もしも織田信忠が本能寺の変で死ななかったら   作:アルトリア・ブラック(Main)

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第三話「山崎の戦い」・上

軍議は終わらなかった。

 

いや、終わらせることができなかった。

 

次々と使者が到着し、各地の兵数が報告される。

 

蒲生勢。

 

森勢。

 

柴田勢。

 

丹羽勢。

 

織田家の諸将も続々と集まり始めていた。

 

それでも。

 

信忠の心は一つだった。

 

「出陣する」

 

広間が静まり返る。

 

勝家が顔を上げた。

 

「若殿」

 

「今すぐだ」

 

信忠は続ける。

 

「光秀がまだ京にいる内に討つ」

 

長秀が口を開いた。

 

「兵の集結が終わっておりませぬ」

 

「終わるのを待てと?」

 

信忠の声は静かだった。

 

だが。

 

その静けさがかえって恐ろしかった。

 

「父上が討たれた」

 

誰も言葉を挟めない。

 

「勝長が死んだ」

 

勝家が拳を握る。

 

「長利叔父上も死んだ」

 

信忠は広間を見渡した。

 

「それでも待てと言うのか」

 

沈黙。

 

誰も答えられなかった。

 

信忠は立ち上がる。

 

「出陣準備を」

 

その時だった。

 

外から慌ただしい足音が響く。

 

使者が飛び込んできた。

 

「申し上げます!」

 

「何だ」

 

「伊勢方面より北畠勢接近!」

 

広間がざわめいた。

 

使者は続ける。

 

「北畠信雄様でございます!」

 

信忠の瞳がわずかに動く。

 

信雄。

 

生きている弟。

 

勝長はもういない。

 

だが信雄は来る。

 

父の死を知りながら。

 

戦になると知りながら。

 

こちらへ向かっている。

 

「兵数は」

 

長秀が尋ねた。

 

「約三千!」

 

勝家が低く唸る。

 

「来たか」

 

使者はさらに続けた。

 

「各地の諸将も続々参陣中!」

 

「総兵力一万五千を超える見込みにございます!」

 

広間の空気が変わる。

 

家臣達の目に力が戻る。

 

だが信忠だけは変わらなかった。

 

ただ前を見ていた。

 

その先にいる男を。

 

明智光秀を。

 

「一万五千か」

 

誰に言うでもなく呟く。

 

勝家が立ち上がった。

 

「十分ですな」

 

長秀も頷く。

 

「光秀は一万三千前後」

 

「兵数はこちらが上回ります」

 

信忠は答えない。

 

しばらく沈黙が続いた。

 

やがて。

 

「出陣する」

 

再び同じ言葉を口にする。

 

今度は誰も反対しなかった。

 

勝家が立ち上がる。

 

長秀も続く。

 

氏郷。

 

長可。

 

広間の武将達が次々と膝をつく。

 

「御意!」

 

声が重なった。

 

信忠はゆっくりと立ち上がる。

 

胸の奥で何かが燃えていた。

 

悲しみではない。

 

絶望でもない。

 

怒りだった。

 

父を討った男への。

 

弟を死なせた男への。

 

織田家を踏みにじった男への。

 

信忠は拳を握る。

 

「光秀」

 

その名を呼ぶ。

 

「必ず討つ」

 

広間の誰もが、その言葉を疑わなかった。

 

 

広間の外は慌ただしかった。

 

人が走る。

 

使者が出入りする。

 

武具を運ぶ足音も絶えない。

 

安土城全体が戦支度に包まれていた。

 

松姫は廊下の先を見つめていた。

 

軍議の行われている広間である。

 

先ほど信忠が入っていった場所だ。

 

その隣には幸姫がいる。

 

さらに次女の澪姫も。

 

三女の愛姫は乳母に抱かれていた。

 

「母上」

 

幸姫が小さく呼ぶ。

 

「父上は」

 

言葉が続かない。

 

松姫も答えられなかった。

 

帰ってきた。

 

確かに帰ってきた。

 

だが以前の信忠ではなかった。

 

あの目を松姫は知っていた。

 

武田が滅んだ時。

 

父・信玄を失った武田家の者達がしていた目だった。

 

「父上は大丈夫でしょうか」

 

幸姫が尋ねる。

 

松姫は娘の頭を撫でた。

 

「大丈夫です」

 

そう答えながら、自分自身が信じられていなかった。

 

その時だった。

 

広間の方から大きな声が響く。

 

「若殿!」

 

柴田勝家の声だった。

 

続いて何人もの声が聞こえる。

 

軍議はまだ続いているらしい。

 

幸姫が立ち上がった。

 

「父上のところへ行きます」

 

松姫が目を見開く。

 

「幸姫」

 

「父上、お一人です」

 

その言葉に松姫は息を呑んだ。

 

十歳の娘なりに気付いている。

 

父が苦しんでいることを。

 

だが松姫は首を振った。

 

「今はなりません」

 

「ですが」

 

「軍議中です」

 

