は当然いるわけではない。

 

 その言葉は、自分で考えたものなのに、少しだけ冷たかった。

 

 校門をくぐると、卒業式前のざわめきがあった。

 

 三年生の生徒たちは、いつもより少し浮ついている。

 

 泣くには早い。

 

 笑うには少し寂しい。

 

 そんな空気が校舎全体に広がっていた。

 

 詩織が教室に入ると、何人かの女子が窓際に集まっていた。

 

「おはよう、詩織」

 

「おはよう」

 

 詩織はいつものように返す。

 

「ねえ、卒業式の日って、やっぱり写真いっぱい撮るよね」

 

「もちろん」

 

「伝説の木の近くでも撮りたいな」

 

 その言葉に、別の女子が笑った。

 

「あ、いいね。卒業式っぽい」

 

「でも伝説の木って言ったら、やっぱり告白でしょ」

 

「今年は誰が行くんだろうね」

 

 教室の空気が、少しだけ明るくなる。

 

 卒業式前には、こういう話題が増える。

 

 伝説の木。

 

 告白。

 

 誰が誰を呼び出すのか。

 

 誰が勇気を出すのか。

 

 噂半分、期待半分の会話。

 

 詩織は、自分の席に鞄を置きながら聞いていた。

 

「やっぱり藤崎さんじゃない?」

 

 誰かが言った。

 

 一瞬、詩織の名前に視線が集まる。

 

「え?」

 

 詩織は顔を上げた。

 

「だって、伝説の木って言ったら藤崎さんって感じするし」

 

「分かる。詩織があそこに立ってたら、絵になりすぎる」

 

「卒業式の日の伝説の木に一番似合う人、って言われたら詩織だよね」

 

「もう、そういう話ばかりしないの」

 

 詩織は困ったように笑った。

 

 声は自然だった。

 

 顔も、たぶんいつも通りだった。

 

 からかわれているだけ。

 

 友人たちに悪意はない。

 

 むしろ好意だった。

 

 詩織を認めている。

 

 詩織なら似合うと言っている。

 

 それは、嫌な言葉ではなかった。

 

 嫌ではないからこそ、詩織は少しだけ困った。

 

「でも本当に似合うと思う」

 

「詩織なら、告白する側でも告白される側でも絵になるよ」

 

「そういうものじゃないと思うわ」

 

「そうかなあ」

 

 友人たちは笑う。

 

 詩織も笑った。

 

 笑いながら、胸の奥で別のことを考えていた。

 

 自分は、驚かなかった。

 

 伝説の木に似合うと言われたことに。

 

 藤崎詩織なら、と言われたことに。

 

 そこに自分の名前が置かれたことに。

 

 驚かなかった。

 

 そのことに、詩織は少しだけ戸惑った。

 

 伝説の木に近い少女。

 

 そう見られることに、完全に予想外だとは思わなかった。

 

 もちろん、自分からそう望んでいたわけではない。

 

 自分がそこに立つべきだと考えていたわけでもない。

 

 でも、周囲からそう見られることに、まったく心当たりがないとは言えなかった。

 

 藤崎さんなら。

 

 詩織なら。

 

 そう言われることに、詩織は慣れていた。

 

 成績のことでも。

 

 進路のことでも。

 

 学校行事のことでも。

 

 先生から頼まれることでも。

 

 友人から相談されることでも。

 

 藤崎さんなら大丈夫。

 

 詩織ならできる。

 

 その言葉を、詩織は何度も受け取ってきた。

 

 そして、その期待に応えようとしてきた。

 

 嫌だったわけではない。

 

 むしろ、応えられる自分でありたいと思っていた。

 

 頼られることも、認められることも、詩織にとって大切だった。

 

 けれど。

 

 伝説の木に似合う。

 

 その言葉も、同じ場所に置かれているのだとしたら。

 

 自分は、それをどう受け取っているのだろう。

 

「水瀬くんとか?」

 

 誰かが軽く言った。

 

 教室の空気が、ほんの少し変わった。

 

 詩織の指が、机の端に触れる。

 

「ほら、幼馴染だし」

 

「そうそう。藤崎さんと水瀬くんって、昔から知ってるんでしょ?」

 

「卒業式に幼馴染が伝説の木って、すごくそれっぽい」

 

 友人たちは、明るく笑っている。

 

 詩織も笑った。

 

 けれど、自然に返す言葉が少し遅れた。

 

「もう、勝手に話を作らないの」

 

 いつものように言えた。

 

 けれど、その時、詩織は教室の端に悠真がいることに気づいた。

 

 水瀬悠真は、自分の席の近くで教科書を鞄にしまっていた。

 

 こちらの会話が聞こえていたのかどうかは分からない。

 

 でも、誰かが「水瀬くんとか」と言った瞬間、悠真の手がほんの少し止まったように見えた。

 

 気づいているのか。

 

 気づいていないふりをしているのか。

 

 詩織には分からなかった。

 

 悠真はすぐに鞄の中へ視線を落とした。

 

 そして、隣の男子に何か声をかけられて、曖昧に笑った。

 

 その笑い方を、詩織は知っている。

 

 何かを言いかけてやめる時の笑い方。

 

 ごまかす時の笑い方。

 

 少し照れた時の笑い方。

 

 詩織は、胸の奥の小さな棘を思い出した。

 

 幼馴染だからって、ずっと同じ距離ってわけじゃないだろ。

 

 悠真の春に、自分は当然いるわけではない。

 

