もしも織田信忠が本能寺の変で死ななかったら 作:アルトリア・ブラック(Main)
広間には重苦しい空気が漂っていた。
上座には信忠が座している。
その前には細川忠興。
そして玉。
二人とも深く頭を下げていた。
誰も口を開かない。
しばらく沈黙が続いた。
やがて信忠が口を開く。
「面を上げよ」
忠興が顔を上げる。
玉も静かに従った。
信忠の目は冷たかった。
本能寺から変わらぬ目だった。
「細川玉」
「はっ」
「其方は明智光秀の娘か」
「左様にございます」
玉は否定しなかった。
否定できるはずもない。
信忠はしばらく彼女を見つめていた。
やがて。
「本来なら死罪だ」
広間が静まり返る。
忠興の肩が震えた。
「殿!」
「黙れ」
一言だった。
忠興は言葉を失う。
信忠は玉から目を離さない。
「父は謀反を起こした」
「は」
「織田家を滅ぼそうとした」
玉は俯いた。
反論しない。
いや、できない。
信忠の声は次第に低くなっていく。
「父上は死んだ」
「……」
「勝長も死んだ」
「……」
「長利叔父上も死んだ」
広間の空気が張り詰める。
誰も動けない。
信忠は拳を握った。
「其方は何と言う」
玉は静かに顔を上げた。
恐怖はあった。
だが目は逸らさない。
「申し開きはございませぬ」
忠興が顔を上げる。
思わず何か言おうとする。
だが玉は続けた。
「父の罪は父の罪」
「されど」
一瞬言葉を止める。
「私が明智の娘であることは変えられませぬ」
信忠は黙って聞いていた。
「処罰はお受けいたします」
静かな声だった。
広間が再び沈黙する。
忠興は唇を噛み締めている。
その時だった。
「殿」
松姫が口を開いた。
信忠が視線を向ける。
「細川家は此度の戦において忠節を尽くしました」
「……」
「忠興殿もまた同じにございます」
信忠は何も言わない。
松姫は続けた。
「玉殿を処刑なされば」
「細川家もまた傷付きましょう」
長秀も静かに頷く。
「殿」
「細川家は必要にございます」
勝家は黙ったままだった。
だが反対もしない。
信忠は目を閉じた。
本能寺の炎が浮かぶ。
父の顔。
勝長の顔。
長利の顔。
光秀の顔。
全てが胸の奥で渦巻く。
長い沈黙だった。
やがて。
信忠は目を開く。
「細川玉」
「はっ」
「死罪は免ずる」
忠興が顔を上げた。
だが信忠は続ける。
「許したわけではない」
その声は冷たかった。
「細川領内の寺へ移せ」
広間が静まる。
「終生そこを出ることを許さぬ」
「……」
「外との文のやり取りも監視する」
忠興の顔から喜びが消える。
それは助命であって自由ではなかった。
「安土へ入れることも許さぬ」
信忠は言った。
「明智光秀の娘を」
「父上の城へ置く気はない」
誰も何も言わなかった。
玉は静かに頭を下げる。
「有り難き処分にございます」
信忠は立ち上がった。
もう話すことはない。
広間を去る背中を、忠興と玉は黙って見送った。
その背中からは。
許しも。
慈悲も。
まだ感じることはできなかった。
信忠はそのまま安土城天守へ向かった。
供も連れない。
誰にも声を掛けない。
ただ一人。
石段を登る。
やがて最上階へ辿り着くと、ゆっくりと外へ目を向けた。
眼下には安土の城下町が広がっている。
夕陽に染まる町は静かだった。
戦など無かったかのように。
人々は今日も生きている。
煙が上がり。
子供達が走り回り。
商人達が店を畳む。
平和な光景だった。
信忠は黙って見下ろした。
本能寺の炎を思い出す。
二条城を思い出す。
勝長の顔が浮かぶ。
長利の顔も浮かぶ。
そして。
父の顔が浮かんだ。
「父上……」
誰もいない天守に声が消える。
光秀は討った。