幸姫は唇を噛んだ。

 

納得していない顔だった。

 

その隣で澪姫も不安そうに母を見る。

 

「父上、またお出掛けするの?」

 

松姫は答えられなかった。

 

愛姫などは状況も分からず乳母の腕の中で眠そうにしている。

 

戦を知らない幼い寝顔だった。

 

幸姫は再び広間を見た。

 

閉ざされた襖。

 

その向こうに父がいる。

 

帰ってきたばかりなのに。

 

また戦へ向かおうとしている。

 

胸が苦しくなった。

 

「父上……」

 

思わず呟いた。

 

その時だった。

 

廊下の向こうから別の足音が聞こえてくる。

 

女達だった。

 

奥向きの侍女達。

 

そして信忠の側室達もいる。

 

鈴姫を始めとした女達である。

 

皆、同じ方向を見ていた。

 

軍議の行われている広間を。

 

「殿がお戻りになったと聞いて」

 

「ご無事と聞いて」

 

誰もが安堵していた。

 

だが同時に不安も抱えていた。

 

本能寺で何が起きたのか。

 

なぜあれほど慌ただしいのか。

 

まだ知らない者も多い。

 

松姫は静かに広間を見つめた。

 

襖の向こうでは武将達が光秀討伐を論じている。

 

その中心にいるのは信忠だ。

 

夫ではない。

 

若殿でもない。

 

織田家当主。

 

織田信忠だった。

 

その事実が、松姫にはひどく遠く感じられた。

 

天王山を見上げながら、明智光秀は黙っていた。

 

風が吹く。

 

初夏の風だった。

 

本来であれば心地良いはずの風が、今日は妙に冷たく感じられた。

 

「殿」

 

家臣が近付いてくる。

 

顔色が悪い。

 

良い報せではない。

 

光秀は既に悟っていた。

 

「申せ」

 

家臣は跪く。

 

しばらく言葉を探すように俯いた。

 

やがて。

 

「織田信忠、生存にございます」

 

光秀は目を閉じた。

 

やはり。

 

そうか。

 

そうであったか。

 

「二条にて討たれたとの報ではなかったか」

 

「脱出したとのこと」

 

「……」

 

光秀は答えない。

 

信長を討った。

 

本能寺は燃えた。

 

織田家は終わった。

 

そう思っていた。

 

だが違った。

 

嫡男は生きていた。

 

あの男は。

 

「兵数は」

 

光秀が尋ねる。

 

「一万五千を超えたとの報せにございます」

 

家臣の声が震えていた。

 

さらに続く。

 

「蒲生氏郷」

 

「柴田勝家」

 

「丹羽長秀」

 

「森長可」

 

一人ずつ名前が告げられる。

 

どれも聞き慣れた名だった。

 

かつて同じ主君に仕えた者達。

 

かつて共に戦った者達。

 

今は敵として迫っている。

 

「北畠信雄も合流」

 

「諸将も続々と」

 

光秀は空を見上げた。

 

青空だった。

 

あまりにも穏やかだった。

 

「そうか」

 

小さく呟く。

 

信忠が生きている。

 

それだけで全てが変わる。

 

秀吉が来る。

 

それは予想していた。

 

だが信忠は違う。

 

討ったはずだった。

 

討たねばならなかった。

 

「殿」

 

別の家臣が駆け込んでくる。

 

「羽柴勢接近!」

 

光秀が振り返る。

 

「秀吉か」

 

「はっ」

 

「中国より引き返して参りました」

 

光秀は苦笑した。

 

速い。

 

あまりにも速い。

 

秀吉らしい。

 

だが。

 

その報せに驚きはなかった。

 

「羽柴だけではございませぬ」

 

家臣が続ける。

 

「信忠様も」

 

「同じ軍に」

 

沈黙が落ちた。

 

光秀は目を伏せる。

 

信長。

 

信忠。

 

秀吉。

 

勝家。

 

長秀。

 

氏郷。

 

長可。

 

信雄。

 

敵ばかりだ。

 

味方は少ない。

 

いや。

 

最初から少なかったのかもしれない。

 

「光慶は」

 

不意に光秀が尋ねた。

 

嫡男の名だった。

 

「坂本に」

 

「そうか」

 

それだけだった。

 

しばらく沈黙が続く。

 

やがて光秀は立ち上がった。

 

鎧が鳴る。

 

「出陣の支度を」

 

家臣達が顔を上げる。

 

「殿」

 

光秀は遠くを見た。

 

その先にいる男を思う。

 

織田信忠。

 

若き当主。

 

本来ならば父と共に死んでいた男。

 

「会わねばならぬ」

 

そう呟いた。

 

信長ではない。

 

今や相手は信忠だ。

 

そして光秀は理解していた。

 

この戦に勝てば天下。

 

負ければ終わり。

 

だが。

 

どちらにせよ。

 

もう後戻りはできなかった。




幸姫
長女で10歳

澪姫(みお)
次女で6歳

愛姫
三女で3歳
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