もしも織田信忠が本能寺の変で死ななかったら 作:アルトリア・ブラック(Main)
「信忠サマ…」
弥助が差し出した包み、それを見て部屋の中は静まり返っていた。
誰も口を開かない。
弥助の前に置かれた包みだけが、その理由を物語っていた。
信忠は動けずにいた。
目を逸らしたかった。
だが、逸らすこともできなかった。
包みの隙間から覗く白髪が見える。
見慣れた髪だった。
幼い頃から見てきた父の髪だった。
「……父上」
声にならない。
弥助は深く頭を垂れたまま動かない。
その姿が何よりの答えだった。
信忠はゆっくりと立ち上がる。
膝が震えていた。
「勝長」
近くにいた異母弟が顔を上げる。
「はい」
「門を閉じよ」
勝長が目を見開く。
信忠は静かに続けた。
「織田信忠はここで果てる」
部屋の空気が凍った。
「兄上!」
「殿!」
家臣達が声を上げる。
だが信忠は構わなかった。
父が死んだ。
本能寺は落ちた。
ならば嫡男たる自分もまたここで死ぬべきだ。
そう思った。
そうするのが当然だと思った。
刀へ手を伸ばす。
その時だった。
「馬鹿を申されるな」
低い声が響いた。
有楽斎だった。
信忠は振り返る。
叔父の顔には苛立ちが浮かんでいた。
「叔父上」
「上様は死なれた」
有楽斎は言う。
「だからこそ、お前は生きねばならぬ」
「生きて何になります」
信忠は答えた。
「父上がおらぬ」
「織田家は終わった」
「終わっておらぬ!」
有楽斎が声を荒げた。
珍しいことだった。
「お前がおる」
「勝長もおる」
「信雄も信孝もおる」
「まだ終わっておらぬ!」
信忠は首を振った。
違う。
そういう話ではない。
父が死んだのだ。
あの織田信長が。
天下を目前にして。
「私は――」
そこまで言いかけた時。
「若君様」
弥助が顔を上げた。
その目は真っ赤だった。
泣いていたのだろう。
「上様は最後に仰いました」
信忠は動きを止めた。
「何を」
かすれた声だった。
弥助は答える。
「若君様を生かせ、と」
信忠の眉が動く。
「……嘘だ」
思わず漏れた言葉だった。
父がそんなことを言うはずがない。
戦えと言うはずだ。
死ねと言うはずだ。
だが弥助は首を振った。
「上様は昔のお話をされました」
「昔?」
「浅井との戦にございます」
信忠は息を呑んだ。
金ヶ崎。
織田家最大の危機の一つ。
朝倉と浅井に挟まれたあの撤退戦。
信長自身が死地を潜り抜けた戦だった。
「上様は仰いました」
弥助の声が震える。
「死ねば終わりだ」
信忠の脳裏に父の姿が浮かぶ。
戦場を駆ける背中。
勝つためならば退くことも厭わなかった男。
天下人でありながら、幾度も死地から逃げ延びた男。
「生きろ」
弥助は続けた。
「何度でも立ち上がれ」
「織田を絶やすな」
信忠は黙り込んだ。
拳を握る。
震えが止まらない。
有楽斎はその様子を見つめていた。
やがて静かに言う。
「殿」
信忠は顔を上げる。
「私は逃げますぞ」
その言葉に家臣達がざわめく。
有楽斎は気にしない。
「死ぬつもりはありませぬ」
「叔父上……」
「上様も逃げた」
有楽斎は言った。
「金ヶ崎で」
「命ある限り戦える」
「死ねばそれで終わりです」
信忠は答えなかった。
答えられなかった。
父の首がそこにある。
本来ならば自分も死ぬべきだ。
だが。
死ねば本当に終わる。
織田信長が遺したものも。
父の夢も。
全て。
遠くで鉄砲の音が響いた。
敵は迫っている。
決断の時は近かった。
「若君をお通ししろ!」
勝長は叫んだ。
門前は既に戦場だった。
明智勢が雪崩れ込んでくる。
鉄砲の音。
怒号。
槍がぶつかり合う音。
血の臭い。
全てが入り混じっていた。
「押し返せ!」
家臣達が応じる。
だが敵は多い。
あまりにも多かった。
門の向こうでは信忠達が馬へ乗ろうとしていた。
見えた。
兄の姿が。
勝長は思わず叫ぶ。
「兄上!」
信忠が振り返った。
炎に照らされた顔が見える。
苦しそうな顔だった。
今にも戻って来そうな顔だった。
だから勝長は笑った。
無理矢理にでも笑った。
「何をしておられるのです!」
周囲の家臣達が驚く。
勝長は構わない。
「早くお逃げください!」
