卒業式の日の朝、水瀬悠真は目を覚ました。
カーテンの隙間から、淡い朝の光が差し込んでいる。
部屋の空気は少し冷たい。
机の上には、昨日確認した卒業式のプリントが置かれていた。
集合時間。
式の流れ。
卒業証書授与の順番。
持ち物。
どれも見慣れた文字のはずなのに、その朝は妙にはっきり見えた。
悠真は、しばらくベッドの上で動かなかった。
卒業式。
今日で、高校生活が終わる。
そう思っても、うまく実感できない。
昨日までと同じように学校へ行く。
同じ校門をくぐる。
同じ教室へ入る。
友人と話す。
詩織に会う。
それなのに、今日は最後の日だった。
悠真はゆっくり起き上がり、制服に着替えた。
鏡を見る。
卒業式の日の自分が、そこに映っている。
何かが変わったようには見えない。
けれど、胸の奥だけが落ち着かなかった。
昨日見た夢のせいかもしれない。
青い空。
白い卒業証書の筒。
伝説の木。
木の下に立つ誰か。
木の外側に立つ誰か。
そして、届かなかった声。
思い出そうとすると、夢の輪郭はすぐにぼやける。
ただ、一つだけ残っていた。
まだ、終われない。
その感覚だけが、胸の奥に沈んでいる。
悠真は首を振った。
今日は卒業式だ。
夢のことを考えている場合ではない。
そう思って、鞄を持った。
学校へ向かう道は、いつもと同じだった。
けれど、いつもと同じだからこそ、少しだけ違って見える。
通い慣れた道。
見慣れた角。
朝の光を受ける住宅街。
何度も歩いてきた道。
明日からは、当たり前のようには歩かない道。
校門の前には、すでに何人かの生徒がいた。
早く来すぎたと笑っている者。
卒業証書の筒をまだ受け取ってもいないのに、写真の話をしている者。
泣くには早いと言いながら、どこか落ち着かない顔をしている者。
卒業式の日らしい朝だった。
何もおかしなことはない。
空は晴れている。
校舎はいつも通りそこにある。
体育館も、校庭も、廊下も、何も変わっていない。
校舎の奥には、伝説の木が見えた。
冬を越えた枝が、朝の光を受けて静かに立っている。
夢で見たような遠さはない。
ただの木だった。
少なくとも、その時はそう見えた。
「悠真くん」
声がして、悠真は振り向いた。
藤崎詩織が立っていた。
制服姿。
整えられた髪。
卒業式の日でも、いつも通りに見える。
けれど、いつもより少しだけ静かな顔をしている気がした。
「おはよう、詩織」
「おはよう」
詩織は微笑んだ。
その笑顔は自然だった。
自然すぎて、悠真は少しだけ胸が詰まった。
夢の中で見た誰かと、今目の前にいる詩織が一瞬だけ重なる。
木の下に立っていた少女。
木の外側に立っていた誰か。
どちらも詩織に見えた。
けれど、今ここにいるのは現実の詩織だ。
そう思おうとした。
「卒業式ね」
詩織が言った。
「ああ」
悠真は頷いた。
「早いな」
「そうね」
会話は短かった。
けれど、その短さに慣れすぎている自分がいた。
続けようと思えば、続けられたかもしれない。
卒業式の後のこと。
伝説の木のこと。
三年間のこと。
何かを言えるかもしれない。
けれど、校門の前には同級生の声がある。
友人たちの笑い声がある。
卒業式前のざわめきがある。
悠真は、結局何も言わなかった。
詩織も、それ以上は何も言わなかった。
「じゃあ、また後で」
悠真が言うと、詩織は少しだけ頷いた。
「ええ。また後で」
また後で。
その言葉は、今日で最後になるかもしれない。
そう思いかけて、悠真は目を逸らした。
卒業式は、普通に始まった。
体育館には、卒業生たちが整然と並んでいる。
壇上には花が飾られている。
教師たちが並び、在校生が拍手で迎える。
開式の言葉。
校歌。
卒業証書授与。
式辞。
送辞。
答辞。
どれも、悠真が想像していた通りの卒業式だった。
夢のように音が遠くなることもない。
空が急に暗くなることもない。
伝説の木が視界に入り込んでくることもない。
何も起きない。
本当に、何も起きなかった。
悠真は卒業証書を受け取った。
白い筒を手に持つ。
