敗北した未来の一柳梨璃がタイムスリップする話 作:あばなたらたやた
百合ヶ丘女学院・医務棟。
消毒液の匂いが漂う静かな部屋で、私は窓際の椅子に腰掛けていた。
特殊要撃級ヒュージとの戦闘から、およそ一時間。
戦闘に参加したリリィは全員、簡易検査とマギ測定を受けることになっていた。
私も例外ではない。左腕には白い包帯が巻かれている。
あの傷を見下ろしながら、私は静かに息を吐いた。
正直に言えば、まだ信じられなかった。
未来の私。
ラプラスは、人類滅亡寸前の地獄を生き抜いてきた存在だ。
極限環境で鍛え上げられた肉体。
人体強化処置。
未来技術による実験CHARM。そして何より、数え切れないほどの戦闘経験。
普通に考えれば、この時代の要撃級程度に苦戦するはずがない。
それなのに。
あの特殊個体は私の予想を超えていた。
擬態。
煙幕。
待ち伏せ。
誘導。
人間の戦術を理解しているかのような立ち回り。
まるで……まるで未来のヒュージに近い。
そんな嫌な予感が胸の奥に残っている。
「ラプラスさん」
聞き慣れた声に顔を上げる。
一柳梨璃だった。
両手で大量の書類を抱えながら、慌てた様子でこちらへ歩いてくる。
「どうしました?」
「えっと、その……戦闘報告書です!」
机の上へ資料を並べながら、梨璃は困ったように笑った。
「私、一回もこういうの書いたことなくて……」
「初陣ですからね」
「ですよね!」
少し安心したように笑う。
私は胸の奥に湧き上がる感情を押し込めた。
今の彼女は私を知らない。
私は彼女を知っている。
その一方通行な関係を忘れてはいけない。
やがて、部屋の扉が開いた。
白井夢結が姿を現す。凛とした立ち姿。乱れのない制服。静かな足取り。
先程まで要撃級ヒュージと死闘を繰り広げていたとは思えない。
「検査は終わったのですか?」
「ええ」
短い返答。けれど以前より刺々しさは少ない。
夢結様は私たちの向かいへ腰を下ろした。そのまま何も言わず報告書を書き始める。
ペン先が紙の上を滑る音だけが響く。
迷いがない。
早い。そして正確だ。さすがだと思う。未来でも夢結様はこうだった。
誰よりも強く。
誰よりも優秀で。
そして誰よりも自分を追い詰める。
「えっと……」
梨璃が手を挙げた。
「ここって何を書けばいいんでしょう」
「どこ?」
私が覗き込む。
「敵性個体の特徴」
「ああ」
私は少し考えた。
「擬態能力を有する要撃級特殊個体」
「はい」
梨璃は慌てて書き始める。
「煙幕を展開」
「はい」
「奇襲能力が高い」
「はい」
「非常に小賢しい」
「それ書いていいんですか?」
「駄目です」
「ですよね!」
「表現がよろしくないですね。知能がある、と」
梨璃が慌てて消し始める。思わず笑ってしまった。夢結様も一瞬だけペンを止める。その口元がほんの少し緩んだ気がした。
「夢結様はどう書いてるんですか?」
梨璃が身を乗り出す。夢結様は無言で書類を見せた。
そこには簡潔な文章が並んでいた。
『要撃級特殊個体』
『擬態能力を確認』
『煙幕による視界妨害を実施』
『連携攻撃により撃破』
以上。
無駄がない。
「すごい……」
「必要なことだけ書けばいいのよ」
「私、三ページあります」
「長いわね」
「反省文みたいになりました……」
夢結様が小さくため息を吐く。
私は吹き出しそうになった。
懐かしい。
本当に懐かしい。未来では見られなかった光景。失われてしまった光景。報告書を書くだけの時間。平和な午後。戦闘が終わった後の雑談。それらは戦争が長引くほど真っ先に消えていった。
人類が追い詰められるほど。
誰も笑わなくなった。誰も未来の話をしなくなった。だからこうして二人がいるだけで。
胸が少し苦しくなる。
夢結様が生きている。
梨璃が生きている。
それだけで十分なはずなのに。
もっと欲しくなってしまう。
もっと笑っていてほしい。
もっと平和であってほしい。
もっと長く生きてほしい。
そんな願いが次々と浮かんでくる。
「ラプラスさん?」
梨璃が首を傾げた。
「どうしました?」
「いえ」
私は微笑む。
「少し考え事を」
「難しいことですか?」
「未来のことです」
思わず本音が漏れた。
梨璃は不思議そうな顔をする。
「未来?」
「ええ」
私は窓の外を見る。
訓練場。
笑い声。
春の風。
生徒たちの日常。
未来の私が失ったもの。
守れなかったもの。
取り戻したかったもの。
「皆さんが笑っていられる未来なら良いな、と」
梨璃は少し照れくさそうに笑った。
「そんなの当たり前ですよ」
当たり前。
その言葉が胸に刺さる。
そうだ、本来は当たり前なのだ。
少女たちが笑うことも。
夢を見ることも。
恋をすることも。
未来を語ることも。
全部。全部当たり前のはずだった。
「そうですね」
私は静かに頷いた。
「当たり前であるべきです」
だから守る。
誰にも知られなくていい。
感謝されなくてもいい。
歴史に名前が残らなくてもいい。
私は未来から来た亡霊だ。
主役ではない。
英雄でもない。
世界を救う物語の主人公は、ここにいる。
