藤崎詩織は、伝説の木の下に立つ   作:エーアイ

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水瀬悠真は、卒業式の夢を見る

 その日の夜、水瀬悠真はなかなか眠れなかった。

 

 机の上には、卒業式関係のプリントが置かれている。

 

 式の流れ。

 

 集合時間。

 

 証書授与の順番。

 

 卒業後の提出物。

 

 どれも、あと少しで高校生活が終わることを示している。

 

 悠真は椅子に座ったまま、ぼんやりとその紙を見ていた。

 

 卒業式まで、あと少し。

 

 それは分かっている。

 

 けれど、どうしても実感が追いつかなかった。

 

 明日も学校へ行く。

 

 教室に入る。

 

 友人と話す。

 

 詩織に会う。

 

 いつものように、名前を呼ばれるかもしれない。

 

「悠真くん」

 

 その声を思い出す。

 

 小さい頃から何度も聞いてきた声。

 

 一年の春にも。

 

 二年の廊下でも。

 

 三年の教室でも。

 

 あまりにも自然に自分の名前を呼ぶ声。

 

 けれど、卒業式が近づいた今、その声は少しだけ違って聞こえる。

 

 いつまでも続くものではない。

 

 そう分かってしまったからかもしれない。

 

 悠真は、昼間の教室を思い出した。

 

 女子たちが伝説の木の話をしていた。

 

 藤崎さんなら。

 

 詩織なら。

 

 伝説の木に似合う。

 

 そして、誰かが軽く言った。

 

 水瀬くんとか。

 

 その言葉は、冗談のようなものだった。

 

 卒業式前の明るい会話。

 

 誰かをからかう時の軽い言葉。

 

 本気で答える必要のない話題。

 

 だから悠真は何も言わなかった。

 

 否定もしなかった。

 

 肯定もしなかった。

 

 ただ、鞄の中に視線を落として、曖昧に笑った。

 

 いつものことだった。

 

 ああいう時、自分はいつも何も言わない。

 

 詩織の名前が出ても。

 

 自分の名前が並べられても。

 

 伝説の木の話題になっても。

 

 本当は何か言えるはずなのに、言わない。

 

 言えば何かが変わる気がする。

 

 変わることが怖い。

 

 だから、何も言わない。

 

 そのくせ、何も言わなかった後で、胸の奥に小さな痛みだけが残る。

 

 悠真は、机の上のプリントを閉じた。

 

 ベッドに横になる。

 

 部屋の電気を消すと、天井が暗く沈んだ。

 

 目を閉じる。

 

 けれど、すぐには眠れない。

 

 伝説の木のことを考えてしまう。

 

 卒業式の日。

 

 校庭の奥に立つ木。

 

 その下に立つ詩織。

 

 その想像は、あまりにも自然だった。

 

 藤崎詩織は、伝説の木に似合う。

 

 そう思ってしまう自分がいる。

 

 制服姿で。

 

 少し緊張して。

 

 けれど、きっと崩れずに立っている。

 

 誰かを待っているのかもしれない。

 

 誰かに言葉を届けるのかもしれない。

 

 その姿を想像することは、簡単だった。

 

 簡単すぎた。

 

 悠真は、目を閉じたまま眉を寄せる。

 

 それは、詩織なのだろうか。

 

 それとも、藤崎詩織という名前にふさわしい姿なのだろうか。

 

 昔から知っている、少し負けず嫌いで、少し細かくて、怒るときちんと怒る詩織。

 

 それとも、みんなが見ている、成績優秀で、品行方正で、伝説の木に似合う藤崎詩織。

 

 自分はどちらを想像しているのだろう。

 

 答えは出なかった。

 

 分からないまま、眠気だけが少しずつ近づいてくる。

 

 意識が沈む直前、悠真はまた昼間の会話を思い出した。

 

 水瀬くんとか。

 

 その言葉に、何も返せなかった自分。

 

 そして、ほんの一瞬こちらを見た詩織の顔。

 

 何かを待っていたのか。

 

 それとも、ただ聞こえてしまっただけなのか。

 

 分からない。

 

 分からないまま、悠真は眠りに落ちた。

 

 卒業式の日の空は、青かった。

 

 夢の中で、悠真は校庭に立っていた。

 

 手には、卒業証書の筒がある。

 

 白い筒だった。

 

 その白さだけが、妙にはっきりしている。

 

 周りには、生徒たちがいた。

 

 卒業生。

 

 在校生。

 

 教師。

 

 花束を抱えた後輩。

 

 笑っている友人。

 

 泣きそうな顔の誰か。

 

 たくさんの人がいるはずなのに、声は遠かった。

 

 まるで水の中にいるように、音が薄く揺れている。

 

 誰かが笑っている。

 

 誰かが名前を呼んでいる。

 

 誰かが写真を撮ろうとしている。

 

 でも、その声は悠真の耳まで届ききらない。

 

 悠真は、校庭の奥を見た。

 

 伝説の木があった。

 

 現実よりも少し遠く見える。

 

 けれど、そこにあることだけは分かった。

 

 あそこへ行かなければならない。

 

 そう思った。

 

 誰かに呼ばれたわけではない。

 

 約束したわけでもない。

 

 それなのに、足がそちらへ向いていた。

 

 卒業証書の筒を持ったまま、悠真は歩き出す。

 

 校庭の音が、さらに遠ざかっていく。

 

 伝説の木へ近づくほど、周りの生徒たちの姿が薄くなる。

 

 桜の花びらのようなものが、空中をゆっくり流れている。

 

