もしも織田信忠が本能寺の変で死ななかったら 作:アルトリア・ブラック(Main)
本陣の外が騒がしくなった。
馬の蹄。
人の声。
伝令が駆け込んでくる。
「殿」
信忠は地図から顔を上げた。
「羽柴筑前守様にございます」
広間が静まる。
秀吉が来た。
中国より引き返した男が。
信忠はしばらく何も言わなかった。
やがて。
「通せ」
短く告げる。
しばらくして足音が聞こえた。
襖が開く。
入ってきた男は埃まみれだった。
鎧には長旅の跡が残っている。
顔には疲労も見える。
それでも。
その目だけは真っ直ぐだった。
秀吉は広間へ入るなり膝をついた。
深く。
深く。
額が畳に着くほどに。
「若殿」
声が震えていた。
「ご無事で」
それ以上続かなかった。
信忠は秀吉を見下ろす。
何も言わない。
長い沈黙だった。
やがて秀吉が再び口を開く。
「申し訳ござらん」
信忠の眉が僅かに動いた。
「上様を」
秀吉の拳が震える。
「お守りできなんだ」
「……」
「間に合わなんだ」
広間の誰も口を挟まない。
勝家も。
長秀も。
氏郷も。
皆黙っていた。
秀吉は顔を上げない。
ただ頭を下げ続ける。
信忠はそれを見ていた。
脳裏には本能寺の炎が浮かぶ。
父の首が浮かぶ。
勝長が浮かぶ。
長利が浮かぶ。
そして。
光秀の名が浮かぶ。
怒りが胸の奥で燃えていた。
消えない。
消えるはずもない。
「筑前」
ようやく信忠が口を開いた。
秀吉が顔を上げる。
その目は赤かった。
「光秀は」
それだけだった。
それだけで十分だった。
秀吉は理解する。
信忠が何を考えているのか。
何を望んでいるのか。
何を許せないのか。
全て。
「逃がしませぬ」
秀吉は答えた。
即座に。
迷いなく。
「この羽柴秀吉」
「必ずや逆賊を討ち取りまする」
信忠は黙ったまま立ち上がる。
広間を出ようとする。
勝家が思わず呼び止めた。
「殿」
信忠は振り返らない。
ただ一言だけ残した。
「討つ」
静かな声だった。
だが誰よりも重かった。
「光秀を討つ」
秀吉はその背中を見送る。
若殿ではない。
もう違う。
あれは織田家当主。
織田信忠だった。
戦闘が始まる
激しい怒号と共に戦いが始まる
当初は明智軍が大軍だった、しかし、信忠が生きていると知った織田軍が再構築、二万以上の軍勢に増え上がる
山崎の戦いが終わった。
明智軍は崩れた。
敗走。
それ以外に表現のしようがなかった。
「逃げる者は追え!」
「坂本城へ向かう敵を逃がすな!」
織田軍の怒号が響く。
光秀は敗れた。
だが信忠は馬を止めない。
「坂本城を包囲せよ」
短く命じる。
「明智一族を逃がすな」
勝家が頷く。
長秀も異論はなかった。
氏郷、長可、秀吉らもそれぞれ軍勢を動かす。
織田軍は近江へ向かった。
坂本城。
明智家の本拠。
そこには光秀の妻子がいる。
同じ頃。
敗走する光秀は僅かな供回りと共に近江路を急いでいた。
馬も疲れている。
兵も散った。
もはや軍勢と呼べるものではなかった。
風が吹く。
草が揺れる。
その時だった。
「いたぞ!」
声が響いた。
光秀が顔を上げる。
農民だった。
竹槍を持っている。
一人ではない。
二人。
三人。
さらに増える。
落武者狩りだった。
光秀は刀を抜く。
「退け」
かつて織田家随一の知将と呼ばれた男。
その声にもはや軍勢を動かす力はない。
農民達は怯えながらも近付いてくる。
彼らも知っていた。
明智光秀が負けたことを。
そして。
今なら討てることを。
光秀は空を見上げた。
青かった。
あの日、本能寺を焼いた炎など存在しなかったかのように。
「信長様」
誰にも聞こえない声だった。
次の瞬間。
槍が突き出された。
―――
一方。
坂本城。
城門の前には既に織田軍の旗が並んでいた。
明智家臣達は武器を捨て始めている。
勝敗は明らかだった。
「開門せよ」
命令が飛ぶ。
やがて城門が開かれた。
兵達が雪崩れ込む。
城内では女達の泣き声が響いていた。
光秀の子らが次々と捕らえられる。
嫡男。
次男。
そしてまだ嫁いでいない姫達。
誰も抵抗しなかった。
抵抗する意味を失っていた。
若い姫の一人が震える声で尋ねる。
「父上は」
誰も答えない。
兵達も顔を伏せる。
答えなくとも分かっていた。
戦は終わったのだ。
明智家は敗れた。
遠くで坂本城の鐘が鳴った。
静かな音だった。
それは明智家の終焉を告げる鐘のようにも聞こえた。