 それなのに、周囲は言う。

 

 藤崎さんなら。

 

 詩織なら。

 

 伝説の木に似合う。

 

 水瀬くんとか。

 

 その二つが、胸の中で並ぶ。

 

 悠真の未来に、自分が当然いるわけではない。

 

 でも、伝説の木の下には、自分が当然いるように見られている。

 

 そのずれが、詩織には少しだけ不思議だった。

 

 そして、少しだけ落ち着かなかった。

 

「詩織?」

 

 友人の声で、詩織は我に返る。

 

「大丈夫?」

 

「ええ」

 

 詩織は微笑んだ。

 

「少し考え事をしていただけ」

 

「卒業式のこと?」

 

「そうね」

 

 嘘ではなかった。

 

 卒業式のことを考えていた。

 

 伝説の木のことも。

 

 悠真のことも。

 

 そして、自分がどう見られているのかも。

 

 やがて担任が教室に入り、朝のホームルームが始まった。

 

 卒業式の当日の流れ。

 

 配布物の確認。

 

 進路関係の締切。

 

 写真撮影の注意。

 

 担任は一つずつ説明していく。

 

「藤崎」

 

 途中で名前を呼ばれた。

 

 詩織は顔を上げる。

 

「この後、進路指導室に寄ってくれるか。確認しておきたい書類がある」

 

「はい」

 

 自然に返事をする。

 

 教室の何人かが、小さく笑った。

 

「やっぱり藤崎さん、先生に頼られるよね」

 

「詩織なら大丈夫って感じだもん」

 

 詩織は少しだけ困ったように笑った。

 

「そんなことないわ」

 

 いつもの言葉。

 

 けれど、その言葉を言いながら、自分が本当に驚いていないことに気づく。

 

 先生に頼られること。

 

 友人にそう言われること。

 

 藤崎詩織なら大丈夫だと見られること。

 

 自分は、それに慣れている。

 

 完全に嫌がっているわけではない。

 

 むしろ、その場所にいることで安心しているところもある。

 

 そう思いかけて、詩織は目を伏せた。

 

 安心。

 

 その言葉は、少しだけ重かった。

 

 ホームルームが終わると、教室は再びざわめき出した。

 

 詩織は、進路指導室へ行くために席を立つ。

 

 その時、悠真と目が合った。

 

 ほんの一瞬。

 

 悠真は何か言おうとしたように見えた。

 

 けれど、すぐに視線を逸らした。

 

「詩織」

 

 結局、彼は名前だけを呼んだ。

 

「なに?」

 

「いや」

 

 悠真は、少しだけ笑った。

 

「呼ばれてたなって」

 

「ええ。少し行ってくるわ」

 

「そっか」

 

 それだけだった。

 

 それだけで済んでしまう会話。

 

 詩織は、廊下へ出た。

 

 教室の扉が背後で閉まる。

 

 廊下は、朝の光で白く見えた。

 

 詩織はゆっくり歩きながら、さっきの会話を思い返す。

 

 藤崎さんなら。

 

 詩織なら。

 

 伝説の木に似合う。

 

 水瀬くんとか。

 

 そして、悠真の少し止まった手。

 

 曖昧な笑い方。

 

 名前だけを呼んで、何も続けなかった声。

 

 詩織は、窓の外を見た。

 

 校庭の向こうに、伝説の木が立っている。

 

 まだ朝の光の中にあるその木は、昨日の夕方よりも穏やかに見えた。

 

 卒業式の日。

 

 あの木の下に自分が立つことを、周囲は自然に想像する。

 

 自分も、驚きはしない。

 

 そのことが、少しだけ怖かった。

 

 選ばれて当然だと思っていたわけではない。

 

 待っていれば誰かが来ると思っていたわけでもない。

 

 そう言い切りたい。

 

 けれど、そうでなかったとも言い切れない。

 

 少なくとも、自分はその場所を完全に拒んではいなかった。

 

 伝説の木に近い少女として見られることを、完全に他人事だとは思っていなかった。

 

 詩織は、廊下の途中で足を止めた。

 

 窓ガラスに、自分の姿が薄く映っている。

 

 藤崎詩織。

 

 誰からも信頼される少女。

 

 伝説の木に似合うと言われる少女。

 

 その姿を見て、詩織は小さく息を吸った。

 

 私は、そう見られることに慣れていたのかもしれない。

 

 声には出さなかった。

 

 まだ、そう断定するには早い気がした。

 

 それでも、その考えは胸の奥に静かに沈んだ。

 

 昨日の小さな棘とは違う。

 

 痛みではなく、重さだった。

 

 自分がどこに立っているのか。

 

 自分がどこに置かれてきたのか。

 

 そのことを、初めて少しだけ意識した。

 

 進路指導室へ向かうため、詩織は再び歩き出した。

 

 廊下の先に、春の光が差している。

 

 卒業式は、もうすぐそこまで来ている。

 

 悠真くんの春に、私は当然いるわけではない。

 

 でも、伝説の木の下には、私は当然いるように見られている。

 

 その二つの間で、詩織はまだ答えを出せなかった。

 

 ただ、ひとつだけ分かった。

 

 驚かなかった。

 

 自分が伝説の木に近い少女として語られることに。

 

 驚かなかったことに、ようやく少しだけ気づいた。

 

 藤崎詩織は、まだその意味を知らない。

 

 けれど、その気づきは、卒業式へ向かう廊下の中で静かに残った。

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