水瀬悠真は、校庭に倒れていた。
頬に触れているのは、土ではなかった。
冷たい床だった。
けれど、床と言い切るにはざらついている。
指先で触れると、粉のようなものがついた。
白い。
チョークの粉に似ていた。
悠真は、ゆっくり目を開けた。
最初に見えたのは、空だった。
青い空。
卒業式の日の夢で見た空に似ていた。
けれど、どこか違う。
色が薄い。
青というより、黒板に描かれた空のようだった。
上手に描かれているのに、本物ではない。
そんな空だった。
悠真は体を起こした。
そこは、きらめき高校の校庭だった。
少なくとも、そう見えた。
校舎がある。
体育館がある。
昇降口がある。
窓が並んでいる。
校庭の向こうには、伝説の木も見える。
見慣れた学校。
三年間通った場所。
けれど、すぐに違和感に気づいた。
窓が多すぎる。
校舎の横幅が、現実よりも長い。
廊下の奥が、遠すぎる。
体育館の扉は閉まっているのに、中から拍手の音が聞こえる。
誰もいない校庭に、卒業式のざわめきだけが薄く残っている。
風はない。
それなのに、校舎の掲示物だけがかすかに揺れていた。
悠真は立ち上がった。
制服には土ではなく、白い粉がついている。
払うと、チョークの粉のように空中へ散った。
「ここは……」
声が、思ったより小さく響いた。
現実のきらめき高校ではない。
それは分かった。
けれど、まったく知らない場所でもない。
見慣れたものが、少しずつ歪んでいる。
それがかえって気味悪かった。
悠真は、校舎へ向かって歩き出した。
校庭には誰もいない。
卒業式後の夢で見た生徒たちも、教師たちも、友人たちもいない。
なのに、足元には花びらが落ちている。
写真を撮った後のような紙片も落ちている。
拾い上げると、それは写真ではなかった。
白い紙に、細い文字が書かれている。
卒業、おめでとう。
そこまでは読めた。
その下は、白く滲んでいて読めなかった。
悠真は紙を離した。
紙片は風もないのに揺れ、粉のように崩れて消えた。
昇降口へ近づく。
扉は開いていた。
中は暗い。
昼間の学校のはずなのに、廊下の奥には夕方のような影が伸びている。
悠真は一度だけ振り返った。
校庭の向こうに、伝説の木がある。
現実ではすぐそこにあるはずの木が、ここではひどく遠く見えた。
校舎の影が、伝説の木の方へ長く伸びている。
まるで、学校そのものがあの木へ向かって倒れかかっているようだった。
悠真は息を呑んだ。
校舎の中へ入る。
昇降口の床には、上履きが並んでいなかった。
代わりに、黒板のような板が壁一面に貼られている。
そこに白い文字が滲んでいた。
卒業式 未完了
悠真は立ち止まった。
その文字は、さっき校門の向こうに浮かんでいたものと同じだった。
けれど、ここではもっと静かだった。
命令でも、警告でもない。
ただ、そこに書かれている。
黒板に書き残された連絡事項のように。
その下には、別の文字がいくつも浮かんでいた。
届かなかった言葉があります。
聞かれなかった問いがあります。
言えなかった名前があります。
終わったことにされた時間があります。
悠真は、喉が乾くのを感じた。
誰かが説明しているわけではない。
声が聞こえるわけでもない。
ただ、学校の壁がそう言っている。
この卒業式は終わっていない。
終わったことにされただけだ。
そんなふうに読めた。
「ふざけるなよ……」
悠真は小さく呟いた。
何に対して言ったのか、自分でも分からなかった。
この学校に対してか。
詩織に似た誰かに対してか。
それとも、何も言えずに校門を出ようとした自分に対してか。
答えはなかった。
悠真は、昇降口から廊下へ進んだ。
廊下は、現実よりも長かった。
どこまでも伸びている。
右側には教室が並んでいる。
左側には窓がある。
けれど、窓の外に見える景色は一つではなかった。
ある窓には、一年の春の校庭が映っていた。
入学式のような明るい光。
新しい制服。
まだ慣れない顔の生徒たち。
別の窓には、二年の夏の廊下が映っている。
文化祭の準備らしき飾り。
汗を拭う生徒。
笑い声。
さらに別の窓には、冬の廊下が映っていた。
夕方の光。
進路の掲示。
卒業式の張り紙。
三年間の時間が、窓ごとにばらばらに貼りついている。
悠真は足を止めた。
ここは、今の学校ではない。
過去も、未来も、終わったはずの時間も、まだ来ていない時間も、同じ廊下に並んでいる。