信忠が何か言っている。
だが聞こえない。
鉄砲の音に掻き消される。
明智勢が門へ迫る。
槍が突き出された。
勝長は刀で弾く。
一人斬る。
また一人。
それでも敵は減らない。
「兄上!」
もう一度叫んだ。
信忠の馬が動く。
一歩。
また一歩。
門から離れていく。
勝長は安堵した。
よかった。
行ってくれる。
生きてくれる。
それでいい。
それで。
「十分だ」
そう呟いた瞬間だった。
明智勢が一斉に押し寄せる。
勝長は刀を構えた。
背後ではまだ馬の蹄の音が聞こえている。
兄は生きている。
ならば。
織田家は終わらない。
「参れ!」
勝長は前へ出た。
信忠は拳を握り締め安土へ戻る
安土城へ戻った翌日だった。
城内は慌ただしかった。
本能寺。
二条御所。
そして明智光秀。
次々と飛び込む報せに家臣達は走り回っている。
信忠も軍議のため広間へ向かっていた。
その時だった。
廊下の向こうから怒鳴り声が聞こえる。
「若殿はどこじゃ!」
聞き覚えのある大声だった。
信忠は足を止める。
次の瞬間。
大股で広間へ飛び込んできた男がいた。
柴田勝家である。
「若殿!」
勝家は信忠の姿を認めるなり歩み寄った。
そして。
ドン、と膝をつく。
床板が鳴った。
「ご無事でございましたか!」
声が大きい。
広間中に響き渡る。
「勝家」
「申し訳ござらん!」
勝家は拳を握り締める。
「この勝家が近江におれば!」
「光秀など!」
「上様をお守りできたものを!」
悔しさが滲んでいた。
本気だった。
勝家は本気でそう思っている。
信忠が言葉を探していると、
後ろから静かな声が聞こえた。
「近江にはおりませんでしたので無理です」
勝家が振り返る。
そこには丹羽長秀がいた。
いつも通りの無表情だった。
「長秀」
「事実を申し上げただけです」
「おぬしな!」
勝家が立ち上がる。
「そういう言い方しかできんのか!」
「では何と申し上げれば」
長秀は首を傾げた。
「柴田殿は本能寺の変当日、北陸方面におりました」
「よって助けられません」
「事実です」
「だから腹が立つのじゃ!」
勝家が吠える。
広間の家臣達が苦笑を漏らした。
信忠も思わず息を吐く。
懐かしい光景だった。
父が生きていた頃から何も変わらない。
勝家は大声で怒鳴り。
長秀は淡々と返す。
それが当たり前だった。
だが今は違う。
父はいない。
勝長も。
長利も。
その現実が胸を締め付けた。
勝家が拳を握る。
「若殿」
先ほどまでの勢いが少し消えていた。
「必ず」
「必ず光秀を討ちますぞ」
信忠は黙って頷いた。
すると長秀が口を開く。
「討ちます」
「ですがまず兵数を確認します」
「補給も必要です」
「街道の状況も調べねばなりません」
勝家が顔をしかめる。
「またそれか」
「またです」
長秀は即答した。
「勢いだけで勝てるなら苦労しません」
「勝てるわ!」
「勝てません」
「勝てる!」
「勝てません」
二人は睨み合った。
しばらく沈黙が続く。
やがて信忠が小さく咳払いした。
「叔父上方」
二人が同時に振り返る。
「はっ」
息ぴったりだった。
思わず氏郷が吹き出しそうになる。
長可などは既に肩を震わせている。
信忠はわずかに口元を緩めた。
そして静かに言う。
「光秀を討つ」
勝家の目が光る。
長秀も頷いた。
「しかし父上ならこう仰る」
信忠は広間を見渡した。
「勝てる戦をしろ、と」
長秀が初めて少しだけ笑った。
勝家は腕を組む。
「むぅ……」
「上様のお言葉なら仕方ない」
「ですが先陣はこの勝家に!」
「後で決めます」
長秀が即座に切り捨てた。
「ぬしは本当に!」
広間に小さな笑いが広がる。
信忠はそれを見ていた。
父が死んだ。
織田家は大きな傷を負った。
それでも。
まだ戦える。
そう思えた。
【設定と相関図】
・松姫
本来の史実では嫁いで来ていないが、当小説では武田信玄と同盟時に年若いが結婚している。
信忠の正室としての地位を築いている
三人の姫がいる
・鈴姫
織田家家臣、塩川長満の娘。信忠の側室
秀信の母
武田滅亡後に信長に連れられて側室になる。正確に言えば女児ばかり生む松姫への嫌味でもある
柴田勝家
映画清洲会議をイメージしております。