もしも織田信忠が本能寺の変で死ななかったら 作:アルトリア・ブラック(Main)
安土へ向かう街道を徳川軍は進んでいた。
前方には近江の山々。
その先には安土城がある。
家康は馬上で黙していた。
本多忠勝。
酒井忠次。
そして本多正信。
重臣達もまた静かだった。
やがて正信が口を開く。
「見事なものでございますな」
家康は視線を向ける。
「何がじゃ」
「信忠様にございます」
忠勝が頷く。
「確かに」
「若くしてよくぞ軍をまとめられた」
武田征伐の折より信忠を知る者達だった。
故に驚きも大きい。
正信は続ける。
「光秀を討たれた」
「諸将をまとめられた」
「家中も従っております」
家康は苦笑する。
「まだ二十代半ばぞ」
「されど」
正信は僅かに笑う。
「信長公もその頃には尾張をまとめておられました」
家康は返さない。
正信の言いたいことが分かっている。
「信忠様には若君もおられます」
不意の言葉だった。
忠勝が顔を向ける。
「三法師か」
「左様」
正信は頷いた。
「家は続きます」
風が吹く。
馬の足音だけが響く。
「信長公は亡くなられた」
「されど織田家は残った」
正信の声は静かだった。
まるで当たり前のことを話しているように。
「信忠様がおられる」
「若君もおられる」
「家臣もおる」
「民もおる」
家康は空を見上げた。
正信はさらに続ける。
「天下は流れを失っておりませぬ」
忠勝が眉をひそめる。
「正信」
「何だ」
「お主、何が言いたい」
正信は小さく笑った。
そして前方に見え始めた安土城を見つめる。
「何も」
そう言いながら。
「ただ」
「信長公が築かれた天下は」
「信忠様のもとへ流れていくのでございましょうな」
誰も返事をしなかった。
家康も。
忠勝も。
忠次も。
ただ遠くの安土城を見つめる。
その城には今。
若殿ではなく。
織田家当主がいる。
家康は小さく息を吐いた。
「気が早いわ」
そう言ったものの。
正信は何も答えなかった。
否定もしなかった。
徳川家康は静かに広間へ入った。
信忠も立ち上がる。
二人は向かい合った。
しばし沈黙。
やがて家康が深く頭を下げた。
「ご無事で何よりにございます」
信忠も一礼する。
「徳川殿も」
それだけだった。
だが互いに分かっていた。
あと一歩違えば。
ここにいることはなかった。
家康は席へ着く。
信忠も腰を下ろした。
しばらくは他愛のない話だった。
本能寺。
伊賀越え。
山崎の戦。
だが。
話は自然と信長へ移る。
「信長殿がおられぬとは」
家康が呟く。
「未だ信じられませぬ」
信忠は答えなかった。
答えられなかった。
家康もそれ以上は言わない。
沈黙が落ちる。
やがて家康が茶碗を置いた。
「今後のことをお聞かせ願いたい」
信忠は顔を上げる。
「今後」
「織田家にございます」
家康の目は真剣だった。
「徳川は変わらず織田家と共に歩みます」
信忠は小さく頷く。
それはありがたい。
東国最大の同盟者だ。
だが。
家康の表情は晴れない。
「何か」
信忠が尋ねる。
家康は少しだけ考えた。
「信雄殿は心配しておりませぬ」
思いがけない言葉だった。
信忠は僅かに眉を上げる。
「弟を買っておるのか」
「いえ」
家康は即答した。
思わず信忠も苦笑する。
「では何故だ」
「分かりやすい方にございます」
家康は平然と言った。
「敵か味方か」
「怒っておるか喜んでおるか」
「顔を見れば分かる」
信忠は思わず息を吐く。
確かにそうだった。
信雄は裏表が少ない。
良くも悪くも。
「されど」
家康の表情が引き締まる。
「信孝殿は違います」
広間の空気が変わる。
信忠も真顔になる。
「……」
「賢い」
家康は言う。
「若い」
「武もある」
「家中にも人望がある」
静かな声だった。
だが一つ一つが重い。
「そして」
そこで言葉を切る。
「信長殿の御子にございます」
信忠は黙る。
その通りだった。
「私もそうだ」
「左様」
家康は頷いた。
「だからこそにございます」
風が吹いた。
障子が僅かに鳴る。
「信忠殿」
家康は真っ直ぐ見た。
「弟君を疑えとは申しませぬ」
「……」
「ですが」
「警戒はなされよ」
信忠は目を閉じた。
信孝の顔が浮かぶ。
幼い頃。
共に馬を駆けた日々。
父に叱られた日。
笑い合った日。
弟だ。
紛れもなく。
「信孝は織田だ」
家康は静かに頷く。
「だからこそです」
信忠は目を開いた。
家康もまた織田家をよく知っている。
信長を知っている。
そして。
戦国という時代を知っている。
「徳川殿」
信忠が口を開く。
「私は父上にはなれぬ」
家康は少しだけ笑った。
「当然ですな」
即答だった。
「信長殿になれる者などおりませぬ」
信忠も僅かに笑う。
本日初めてだった。
「されど」
家康は立ち上がる。
「織田信忠にはなれます」
信忠は何も言わない。
家康は頭を下げた。
「その姿を見せていただきたい」
そう言い残し。
徳川家康は広間を後にした。
信忠は一人残る。
弟。
家。
天下。
父。
背負うものは増えるばかりだった。