もしも織田信忠が本能寺の変で死ななかったら 作:アルトリア・ブラック(Main)
軍議は終わらなかった。
いや、終わらせることができなかった。
次々と使者が到着し、各地の兵数が報告される。
蒲生勢。
森勢。
柴田勢。
丹羽勢。
織田家の諸将も続々と集まり始めていた。
それでも。
信忠の心は一つだった。
「出陣する」
広間が静まり返る。
勝家が顔を上げた。
「若殿」
「今すぐだ」
信忠は続ける。
「光秀がまだ京にいる内に討つ」
長秀が口を開いた。
「兵の集結が終わっておりませぬ」
「終わるのを待てと?」
信忠の声は静かだった。
だが。
その静けさがかえって恐ろしかった。
「父上が討たれた」
誰も言葉を挟めない。
「勝長が死んだ」
勝家が拳を握る。
「長利叔父上も死んだ」
信忠は広間を見渡した。
「それでも待てと言うのか」
沈黙。
誰も答えられなかった。
信忠は立ち上がる。
「出陣準備を」
その時だった。
外から慌ただしい足音が響く。
使者が飛び込んできた。
「申し上げます!」
「何だ」
「伊勢方面より北畠勢接近!」
広間がざわめいた。
使者は続ける。
「北畠信雄様でございます!」
信忠の瞳がわずかに動く。
信雄。
生きている弟。
勝長はもういない。
だが信雄は来る。
父の死を知りながら。
戦になると知りながら。
こちらへ向かっている。
「兵数は」
長秀が尋ねた。
「約三千!」
勝家が低く唸る。
「来たか」
使者はさらに続けた。
「各地の諸将も続々参陣中!」
「総兵力一万五千を超える見込みにございます!」
広間の空気が変わる。
家臣達の目に力が戻る。
だが信忠だけは変わらなかった。
ただ前を見ていた。
その先にいる男を。
明智光秀を。
「一万五千か」
誰に言うでもなく呟く。
勝家が立ち上がった。
「十分ですな」
長秀も頷く。
「光秀は一万三千前後」
「兵数はこちらが上回ります」
信忠は答えない。
しばらく沈黙が続いた。
やがて。
「出陣する」
再び同じ言葉を口にする。
今度は誰も反対しなかった。
勝家が立ち上がる。
長秀も続く。
氏郷。
長可。
広間の武将達が次々と膝をつく。
「御意!」
声が重なった。
信忠はゆっくりと立ち上がる。
胸の奥で何かが燃えていた。
悲しみではない。
絶望でもない。
怒りだった。
父を討った男への。
弟を死なせた男への。
織田家を踏みにじった男への。
信忠は拳を握る。
「光秀」
その名を呼ぶ。
「必ず討つ」
広間の誰もが、その言葉を疑わなかった。
広間の外は慌ただしかった。
人が走る。
使者が出入りする。
武具を運ぶ足音も絶えない。
安土城全体が戦支度に包まれていた。
松姫は廊下の先を見つめていた。
軍議の行われている広間である。
先ほど信忠が入っていった場所だ。
その隣には幸姫がいる。
さらに次女の澪姫も。
三女の愛姫は乳母に抱かれていた。
「母上」
幸姫が小さく呼ぶ。
「父上は」
言葉が続かない。
松姫も答えられなかった。
帰ってきた。
確かに帰ってきた。
だが以前の信忠ではなかった。
あの目を松姫は知っていた。
武田が滅んだ時。
父・信玄を失った武田家の者達がしていた目だった。
「父上は大丈夫でしょうか」
幸姫が尋ねる。
松姫は娘の頭を撫でた。
「大丈夫です」
そう答えながら、自分自身が信じられていなかった。
その時だった。
広間の方から大きな声が響く。
「若殿!」
柴田勝家の声だった。
続いて何人もの声が聞こえる。
軍議はまだ続いているらしい。
幸姫が立ち上がった。
「父上のところへ行きます」
松姫が目を見開く。
「幸姫」
「父上、お一人です」
その言葉に松姫は息を呑んだ。
十歳の娘なりに気付いている。
父が苦しんでいることを。
だが松姫は首を振った。
「今はなりません」
「ですが」
「軍議中です」