白井夢結。
一柳梨璃。
そしてこの時代を生きる全てのリリィたち。
私はその少し後ろに立ち、転びそうなら支える。傷付いたら治療する。迷ったら道を示す。
それだけでいい。それこそが、世界を一つ殺してここへ来た私に残された、唯一の役割なのだから。
少しして、報告書を書き終えた梨璃が、大きく背伸びをした。
「終わったぁ……」
まるで長時間の任務を終えたような達成感に満ちた声だった。
夢結様が横から書類を受け取る。
「見せなさい」
「あっ、はい!」
緊張した様子で差し出す梨璃。
夢結様は静かに目を通し始めた。
数秒後。
「……長いわね」
「やっぱりですか!?」
「戦闘報告というより感想文よ」
「うぅ……」
即死だった。梨璃の肩が目に見えて落ちる。だが夢結様は続きを読んでいる。
最後まで一文字も飛ばさず、私はその横顔を見ていた。本来の夢結様なら、もっと冷たく切り捨てていたかもしれない。
今の彼女はまだ傷付いている。だが同時に、誰よりも誠実だった。だからこそ、他人の努力を無視できない。やがて夢結様は報告書を机へ置いた。
「内容は悪くないわ」
梨璃が顔を上げる。
「本当ですか?」
「ええ。ただ感情を書きすぎているだけ」
「感情……」
「怖かった、緊張した、嬉しかった。そういう部分は個人記録ならともかく、戦闘報告には必要ないの」
「なるほど……」
梨璃は真剣にメモを取り始めた。
本当に素直だ。
教えれば吸収する。だから伸びる。未来で多くの人が彼女に惹かれた理由がよく分かる。
夢結様もそれに気付いているのだろう。表情こそ変わらないが、先ほどより声が柔らかい。
「でも」
夢結様が続ける。
「あなたが何を考えて行動したのかは伝わったわ」
梨璃が目を丸くする。
「それって……」
「悪いことではない」
ほんの少し、本当にほんの少しだけ。
夢結様が微笑んだ。
「リリィとしては大切なことよ」
その瞬間、梨璃の顔が真っ赤になった。
「あ、あの、ありがとうございます!」
勢いよく頭を下げる。夢結様は少し困ったような顔をした。私は思わず視線を逸らす。懐かしい。本当に懐かしい。
この光景を知っている。
未来の私は知っている。
この二人がどんな関係になるのか。
どれほど強い絆を結ぶのか。
どれほど互いを大切に想うのか。
知っているからこそ、胸が痛かった。
この先に待つ悲劇も、失われる未来も、全部知っている。全部経験してきた。
だから私は、絶対に変えなければならない。
「ラプラスさん」
梨璃がこちらを見る。
「どうしました?」
「さっきから何だか遠くを見てます」
「そうですか?」
「はい」
夢結様も視線を向けてくる。
鋭い。
さすがだった。
精神が安定している今は、観察力も増している。
「考え事よ」
夢結様が言う。
「それも、かなり重いもの」
私は苦笑した。
「隠せていませんでしたか」
「ええ」
「ラプラスさんって、すごく強いのに時々寂しそうです」
梨璃の言葉に私は少しだけ言葉を失った。
そう言うことを言う記憶があった。感じた記憶があった。
一柳梨璃。彼女は人の感情を見る。強さではなく。肩書きでもなく。その人自身を見る。だから多くの人が救われ、仲間となったのだろう。
夢結様も。
神琳も。
雨嘉も。
私についてきてくれていた。
救われていた。
「寂しい、ですか」
「はい」
梨璃は頷く。
「なんというか……」
少し考えて。
「誰かのために頑張りすぎてる感じがします」
胸が痛んだ。
正確だった。
あまりにも正確だった。
夢結様も何も言わない。ただ静かに私を見ている。
私は窓の外へ視線を向けた。
桜が揺れている。
春の風が吹いている。
平和な世界。守りたかった世界。
「私は」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「少し年上ですから」
「?」
「だから後輩たちには、なるべく良い未来を歩いてほしいんです」
それは嘘ではなかった。むしろ本心だった。梨璃は嬉しそうに笑う。
「優しいですね」
「そうでしょうか」
「はい!」
即答だった。
私は苦笑する。
優しいわけではない。ただの後悔だ。守れなかったから。救えなかったから。もう一度機会を与えられただけ。
それでも。
「ありがとう」
自然とそんな言葉が漏れた。
梨璃はきょとんとする。
「え?」
「いえ」
私は立ち上がった。
「そろそろ行きましょうか」
窓の外では夕陽が差し始めている。
平和な一日が終わろうとしていた。
未来では存在しなかった時間。
誰も死ななかった一日。
それだけで十分価値があった。
夢結様も立ち上がる。
梨璃も慌てて荷物をまとめる。二人が並んで歩く姿を見ながら、私は少しだけ後ろを歩いた。
前に出る必要はない。
今はまだ。
この二人が出会い、歩み寄り、互いを知っていく時間だ。
私はその背中を見守ればいい。
――守る。
そのために私はここにいる。
たとえ誰にも知られず、たとえ歴史から消えることになったとしても。
この光景だけは。
この平和だけは。
今度こそ、絶対に失わせない。