そのどれもが、きらめき高校だった。
けれど、悠真の知っている学校ではなかった。
廊下の掲示板に、紙が貼られている。
悠真は近づいた。
掲示物には、見慣れた学校行事の案内が並んでいた。
体育祭。
文化祭。
進路希望調査。
卒業文集提出。
卒業式予行。
けれど、よく見ると、隅に別の文字が重なっている。
成績優秀。
品行方正。
容姿端麗。
運動能力良好。
交友関係良好。
藤崎詩織。
その名前だけが、何度も何度も繰り返されていた。
悠真は眉を寄せる。
「何だよ、これ」
紙を剥がそうとした。
指が触れた瞬間、掲示物の文字が揺れた。
藤崎詩織にふさわしい者。
その文字が浮かび上がる。
悠真は手を離した。
紙は剥がれなかった。
代わりに、廊下の奥から乾いた音がした。
チョークが黒板を叩くような音だった。
悠真は振り返る。
廊下の奥に、黒板が立っていた。
教室の中ではない。
廊下の中央に、黒板だけが置かれている。
そこに、白い文字が書かれていく。
藤崎詩織にふさわしい者のみ通行可。
悠真は、息を止めた。
「ふさわしいって、何だよ」
思わず声が出た。
黒板は答えなかった。
代わりに、下に新しい文字が浮かぶ。
その条件を決めたのは、誰ですか。
悠真は、動けなかった。
誰。
誰が決めた。
学校か。
周囲か。
先生か。
友人たちか。
藤崎詩織なら。
詩織なら。
伝説の木に似合う。
そう言っていたクラスメイトたちか。
それとも。
悠真の脳裏に、自分の言葉にならなかった思いが浮かぶ。
詩織に見られても恥ずかしくない自分になりたい。
詩織の隣に立てる自分になりたい。
藤崎詩織の幼馴染だと、胸を張れる自分になりたい。
詩織に選ばれてもおかしくない自分になりたい。
それは、誰かに言われたものではない。
悠真の中にあったものだった。
黒板の文字が滲む。
その滲みの中から、また別の言葉が浮かんだ。
あなたも、この学校を作った一人です。
悠真は、後ずさった。
「違う」
反射的に言った。
「俺は、こんな学校なんか作ってない」
声が廊下に響く。
けれど、廊下は何も答えない。
黒板の文字だけが、チョークの粉のように崩れていく。
崩れた粉が床に落ちる。
その粉が、また別の言葉を形作る。
見上げていた。
届きたかった。
選ばれたかった。
悠真は、拳を握った。
「違う」
もう一度言う。
けれど、さっきより声が弱かった。
違う。
そう言いたかった。
自分は詩織を見ていた。
小さい頃から。
高校に入ってからも。
変わろうとして。
追いつこうとして。
隣に立ちたくて。
ずっと見ていた。
でも、その詩織は誰だったのか。
伝説の木の下に立っていても違和感のない藤崎詩織。
誰からも信頼される藤崎詩織。
努力すれば届くかもしれない、遠い場所にいる藤崎詩織。
その姿を、自分はどこかで守っていなかったか。
悠真は、廊下の窓を見た。
そこには、教室が映っていた。
一年の春。
クラス発表の掲示板の前。
詩織がこちらを見て笑っている。
「よろしくね、悠真くん」
その声は聞こえなかった。
けれど、口の動きで分かった。
次の窓には、二年の図書室が映っている。
詩織が本を持って歩いている。
悠真は少し離れた場所から、その姿を見ている。
さらに次の窓には、三年の教室が映っていた。
詩織が先生に頼まれたプリントを受け取っている。
クラスメイトが笑う。
藤崎さんなら大丈夫。
そんな声が、窓の向こうから聞こえた気がした。
どの窓にも、詩織がいた。
けれど、そのどれもが少し遠い。
美しく整っていて、隙がない。
悠真が見てきた藤崎詩織。
悠真が見上げてきた藤崎詩織。
その像が、廊下の窓に並んでいる。
悠真は、息苦しくなった。
「詩織は……」
言いかけて、止まる。
詩織は、そんな人じゃない。
そう言おうとした。
けれど、その言葉も少し違う気がした。
詩織は確かにすごかった。
成績も良く、運動もできて、先生にも信頼されて、友人たちにも頼られていた。
藤崎詩織という名前にふさわしい姿で、三年間そこにいた。
それは嘘ではない。
でも、それだけではないはずだった。
小さい頃に怒った詩織。
負けず嫌いだった詩織。
困ったように笑う詩織。
何かを聞きかけて、聞かなかった詩織。
そういう詩織もいたはずだ。
なのに、この学校には、その詩織が見えない。
見えるのは、誰かに見られる藤崎詩織ばかりだった。