幸姫は唇を噛んだ。
納得していない顔だった。
その隣で澪姫も不安そうに母を見る。
「父上、またお出掛けするの?」
松姫は答えられなかった。
愛姫などは状況も分からず乳母の腕の中で眠そうにしている。
戦を知らない幼い寝顔だった。
幸姫は再び広間を見た。
閉ざされた襖。
その向こうに父がいる。
帰ってきたばかりなのに。
また戦へ向かおうとしている。
胸が苦しくなった。
「父上……」
思わず呟いた。
その時だった。
廊下の向こうから別の足音が聞こえてくる。
女達だった。
奥向きの侍女達。
そして信忠の側室達もいる。
鈴姫を始めとした女達である。
皆、同じ方向を見ていた。
軍議の行われている広間を。
「殿がお戻りになったと聞いて」
「ご無事と聞いて」
誰もが安堵していた。
だが同時に不安も抱えていた。
本能寺で何が起きたのか。
なぜあれほど慌ただしいのか。
まだ知らない者も多い。
松姫は静かに広間を見つめた。
襖の向こうでは武将達が光秀討伐を論じている。
その中心にいるのは信忠だ。
夫ではない。
若殿でもない。
織田家当主。
織田信忠だった。
その事実が、松姫にはひどく遠く感じられた。
天王山を見上げながら、明智光秀は黙っていた。
風が吹く。
初夏の風だった。
本来であれば心地良いはずの風が、今日は妙に冷たく感じられた。
「殿」
家臣が近付いてくる。
顔色が悪い。
良い報せではない。
光秀は既に悟っていた。
「申せ」
家臣は跪く。
しばらく言葉を探すように俯いた。
やがて。
「織田信忠、生存にございます」
光秀は目を閉じた。
やはり。
そうか。
そうであったか。
「二条にて討たれたとの報ではなかったか」
「脱出したとのこと」
「……」
光秀は答えない。
信長を討った。
本能寺は燃えた。
織田家は終わった。
そう思っていた。
だが違った。
嫡男は生きていた。
あの男は。
「兵数は」
光秀が尋ねる。
「一万五千を超えたとの報せにございます」
家臣の声が震えていた。
さらに続く。
「蒲生氏郷」
「柴田勝家」
「丹羽長秀」
「森長可」
一人ずつ名前が告げられる。
どれも聞き慣れた名だった。
かつて同じ主君に仕えた者達。
かつて共に戦った者達。
今は敵として迫っている。
「北畠信雄も合流」
「諸将も続々と」
光秀は空を見上げた。
青空だった。
あまりにも穏やかだった。
「そうか」
小さく呟く。
信忠が生きている。
それだけで全てが変わる。
秀吉が来る。
それは予想していた。
だが信忠は違う。
討ったはずだった。
討たねばならなかった。
「殿」
別の家臣が駆け込んでくる。
「羽柴勢接近!」
光秀が振り返る。
「秀吉か」
「はっ」
「中国より引き返して参りました」
光秀は苦笑した。
速い。
あまりにも速い。
秀吉らしい。
だが。
その報せに驚きはなかった。
「羽柴だけではございませぬ」
家臣が続ける。
「信忠様も」
「同じ軍に」
沈黙が落ちた。
光秀は目を伏せる。
信長。
信忠。
秀吉。
勝家。
長秀。
氏郷。
長可。
信雄。
敵ばかりだ。
味方は少ない。
いや。
最初から少なかったのかもしれない。
「光慶は」
不意に光秀が尋ねた。
嫡男の名だった。
「坂本に」
「そうか」
それだけだった。
しばらく沈黙が続く。
やがて光秀は立ち上がった。
鎧が鳴る。
「出陣の支度を」
家臣達が顔を上げる。
「殿」
光秀は遠くを見た。
その先にいる男を思う。
織田信忠。
若き当主。
本来ならば父と共に死んでいた男。
「会わねばならぬ」
そう呟いた。
信長ではない。
今や相手は信忠だ。
そして光秀は理解していた。
この戦に勝てば天下。
負ければ終わり。
だが。
どちらにせよ。
もう後戻りはできなかった。
幸姫
長女で10歳
澪姫(みお)
次女で6歳
愛姫
三女で3歳