昨日の夢で見たものと同じはずなのに、現実のそれは少しだけ重かった。
壇上から戻る途中、卒業生の列の中に詩織が見えた。
彼女は前を向いて座っている。
背筋を伸ばし、式にふさわしい顔をしていた。
藤崎詩織。
そう呼ばれることが、よく似合う姿だった。
悠真は、ほんの一瞬だけ胸がざわつく。
あの詩織を、自分はずっと見ていたのだろうか。
それとも、もっと近くにいたはずの詩織を見ていなかったのだろうか。
答えが出る前に、悠真は自分の席へ戻った。
式は続いた。
そして、終わった。
閉式の言葉が告げられ、体育館に拍手が広がる。
卒業生たちが退場する。
外へ出ると、春の光が眩しかった。
空は青い。
昨日の夢で見た空に、少し似ていた。
けれど、現実の空だった。
体育館前では、すぐに写真を撮る声が広がった。
「卒業おめでとう」
「写真撮ろうぜ」
「先生呼んできて」
「泣くの早いって」
笑い声と泣き声が混ざる。
悠真も何人かの友人に囲まれた。
写真を撮った。
肩を叩かれた。
進学後も会おうと言われた。
また連絡する、と答えた。
そのどれもが普通だった。
卒業式の日らしい、正しい時間だった。
伝説の木の方を見る。
校舎の奥に、木が立っている。
何かが起きるのではないかと思った。
昨日の夢のように、そこへ行かなければならないのではないかと思った。
けれど、誰にも呼ばれなかった。
木の下に誰かが立っているわけでもない。
木の外側に、誰かがいるわけでもない。
ただ、卒業式の日の校庭に、伝説の木が立っているだけだった。
何も起きないじゃないか。
悠真は、そう思った。
少し拍子抜けした。
同時に、少しだけ安心した。
夢は夢だった。
ただの不安だった。
卒業式前に伝説の木の話を聞きすぎたせいで、変な夢を見ただけだったのかもしれない。
そう思おうとした。
その時、詩織と目が合った。
少し離れた場所で、友人たちと写真を撮っていた詩織が、こちらを見ていた。
悠真は、自然にそちらへ歩いた。
詩織も、友人たちに少し断ってこちらへ来る。
二人は校庭の端で向かい合った。
周囲にはまだ人の声がある。
けれど、その場所だけ少し静かに感じた。
「卒業、おめでとう。悠真くん」
詩織が言った。
「詩織も、おめでとう」
悠真も答えた。
たったそれだけ。
幼馴染としての、自然な挨拶。
卒業式の日に交わすべき言葉。
間違ってはいない。
何もおかしくない。
それでも、悠真は喉の奥に何かが引っかかったような気がした。
言うべきことがあるのではないか。
聞くべきことがあるのではないか。
でも、何を。
伝説の木のことか。
三年間のことか。
詩織が何を思っていたのか。
自分が何を見ていたのか。
そのどれも、ここで言うには大きすぎた。
大きすぎて、また言えなかった。
詩織も、何かを言いかけたように見えた。
けれど、彼女はいつものように微笑んだ。
「この後、写真を撮る約束があるの」
「ああ」
「悠真くんも?」
「うん。友達に呼ばれてる」
「そう」
短い会話。
何でもない会話。
けれど、これで終わってしまうかもしれない会話。
悠真は、もう一度言葉を探した。
見つからなかった。
「また」
そこまで言って、止まった。
また。
また何だろう。
また明日。
それはもう使えない。
また学校で。
それも違う。
また連絡する。
それはあまりにも普通で、少し遠い。
詩織は、静かに悠真を見ていた。
悠真は結局、曖昧に笑った。
「また、連絡する」
詩織は、ほんの少しだけ目を伏せた。
それから、微笑んだ。
「ええ」
たったそれだけだった。
二人は、別れた。
詩織は友人たちの方へ戻っていく。
悠真も、友人たちの輪へ戻った。
その後も、卒業式後の時間は普通に過ぎていった。
写真を撮った。
先生に挨拶した。
後輩から声をかけられた。
友人と笑った。
校舎を少し見て回った。
伝説の木を遠くから見た。
それでも、何も起きなかった。
やがて、人が少しずつ校門へ向かい始めた。
卒業生たちが、それぞれの春へ出ていく。
悠真も、友人たちと校門の方へ歩いた。
