もしも織田信忠が本能寺の変で死ななかったら   作:アルトリア・ブラック(Main)

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第七話「徳川家康と織田信忠」

安土へ向かう街道を徳川軍は進んでいた。

 

前方には近江の山々。

 

その先には安土城がある。

 

家康は馬上で黙していた。

 

本多忠勝。

 

酒井忠次。

 

そして本多正信。

 

重臣達もまた静かだった。

 

やがて正信が口を開く。

 

「見事なものでございますな」

 

家康は視線を向ける。

 

「何がじゃ」

 

「信忠様にございます」

 

忠勝が頷く。

 

「確かに」

 

「若くしてよくぞ軍をまとめられた」

 

武田征伐の折より信忠を知る者達だった。

 

故に驚きも大きい。

 

正信は続ける。

 

「光秀を討たれた」

 

「諸将をまとめられた」

 

「家中も従っております」

 

家康は苦笑する。

 

「まだ二十代半ばぞ」

 

「されど」

 

正信は僅かに笑う。

 

「信長公もその頃には尾張をまとめておられました」

 

家康は返さない。

 

正信の言いたいことが分かっている。

 

「信忠様には若君もおられます」

 

不意の言葉だった。

 

忠勝が顔を向ける。

 

「三法師か」

 

「左様」

 

正信は頷いた。

 

「家は続きます」

 

風が吹く。

 

馬の足音だけが響く。

 

「信長公は亡くなられた」

 

「されど織田家は残った」

 

正信の声は静かだった。

 

まるで当たり前のことを話しているように。

 

「信忠様がおられる」

 

「若君もおられる」

 

「家臣もおる」

 

「民もおる」

 

家康は空を見上げた。

 

正信はさらに続ける。

 

「天下は流れを失っておりませぬ」

 

忠勝が眉をひそめる。

 

「正信」

 

「何だ」

 

「お主、何が言いたい」

 

正信は小さく笑った。

 

そして前方に見え始めた安土城を見つめる。

 

「何も」

 

そう言いながら。

 

「ただ」

 

「信長公が築かれた天下は」

 

「信忠様のもとへ流れていくのでございましょうな」

 

誰も返事をしなかった。

 

家康も。

 

忠勝も。

 

忠次も。

 

ただ遠くの安土城を見つめる。

 

その城には今。

 

若殿ではなく。

 

織田家当主がいる。

 

家康は小さく息を吐いた。

 

「気が早いわ」

 

そう言ったものの。

 

正信は何も答えなかった。

 

否定もしなかった。

 

 

 

徳川家康は静かに広間へ入った。

 

信忠も立ち上がる。

 

二人は向かい合った。

 

しばし沈黙。

 

やがて家康が深く頭を下げた。

 

「ご無事で何よりにございます」

 

信忠も一礼する。

 

「徳川殿も」

 

それだけだった。

 

だが互いに分かっていた。

 

あと一歩違えば。

 

ここにいることはなかった。

 

家康は席へ着く。

 

信忠も腰を下ろした。

 

しばらくは他愛のない話だった。

 

本能寺。

 

伊賀越え。

 

山崎の戦。

 

だが。

 

話は自然と信長へ移る。

 

「信長殿がおられぬとは」

 

家康が呟く。

 

「未だ信じられませぬ」

 

信忠は答えなかった。

 

答えられなかった。

 

家康もそれ以上は言わない。

 

沈黙が落ちる。

 

やがて家康が茶碗を置いた。

 

「今後のことをお聞かせ願いたい」

 

信忠は顔を上げる。

 

「今後」

 

「織田家にございます」

 

家康の目は真剣だった。

 

「徳川は変わらず織田家と共に歩みます」

 

信忠は小さく頷く。

 

それはありがたい。

 

東国最大の同盟者だ。

 

だが。

 

家康の表情は晴れない。

 

「何か」

 

信忠が尋ねる。

 

家康は少しだけ考えた。

 

「信雄殿は心配しておりませぬ」

 

思いがけない言葉だった。

 

信忠は僅かに眉を上げる。

 

「弟を買っておるのか」

 

「いえ」

 

家康は即答した。

 

思わず信忠も苦笑する。

 

「では何故だ」

 

「分かりやすい方にございます」

 

家康は平然と言った。

 

「敵か味方か」

 

「怒っておるか喜んでおるか」

 

「顔を見れば分かる」

 

信忠は思わず息を吐く。

 

確かにそうだった。

 

信雄は裏表が少ない。

 

良くも悪くも。

 

「されど」

 

家康の表情が引き締まる。

 

「信孝殿は違います」

 

広間の空気が変わる。

 

信忠も真顔になる。

 

「……」

 

「賢い」

 

家康は言う。

 

「若い」

 

「武もある」

 

「家中にも人望がある」

 

静かな声だった。

 

だが一つ一つが重い。

 

「そして」

 

そこで言葉を切る。

 

「信長殿の御子にございます」

 

信忠は黙る。

 

その通りだった。

 

「私もそうだ」

 

「左様」

 

家康は頷いた。

 

「だからこそにございます」

 

風が吹いた。

 

障子が僅かに鳴る。

 

「信忠殿」

 

家康は真っ直ぐ見た。

 

「弟君を疑えとは申しませぬ」

 

「……」

 

「ですが」

 

「警戒はなされよ」

 

信忠は目を閉じた。

 

信孝の顔が浮かぶ。

 

幼い頃。

 

共に馬を駆けた日々。

 

父に叱られた日。

 

笑い合った日。

 

弟だ。

 

紛れもなく。

 

「信孝は織田だ」

 

家康は静かに頷く。

 

「だからこそです」

 

信忠は目を開いた。

 

家康もまた織田家をよく知っている。

 

信長を知っている。

 

そして。

 

戦国という時代を知っている。

 

「徳川殿」

 

信忠が口を開く。

 

「私は父上にはなれぬ」

 

家康は少しだけ笑った。

 

「当然ですな」

 

即答だった。

 

「信長殿になれる者などおりませぬ」

 

信忠も僅かに笑う。

 

本日初めてだった。

 

「されど」

 

家康は立ち上がる。

 

「織田信忠にはなれます」

 

信忠は何も言わない。

 

家康は頭を下げた。

 

「その姿を見せていただきたい」

 

そう言い残し。

 

徳川家康は広間を後にした。

 

信忠は一人残る。

 

弟。

 

家。

 

天下。

 

父。

 

背負うものは増えるばかりだった。




信忠と家康

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