■敗北した未来の一柳梨璃がタイムスリップする話 作:あばなたらたやた
《イレギュラー》が静かに脈動する。
百合ヶ丘の記録。
教導官たちの認識。
生徒たちの記憶。
世界の辻褄が、少しずつ私を受け入れていく。
ラプラス。
所属不明。
どこのガーデンにも属さない独立傭兵。
戦場に現れてはヒュージを討ち、報酬だけを受け取って去っていく謎のリリィ。
それが今の私だった。
誰にも属さない。
誰とも深く関わらない。
それでいい。
私はこの時代の住人ではないのだから。
磨かれた廊下を歩く。
窓の外から聞こえる笑い声。
平和な学園の日常。
その光景を眺めながら、私は校舎の裏手へ足を向けた。
人の気配が少ない場所。
木々が陽光を遮る静かな中庭。
そこで私は足を止めた。
「――――」
呼吸が止まる。
世界が止まる。
そこにいた。
石造りのベンチ。
木漏れ日の下。
一人の少女が座っている。
長い黒髪。
凛とした横顔。
どこか壊れてしまいそうなほど儚い背中。
白井夢結。
私のお姉様。
未来で、最後まで私を守ろうとしてくれた人。
私の腕の中で死んだ人。
生きている。
本当に、生きている。
胸の奥が痛い。
駆け寄りたかった。
抱きしめたかった。
その温もりを確かめたかった。けれど私は動けない。
今の私は一柳梨璃ではない。
ラプラスだ。
ただの傭兵。
ただの亡霊。
夢結様は俯いていた。
誰も近寄らない。
誰も声をかけない。
近寄れないのだ。
彼女の周囲だけ空気が張り詰めている。
鋭く。
冷たく。
壊れそうなほどに脆い。
ああ。
まだ、この頃なのか。
私は知っている。
彼女がどれほど苦しんでいたか。
どれほど自分を責めていたか。
どれほど孤独だったか。
知っている。
だからこそ今の私には近づく資格がないと思った。
踵を返そうとした、その時だった。
ガタ、と小さな音が響く。
夢結様が顔を上げた。
鋭い瞳。
凍りつくような視線。
その瞳に映る私は、ただの見知らぬ傭兵だった。
胸が少し痛む。
それでも当然だ。
彼女はまだ私を知らない。
「……待ちなさい」
低い声。
私は足を止める。
「貴方」
夢結様がじっと私を見る。
「私とどこかで会ったことがないかしら」
心臓が大きく跳ねた。
息が詰まりそうになる。
それでも表情は変えない。
変えてはいけない。
私は小さく首を横に振った。
「初対面だと思います」
穏やかに答える。
「ですが、せっかくですし少しお話しませんか」
「私と?」
「ええ」
夢結様は不思議そうに目を細めた。
私は微かに《オールマインド》を起動する。
出力は最低限。ただ呼吸を少しだけ楽にする程度。心を操るためではない。傷口にそっと手を添えるためだけの力。
夢結様はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……そうね」
私は一定の距離を空けてベンチへ腰掛ける。
近すぎず。
遠すぎず。
戦場で覚えた間合い。しばらく沈黙が続いた。
風が吹く。
桜が揺れる。
やがて夢結様がぽつりと呟いた。
「今の百合ヶ丘はうるさいの」
私は黙って聞く。
「みんな笑っている」
彼女は続ける。
「未来があると思っている」
その声はひどく静かだった。
「私には、それが眩しすぎる」
夢結様は自嘲するように笑った。
「おかしいわよね」
「そんなことはありません」
私は答える。
「大切なものを失えば、そう思うこともあります」
夢結様の肩が僅かに震えた。
沈黙。
長い沈黙。
やがて。
「……守れなかったの」
小さな声。
「私のお姉様を」
指先が震えている。
「私は強くなりたかった。守りたかった。でも」
そこで言葉が途切れる。
苦しそうに息を吐く。
私は何も急がせない。
何も否定しない。
ただそこにいる。しばらくして夢結様は力を抜くように背もたれへ身体を預けた。
「不思議ね」
少しだけ穏やかな声。
「貴方と話していると楽になる」
私は微笑む。
「それは良かった」
「どうしてかしら」
「さあ」
私は視線を空へ向けた。
「同じように、大切なものを失ったことがあるからかもしれません」
嘘ではなかった。夢結様は静かに目を閉じる。先ほどまで張り詰めていた表情が少しだけ柔らかい。
それだけで十分だった。
私は彼女を救えない。
まだ救えない。今ここにいるのは、一柳梨璃ではないから。
それでも。
今だけは。
少しだけ休ませてあげたかった。
「少し眠るといいですよ」
私は静かに言う。
「白井夢結様」
お姉様とは呼ばない。
呼べない。
今の私はラプラスだから。
「目が覚めるまで、私がここにいますから」
夢結様は答えなかった。
けれど閉じられた瞼はわずかに緩み、その呼吸は穏やかになっていた。
木漏れ日が揺れる。
桜が風に舞う。
私はただ隣に座り続けた。
未来では守れなかった人の傍に。
今度こそ手を離さないと、胸の奥で静かに誓いながら。