卒業証書の筒を手に持っている。
校門の外には、いつもの道がある。
何度も通った道。
明日からは、当たり前のようには通らない道。
門の内側と外側。
その境目が、今日はいつもよりはっきり見えた。
悠真は、校門の前で一度だけ振り返った。
校舎。
体育館。
教室の窓。
そして、校舎の奥にある伝説の木。
詩織の姿は見えなかった。
きっと、まだ友人たちといるのだろう。
それでいい。
そう思おうとした。
卒業式は終わった。
何も言わなかった。
何も聞かなかった。
でも、誰も悪くない。
それが普通なのかもしれない。
幼馴染として卒業し、これからはそれぞれの道へ進む。
そういう終わり方も、きっとある。
悠真は、そう思った。
そう思うことで、校門の外へ足を踏み出そうとした。
その瞬間だった。
音が消えた。
友人の笑い声が途中で止まった。
風が止まった。
空を舞っていた花びらが、宙に浮いたまま動かない。
校門の外を歩いていた人影も、振り返っていた生徒も、笑っていた友人も、すべてが止まっていた。
悠真だけが動いていた。
「……え?」
声が、自分のものとは思えないほど小さく聞こえた。
世界は止まっている。
卒業式のざわめきが、切り取られたように消えている。
遠くの時計の針も動いていない。
空の雲さえ、形を変えない。
悠真は、校門の外へ出そうとしていた足を止めた。
胸の奥で、昨日の夢の言葉が蘇る。
まだ、終われない。
背後から、声がした。
「行かないで」
悠真は振り返った。
校門の内側。
卒業式を終えた校庭の奥。
そこに、詩織が立っていた。
いや。
詩織に見える誰かが立っていた。
制服姿。
整えられた髪。
藤崎詩織と同じ顔。
けれど、何かが違う。
影が濃い。
目が暗い。
微笑んでいるのに、温度がない。
完璧すぎるほど、藤崎詩織だった。
悠真は、喉が乾くのを感じた。
「詩織……?」
彼女は、静かに首を横に振った。
「違うわ」
そして、微笑む。
「でも、私よ」
悠真は動けなかった。
その声も、顔も、詩織と同じだった。
けれど、昼間の詩織ではない。
校門前で「卒業おめでとう」と言った詩織ではない。
もっと深いところから出てきた何か。
見てはいけなかったものを見ているような感覚がした。
彼女は、校庭の方からゆっくり歩いてくる。
止まった世界の中で、彼女だけが動いていた。
「こんな終わり方はないでしょう?」
声は静かだった。
怒っているようには聞こえない。
けれど、ひどく冷たかった。
「私は、まだ伝えていない」
彼女は続ける。
「あなたも、まだ何も言っていない」
悠真は言葉を失った。
「なのに、どうして卒業しようとするの?」
校門の外。
春の光。
それぞれの道。
そこへ向かおうとしていた足が、急に重くなる。
「卒業式は終わった」
悠真はかすれた声で言った。
「終わってないわ」
彼女はすぐに返した。
「終わったことにしただけ」
その言葉が、胸に刺さった。
終わったことにしただけ。
何も言わずに。
何も聞かずに。
ただ、正しい卒業式の流れに乗って、終わったことにした。
彼女は、悠真の目の前まで来ると、校門の外を見た。
「そこへ出たら、あなたは卒業する」
「それが普通だ」
「ええ。普通よ」
彼女は頷いた。
「何も言わなかった幼馴染が、何も言わないまま卒業して、それぞれの春へ行く」
「誰も悪くない」
「何も壊れていない」
「綺麗な終わり方」
彼女の声は静かだった。
静かすぎて、痛かった。
「でも、私はそんな終わりを認めない」
悠真は、息を呑んだ。
「認めないって……」
「これは、まだ来ていない卒業式よ」
彼女は言った。
悠真は、耳を疑った。
「まだ来ていない……?」
「ええ」
彼女は、止まった校庭を見渡す。
「明日、あなたたちはこうやって卒業する」
「何も言わずに」
「何も聞かずに」
「誰も悪くないまま、全部を終わったことにする」
悠真は、言葉を返せなかった。
明日。
その言葉が、足元を揺らす。
卒業式は今日ではない。
これはまだ、来ていない。
そう言われた瞬間、世界の輪郭が少しだけ歪んだ。