廊下の奥から、また拍手が聞こえた。
卒業式の拍手。
それに混じって、誰かの声がする。
藤崎さんなら。
詩織なら。
伝説の木に似合う。
水瀬くんとか。
悠真は耳を塞ぎかけた。
けれど、やめた。
逃げても、声は消えない気がした。
廊下の黒板に、また文字が浮かぶ。
この学校は、藤崎詩織だけのものではありません。
悠真は黒板を見る。
文字は、ゆっくり滲みながら続く。
見られた藤崎詩織。
期待された藤崎詩織。
待たれた藤崎詩織。
見上げられた藤崎詩織。
悠真の胸が、強く鳴った。
最後の言葉だけが、こちらを見ている気がした。
見上げられた藤崎詩織。
それは、悠真のことだった。
黒板の文字が崩れる。
崩れた粉が風もないのに舞い上がり、廊下の先へ流れていく。
悠真は、その粉を追うように歩いた。
廊下の先には、中庭へ続く扉があった。
現実のきらめき高校にもある扉。
開ければ、校舎の外へ出られる。
その先には、伝説の木へ向かう道がある。
悠真は扉の前で立ち止まった。
扉には、貼り紙があった。
藤崎詩織にふさわしい者のみ通行可。
さっきの黒板と同じ言葉だった。
けれど、今度は少し違って見えた。
これは学校が勝手に決めた条件ではない。
周囲だけが貼った言葉でもない。
自分も、この貼り紙の一部を書いた。
そう思えてしまった。
悠真は、扉に手をかける。
冷たい。
力を入れる。
扉は開かなかった。
もう一度押す。
動かない。
「開けよ」
声が震えた。
扉は開かない。
貼り紙の文字が、ゆっくり滲む。
ふさわしい者とは、誰ですか。
悠真は答えられなかった。
勉強を頑張った自分。
体育で逃げなかった自分。
身だしなみを整えた自分。
人付き合いから逃げなかった自分。
それらは確かに自分の努力だった。
でも、その努力の奥に何があったのか。
詩織に近づきたい。
詩織の隣に立ちたい。
詩織に見てほしい。
そして。
藤崎詩織に選ばれてもおかしくない自分になりたい。
その言葉が胸の奥から浮かび、悠真は歯を食いしばった。
「違う」
三度目の否定。
けれど、扉は答えるように軋んだだけだった。
その時、扉の向こうに影が見えた。
ガラス越しに、遠くの中庭が見える。
そして、そのさらに奥。
伝説の木の方に、白い人影が立っていた。
詩織に見えた。
いや、詩織に似ていた。
けれど、現実の詩織ではない。
校門で悠真を見下ろすように立っていた、あの影に近い。
影は、遠くからこちらを見ている。
声は聞こえない。
けれど、唇が動いたような気がした。
条件を満たしていない。
悠真は、扉から手を離した。
息が乱れている。
走ったわけでもないのに、胸が苦しい。
扉は開かない。
伝説の木は遠い。
現実なら、少し歩けば行ける場所だった。
校舎を出て、校庭を抜ければ届く場所だった。
けれど、この学校では違う。
伝説の木へ向かうには、いくつもの廊下と扉と条件を通らなければならない。
その条件の中に、自分の視線が混ざっている。
悠真は、ようやく理解し始めていた。
ここは、詩織だけの内側ではない。
詩織が自分をどう見ていたか。
周囲が藤崎詩織をどう見ていたか。
そして、自分が詩織をどう見上げていたか。
それらが重なってできた学校だ。
「俺も……」
声が出た。
「俺も、作ったのか」
誰も答えない。
けれど、廊下の窓が一斉に揺れた。
そこに映る詩織たちが、こちらを見る。
一年の春の詩織。
二年の図書室の詩織。
三年の教室の詩織。
卒業式の夢の中、木の下に立っていた詩織。
そのどれもが、藤崎詩織だった。
けれど、どれも、今悠真が会いたい詩織とは少し違っていた。
悠真は扉の前で立ち尽くした。
奥には伝説の木が見える。
遠い。
現実より、ずっと遠い。
廊下の黒板に、最後の文字が浮かんだ。
あなたが見ていた藤崎詩織を、見てください。
悠真は、息を呑んだ。
扉のガラスに、誰かが映った。
詩織ではない。
いや、詩織だった。
けれど、悠真が知っているはずの詩織ではなかった。
制服姿で、背筋を伸ばし、穏やかに微笑んでいる。
誰からも信頼される少女。
伝説の木にもっとも近い少女。
悠真が三年間、届きたいと思って見上げ続けた藤崎詩織。
その像が、扉のガラスに映っていた。
悠真は、声を出せなかった。
目の前にいるのは、詩織だった。
けれど、それはたぶん、詩織そのものではなかった。
水瀬悠真が、三年間見上げ続けた藤崎詩織だった。