 風が吹いているのかどうかは分からない。

 

 ただ、花びらだけが静かに動いていた。

 

 伝説の木の下に、誰かが立っていた。

 

 少女だった。

 

 最初は詩織に見えた。

 

 背筋。

 

 髪の揺れ方。

 

 制服の着方。

 

 そこに立つ姿。

 

 どれも、詩織に似ていた。

 

 悠真は足を止める。

 

「詩織」

 

 呼ぼうとした。

 

 けれど、声が出なかった。

 

 口は動いたはずなのに、音にならない。

 

 木の下の少女は、こちらを見ているようだった。

 

 でも、顔がはっきりしない。

 

 詩織のように見える。

 

 詩織ではないようにも見える。

 

 藤崎詩織という輪郭だけが、そこに立っているようだった。

 

 悠真は、もう一歩進もうとした。

 

 その時、視界の端に別の影が見えた。

 

 木の下ではない。

 

 ほんの少し離れた場所。

 

 伝説の木の外側。

 

 そこにも、誰かが立っていた。

 

 その人も、詩織に見えた。

 

 けれど、木の下にいる少女とは違う。

 

 遠くから見ている。

 

 何かを言おうとしている。

 

 でも、その声は届いていない。

 

 悠真はそちらへ行こうとした。

 

 足が動かなかった。

 

 木の下の少女と。

 

 木の外側に立つ誰か。

 

 どちらも詩織に見える。

 

 どちらも詩織ではないように見える。

 

 悠真は、何か言わなければならないと思った。

 

 何を言えばいいのかは分からない。

 

 ただ、言わなければならない。

 

 そうしなければ、何かが終わってしまう。

 

 そんな気がした。

 

「俺は……」

 

 ようやく声が出かけた。

 

 けれど、言葉にならなかった。

 

 風が強くなった。

 

 卒業証書の筒が、手の中で妙に軽くなる。

 

 周囲の景色が少しずつ滲んでいく。

 

 体育館前の生徒たち。

 

 校舎。

 

 青い空。

 

 伝説の木。

 

 木の下に立つ少女。

 

 木の外側に立つ誰か。

 

 すべてが薄い紙のように重なって、ずれていく。

 

 悠真は、必死に目を凝らした。

 

 木の外側に立つ誰かが、こちらを見た気がした。

 

 微笑んでいるようにも見えた。

 

 泣いているようにも見えた。

 

 何かを言っている。

 

 けれど、やはり声は届かない。

 

 悠真は、胸が苦しくなった。

 

 これは、まだ起きていないことだ。

 

 そう思った。

 

 卒業式は、まだ来ていない。

 

 詩織はまだ、伝説の木の下に立っていない。

 

 自分も、まだ何も言っていない。

 

 何も終わっていない。

 

 それなのに。

 

 どうして、もう後悔しているのだろう。

 

 花びらが止まった。

 

 世界の音が完全に消える。

 

 伝説の木だけが、静かに立っている。

 

 その根元から、誰のものとも分からない声がした。

 

 声というより、葉が擦れる音のようだった。

 

 まだ。

 

 悠真は、息を止める。

 

 まだ、終われない。

 

 その言葉だけが、はっきり残った。

 

 次の瞬間、夢は崩れた。

 

 悠真は目を覚ました。

 

 部屋は暗い。

 

 カーテンの隙間から、朝になる前の薄い光が差し込んでいる。

 

 しばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。

 

 校庭ではない。

 

 伝説の木の前でもない。

 

 自分の部屋だ。

 

 ベッドの上。

 

 卒業式は、まだ来ていない。

 

 悠真はゆっくり体を起こした。

 

 汗をかいているほどではない。

 

 息も乱れてはいない。

 

 けれど、胸の奥がざわついていた。

 

 夢の内容は、もう少しずつ薄れている。

 

 細かい部分は思い出せない。

 

 誰が立っていたのか。

 

 何を言おうとしたのか。

 

 自分はどちらへ行こうとしたのか。

 

 分からない。

 

 覚えているのは、いくつかの断片だけだった。

 

 卒業式の青い空。

 

 白い卒業証書の筒。

 

 伝説の木。

 

 木の下に立つ誰か。

 

 木の外側に立つ誰か。

 

 届かなかった声。

 

 そして。

 

 まだ、終われない。

 

 悠真は、枕元の時計を見た。

 

 まだ朝には少し早い。

 

 卒業式の日ではない。

 

 今日は、まだその数日前だ。

 

 何も終わっていない。

 

 何も始まっていない。

 

 それなのに、胸の奥には、もう何かを失敗した後のような痛みが残っていた。

 

 悠真は、手のひらを見た。

 

 夢の中で持っていた卒業証書の筒は、もちろんない。

 

 けれど、その軽さだけが指先に残っている気がした。

 

「……何なんだよ」

 

 小さく呟く。

 

 答えはない。

 

 部屋の中は静かだった。

 

 悠真は、もう一度横になろうとして、やめた。

 

 眠れば、またあの夢を見る気がした。

 

 伝説の木の下に立つ誰か。

 

 その外側に立つ誰か。

 

 どちらも詩織に見えた。

 

 どちらも、詩織ではないように見えた。

 

 悠真は、窓の外へ目を向けた。

 

 夜明け前の空が、少しずつ白くなっている。

 

 卒業式は、まだ来ていない。

 

 まだ、終わっていない。

 

 それなのに、なぜかもう失敗した後みたいだった。

 

 水瀬悠真は、その感覚を胸の奥に抱えたまま、朝が来るのを待っていた。

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