体育館。
校庭。
止まった友人たち。
青い空。
白い卒業証書の筒。
すべてが現実そのものに見える。
けれど、どこかで薄い膜を一枚挟んでいるようにも感じられた。
「夢……なのか?」
悠真が呟く。
彼女は少しだけ笑った。
「夢でもあるわ」
「でも、ただの夢ではない」
「このまま何も言わなかった時に辿り着く、終わりの形」
校門の向こうの道が、黒く滲み始める。
春の光が塗りつぶされる。
アスファルトの道が、黒板のような暗さに変わっていく。
そこに、白い文字が滲んだ。
卒業式 未完了
悠真が読めたのは、そこまでだった。
その下には、文字になりきらないものがいくつも揺れていた。
届かなかった言葉。
聞かれなかった問い。
言えなかった名前。
終わったことにされた時間。
それらが、粉筆の粉のように崩れながら、校門の向こうへ流れていく。
「最初からやり直すのではないわ」
彼女は言った。
「終わらせないの」
「何も言えなかった卒業式を、終わったことにはしない」
「届かなかった言葉が、届くまで」
悠真は、背筋が冷たくなるのを感じた。
意味は、まだ分からない。
けれど、目の前の彼女がただの夢の登場人物ではないことだけは分かった。
「お前は……何なんだ」
悠真が聞く。
彼女は、少しだけ目を伏せた。
「私は、藤崎詩織が認めなかった藤崎詩織」
その言葉の意味を、悠真は理解できなかった。
理解できないのに、なぜか胸が苦しくなった。
彼女は続ける。
「待っていた私」
「選ばれたかった私」
「外側に立つ私を、どうしても認められなかった私」
その言葉の中に、昨日の夢で見た断片が重なる。
木の下に立つ少女。
木の外側に立つ誰か。
どちらも詩織に見えた理由が、少しだけ分かりかける。
けれど、まだ届かない。
彼女は、悠真の方を見る。
「あなたも見なければならないわ」
「何を」
「あなたが見ていた藤崎詩織を」
悠真の胸が強く鳴った。
「俺が……?」
「ええ」
彼女は微笑む。
「あなたは私を見ていた」
「でも、本当に私を見ていたのかしら」
その言葉に、悠真は反論しようとした。
違う。
自分は詩織を見ていた。
ずっと。
小さい頃から。
高校に入ってからも。
追いつこうとして。
隣に立ちたくて。
見ていた。
そう言いたかった。
けれど、言葉が出なかった。
伝説の木の下に立つ藤崎詩織。
その姿を、あまりにも自然に想像してしまった自分。
詩織に届いた自分を、どこかで望んでいたかもしれない自分。
その全部が、喉の奥で引っかかった。
彼女は、校門の内側へ手を伸ばした。
校門の外の黒が、さらに深くなる。
黒板のような闇。
滲む白い文字。
粉筆の粉のように崩れる言葉。
遠くで鳴るチャイム。
悠真は、止まった友人たちを見た。
誰も動かない。
誰も助けてくれない。
そもそも、これは明日ですらないのだと、彼女は言った。
まだ来ていない卒業式。
何も言わなかった時に辿り着く終わり。
それを見せられている。
そう理解した瞬間、悠真の足元が揺れた。
校門の敷石が、ゆっくり沈む。
地面が割れるのではない。
床がなくなるわけでもない。
ただ、校門の向こう側が、学校ではないどこかへ変わっていく。
彼女は静かに言った。
「見てきなさい」
「あなたが作った藤崎詩織を」
「そして、届かなかった言葉がどこへ行ったのかを」
悠真は、何かを言おうとした。
けれど、その前に足元が消えた。
校門の向こうへ落ちる。
空が遠ざかる。
止まった卒業式が遠ざかる。
校門が遠ざかる。
詩織に似た彼女が、最後までこちらを見ていた。
その顔は、笑っているようにも見えた。
泣いているようにも見えた。
悠真は、落ちていく。
黒板のような闇の中へ。
届かなかった言葉が、白い粉のように流れていく。
聞かれなかった問いが、遠くでチャイムの音に混じる。
言えなかった名前が、校門の向こうでほどけていく。
その意味を理解する前に、視界が反転した。
落ちていく先に、校舎が見えた。
きらめき高校だった。
けれど、悠真の知っている学校ではなかった。