■敗北した未来の一柳梨璃がタイムスリップする話 作:あばなたらたやた
夕闇が、すべてを同じ色に塗り潰していく。
燃え盛る戦火の残滓を吸い込んだ雲は、濁った赤紫に淀み、吹き抜ける風には鉄錆と爆薬、そして誰のものとも知れないマギの焦げた匂いが混じっていた。
足元には、削り出しの即席の木碑。
私はその表面を指先でなぞる。
泥と硝煙に汚れた指先は冷え切っていて、自分の体温すらまともに感じ取れなかった。
世界は色を失っていく。
それなのに、遠くで響くヒュージの咆哮だけは生々しく大気を震わせていた。
昨日まで隣で笑っていた少女が死ぬ。
冷たい亡骸になる。
そのたびに世界は少しずつ欠けていく。
私たちの祈りは神へ届く前に踏み潰されてしまう。
ならば、生き残っている私は何なのだろう。
ただ呼吸を続ける機械か。
あるいは死者たちの影を繋ぎ止めるだけの容れ物か。
「お姉様の死や、みんなの死を無駄にはしたくありません」
掠れた声が静寂へ沈む。
「私の体は誰かを救うために生かされているのですから。嫌われ者でも構いません。それで少しでも戦死者が減るなら……寂しいですけど、覚悟はあります」
感情を排したつもりだった。
それでも言葉の端から寂しさが零れ落ちる。
どれだけ多くの屍を越えても、私はただの少女のままだった。
心の穴は埋まらない。
けれど、その空虚こそが私を動かす唯一の燃料だった。
「だからお姉様、見ていてください」
私は墓標へ微笑む。
「私は立派に生きて、そして死にます」
死を前提とした生。
それだけが、終わった世界で私が私であるための哲学だった。
背後から足音が聞こえる。
「――そこにいたか、ラプラス」
技術開発部の担当官だった。
彼の瞳に映るのは私ではない。
私が背負う三機のCHARMだけだ。
「《ドミナント》の最終接続テストが始まる。もう時間がない」
担当官は淡々と言う。
「世界をエネルギーに変換する術式は完成した」
「……わかっています」
「未練があるなら捨てておけ。これから行うのは歴史の修正ではない。虐殺だ」
静かな声だった。
「今を生きる人類を全て消し去り、一度きりの過去に賭ける。お前が背負うのは救世主の栄光ではない。世界を滅ぼしたという絶対の業だ」
「業なら、とうに背負っています」
私は振り返らない。
「これは虐殺ではありません」
墓標を見つめたまま答える。
「祈りです」
私たちは間違えた。
だからやり直す。
それだけだ。
「冷めたものだな。かつて一柳梨璃と呼ばれていた少女はもっと世界を愛していたと記録にあるが?」
「彼女は死にました」
私は小さく息を吐く。
「死力を尽くして任務にあたれ」
「生きている限り最善を尽くせ」
「決して犬死するな」
それが未来から持ち帰る三つの遺訓。
愛という名の呪縛。
「それでは、お姉様」
私は立ち上がる。
「ごきげんよう」
冷たい風が吹いた。
木碑が小さく揺れる。
世界を殺して、私は過去へ行く。
たとえその先に、自分自身との残酷な対面が待っていたとしても。
◆
人類は敗北した。
ガーデンは滅びた。
レギオンは壊滅した。
それでも最後まで諦めなかった者たちがいた。
その執念が生み出したのが三機の実験CHARM。
ヒュージを完全抹消するための刃、《ドミナント》。
戦場の全てを解析し、認識補正と情報攪乱を行う《イレギュラー》。
絶望の中で心を守り続ける精神保護機、《オールマインド》。
今の世界を燃料に変える。
生き残った人類を皆殺しにする。そして私だけが過去へ行く。
それは救済ではない。
完全な抹消だ。
幸せになる資格など、私はとっくに捨てていた。
私はもう一柳梨璃ではない。
死者たちの願いを執行するための存在。
ラプラスだ。
「――起動シークエンス開始」
背後の三機が唸りを上げる。
「因果律固定」
「空間湾曲」
「時間血管形成」
「世界反転開始」
マギが暴走する。
世界が軋む。
大地が砕ける。
空が割れる。
白い光が全てを呑み込み――
私は意識を失った。
◆
潮の香りがした。
「……っ、はぁ」
肺いっぱいに空気を吸い込む。
耳に届くのは少女たちの笑い声。
制服の擦れる音。
未来への期待に満ちたざわめき。
目を開ける。
そこには終末などなかった。
満開の桜
春の陽光。そして百合ヶ丘女学院。
時計の針は正しく巻き戻っていた。
入学式の日。
全ての悲劇が始まる前。
「おい、そこの君」
衛兵が警戒した声を向ける。
「見ない顔だな」
私はフードを深く被り直した。
「通りすがりの亡霊です」
「待て――」
その瞬間、《イレギュラー》を起動する。
私の存在が揺らぐ。
周囲の認識が歪む。
誰も私を不審に思わなくなる。
世界の方が勝手に辻褄を合わせ始めた。
編入記録
在籍情報。
寄宿舎の部屋番号。
存在しなかった履歴が次々と生成されていく。
私は百合ヶ丘女学院高等部三年生。
ただそれだけの存在になった。
歴史の隙間に滑り込ませた偽りの記号。
そのはずだった。
「――あ」
思わず足が止まる。
中庭。
木漏れ日の下。
少女たちが笑っていた。
生きている。
私の腕の中で冷たくなった人たちが。
笑っている。
呼吸している。
未来を信じている
駆け寄りたい。
抱きしめたい。
名前を呼びたい。
胸の奥から込み上げる衝動が理性を焼き尽くそうとする。だが私は動かない。
動いてはならない。
《オールマインド》が静かに作動する。
荒れ狂う感情が凪いでいく。
私はただ見つめた。
それだけでいい。
彼女たちが生きている。
その事実だけで、世界を一つ殺してここへ来た罪が、ほんの少しだけ救われる気がした。
「……よかった」
吐息が春風に溶ける。
私は亡霊だ。
この平穏を守るためだけに設置された迎撃機構だ。
けれど――
生きているのなら、それでいい。この奇跡を。
今度こそ絶対に手放さない。
私は静かに踵を返し、渡り廊下の影へと歩き出した。
新しい戦場へ向かうために。