仇は討った。
だが。
何一つ戻ってこない。
勝長も。
長利も。
父も。
帰ってはこない。
信忠は手を握り締めた。
本来ならば。
死ぬのは自分だった。
父を置いて逃げたのは自分だ。
勝長を置いて退いたのも自分だ。
それなのに。
生きている。
今も。
こうして。
天下一の城の天守から景色を見ている。
「何故だ……」
思わず言葉が漏れる。
勝長は死んだ。
父は死んだ。
自分より優れた者達が皆死んだ。
なのに。
何故、自分だけが生きている。
風が吹く。
夕陽が揺れる。
信忠は目を閉じた。
その瞬間。
不意に思い出す。
幼い頃。
この天守から町を見下ろしながら。
信長が言った言葉を。
『よく見ておけ』
『天下とは城ではない』
『あそこに住む者達だ』
遠い昔のことだった。
だが今は妙に鮮明に聞こえた。
信忠は再び目を開く。
夕陽に染まる町を見る。
そこには守るべきものがあった。
父が築いたものがあった。
そして。
今は自分が背負わねばならぬものがあった。
信忠はゆっくりと天守を後にした。
夕陽は既に傾き始めている。
長い一日だった。
いや。
本能寺から今日までの全てが長かった。
廊下を歩く。
家臣達は頭を下げるが、誰も声を掛けてこない。
今の信忠に何を言えば良いのか分からないのだろう。
信忠もまた何も言わなかった。
そのまま奥へ向かう。
やがて一つの部屋の前で足を止めた。
中から幼い笑い声が聞こえる。
「姫様、お待ち下さいませ」
乳母の慌てた声。
その直後。
障子が勢いよく開いた。
「ちちうえ!」
小さな影が飛び出してくる。
愛姫だった。
信忠は反射的に娘を抱き止める。
「走るな」
そう言いながらも声は僅かに柔らかかった。
愛姫は嬉しそうに父の首へ腕を回す。
「おしごとおわった?」
信忠は答えに詰まる。
終わったのだろうか。
光秀は討った。
仇も討った。
だが。
何も終わった気がしなかった。
「……ああ」
ようやくそう答える。
愛姫は満足そうに頷いた。
「よかった!」
その無邪気な笑顔に、信忠は少しだけ目を細めた。
部屋へ入る。
そこには幸姫と澪姫の姿もあった。
二人は立ち上がり、丁寧に頭を下げる。
「父上」
「父上」
信忠は頷く。
幸姫は父の顔を見るなり僅かに眉を寄せた。
「父上」
「どうした」
「お疲れでございます」
思わず苦笑が漏れそうになる。
十にも満たぬ娘に見抜かれている。
「顔に出ているか」
「はい」
即答だった。
澪姫が慌てて口を挟む。
「姉上!」
「本当のことです」
幸姫は平然としている。
その様子に信忠は思わず息を吐いた。
久しぶりだった。
本当に久しぶりに笑いそうになった。
「お前はよく見ているな」
「父上を見ておりますから」
幸姫は当然のように答える。
信忠は言葉を失った。
その言葉が妙に胸へ刺さる。
松姫も部屋の奥から静かに姿を見せた。
夫を見る。
何も言わない。
だがその目だけで十分だった。
無事で良かった。
そう言っているようだった。
信忠は愛姫を膝へ乗せたまま座る。
澪姫も近寄ってくる。
幸姫は少し離れた場所から父を見ている。
穏やかな時間だった。
戦も。
政も。
謀反も。
ここには無い。
ただ家族だけがいる。
その時だった。
部屋の外から足音が聞こえた。
小姓である。
障子の向こうから緊張した声が響く。
「申し上げます」
信忠は顔を上げた。
「何事だ」
「徳川家康様がご到着にございます」
部屋が静まり返る。
愛姫は何も分からず父を見上げた。
信忠はしばらく動かなかった。
やがて愛姫の頭を優しく撫でる。
そして静かに立ち上がった。
束の間の父親の時間は終わる。
再び。
織田家当主としての時間が始まろうとしていた。