最後の演奏者です──。
司会の声がホールへ響く。
客席のざわめきが少しだけ収まった。
久世律は舞台袖で静かに目を閉じる。
手にはヴァイオリン。
肩へ乗せる。
顎当ての感触を確かめる。
左手でネックを握る。
いつもの感触だった。
何千回。
いや、何万回だろう。
覚えていない。
気付けば人生の半分以上をこの木片と共に過ごしていた。
緊張はない。
全くないと言えば嘘になる。
だが恐怖ではなかった。
心臓は少しだけ速く脈打っている。
それでも不安はない。
弾けるからだ。
今日も。
問題なく。
いつも通りに。
「久世くん」
スタッフに呼ばれる。
「はい」
短く返事をする。
そして舞台へ足を踏み出した。
照明が眩しい。
一瞬だけ客席が見える。
審査員。
保護者。
音楽関係者。
参加者たち。
無数の視線。
その全てが律へ向いている。
慣れていた。
もう何年も前から。
壇上の中央へ立つ。
一礼。
拍手。
そして静寂。
律はゆっくりとヴァイオリンを構えた。
今日の曲はヴィエニャフスキ《華麗なるポロネーズ第1番》。
華やかな曲だ。
難しい曲でもある。
コンクールでは珍しくない。
技巧。
表現。
音色。
演奏者に求められるものが全て詰まっている。
だから好きだった。
努力が結果になる。
練習した分だけ返ってくる。
裏切らない。
少なくとも人間よりは。
律は弓を置いた。
一音目。
ホールの空気が変わる。
細く。
鋭く。
澄み切った音。
雑味はない。
濁りもない。
まるで磨き上げられたガラスのようだった。
音が伸びる。
客席へ届く。
律は演奏を続けた。
ヴィエニャフスキ特有の華やかな旋律。
優雅なポロネーズのリズム。
その奥に隠された技巧。
左手が動く。
指先が駆ける。
弦の上を踊るように。
音が連なる。
流れる。
高音域へ跳ぶ。
重音が鳴る。
難所。
観客の誰かが息を呑んだ。
律は聞いていない。
だが分かる。
この辺りだ。
観客が驚くのは。
審査員が評価するのは。
全部知っている。
全部分かる。
何度も弾いてきたから。
何度も勝ってきたから。
だから失敗しない。
弓は正確だった。
指も正確だった。
テンポも。
音程も。
何一つ乱れない。
完璧。
そう言われる演奏だった。
けれど。
律自身はどこか遠くから自分を見ていた。
音楽をしている感覚がない。
作業。
確認。
採点。
そんな言葉の方が近い。
──大丈夫。
──ここも問題ない。
──次もいける。
頭に浮かぶのはそんなことばかりだった。
気持ちは乗せない。
乗せる必要がない。
正しく弾けば評価される。
正しく弾けば優勝できる。
今までそうだった。
今日もそうだ。
音が駆ける。
技巧が続く。
客席は魅入られている。
審査員も頷いている。
それが分かる。
だから余計に冷めていく。
またか。
そんな気持ちだった。
終盤。
旋律が高く舞い上がる。
華麗に。
鮮やかに。
舞踏会の最後を飾るように。
そして。
最後の一音が消えた。
静寂。
誰も動かない。
一秒。
二秒。
三秒。
音の残響だけがホールに漂う。
律は知っている。
良い演奏の後の沈黙だ。
観客が現実へ戻る時間。
そして。
拍手。
ホールを揺らすほどの拍手だった。
歓声。
喝采。
観客が立ち上がる。
スタンディングオベーション。
審査員も満足そうに頷いていた。
成功だった。
誰が見ても。
文句のつけようがないほどに。
律は立ち上がる。
一礼。
拍手は続く。
だが。
胸の奥は驚くほど静かだった。
まるで他人事みたいに。
☆☆☆
「ヴァイオリン部門中学生の部、優勝──久世律さん」
拍手。
また拍手。
律は名前を呼ばれ壇上へ上がった。
賞状を受け取る。
トロフィーを受け取る。
握手をする。
写真を撮る。
慣れた流れだった。
小学生の頃から何度も経験している。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
自然に笑う。
自然に返す。
愛想は悪くない方だった。
少なくとも律自身はそう思っている。
客席を見る。
参加者たちが拍手していた。
悔しそうな顔。
羨ましそうな顔。
憧れの視線。
色々ある。
その中には自分のことを知っている人間もいるだろう。
久世律。
コンクール常連。
優勝候補。
世界的ヴァイオリニストの息子。
そんな肩書き込みで。
別に嫌じゃない。
事実だから。
ただ。
好きでもなかった。
表彰式が終わる。
会場を出る。
春の風が吹いていた。
暖かい。
空は高い。
日が少しずつ傾き始めている。
律は一人だった。
母親は来ていない。
いつものことだ。
別に気にしていない。
スマホが震える。
母さんからだった。
『結果どうだった?』
律は少し笑う。
入力する。
『優勝』
数秒後。
返信が来た。
『おめでとう』
短い。
けれど母さんらしい。
『どうもー』
送信する。
会話は終わった。
ポケットへスマホをしまう。
駅へ向かう。
肩にはヴァイオリンケース。
手にはトロフィー。
誰が見ても優勝者だった。
ガラス張りのビルに自分の姿が映る。
少しだけ眺める。
上手くなったと思う。
本当に。
誰よりも練習してきた自信がある。
だから優勝した。
当然の結果だ。
驕りではない。
事実だった。
それなのに。
何だろうな。
律は空を見上げる。
春の空だった。
どこまでも青い。
音楽は嫌いじゃない。
ヴァイオリンも嫌いじゃない。
むしろ好きだと思う。
だから続けてきた。
努力もした。
誰よりも。
少なくとも自分はそう思っている。
それなのに。
最近よく分からない。
優勝しても。
拍手を貰っても。
褒められても。
胸の奥に何も残らない。
達成感はある。
安心もする。
けれど。
それだけだった。
まるで喉が渇いているのに、水を飲めていないみたいな感覚。
何かが足りない。
何が足りないのかも分からない。
だから困る。
困るのに。
答えはどこにもない。
春風が吹く。
駅前を歩く人たちは楽しそうだった。
家族連れ。
恋人同士。
友達同士。
誰もが自分の時間を生きている。
律はその流れの中を歩く。
家へ向かうはずなのに。
少しだけ帰りたくなかった。
理由はない。
ただ。
何となく。
まだどこかへ行きたい気分だった。
この時の俺は、まだ知らなかった。
そんな俺の音楽を変えることになる、一人のピアニストと、一人のヴァイオリニストのことを。