微かな振動が体を揺らした。
規則正しいエンジン音。
窓ガラスが小刻みに震える音。
「……ん。」
#朔夜はゆっくりと瞼を開いた。
ぼやけた視界に飛び込んできたのは、見慣れたバスの天井だった。
「……あれ。」
身体を起こす。
窓の外では夕暮れの街並みがゆっくりと流れている。
乗客達も変わらない。
課外授業を終えた児童や教師達が、それぞれ静かに帰路についていた。
「戻って……きた?」
思わず漏れた独り言は、エンジン音に紛れて消えていく。
胸がどくりと鳴った。
あれは夢だったのだろうか。
きさらぎ駅。
零さん。
伊吹丸さん。
マオさん。
祭囃子。
赤い空。
どれもあまりにも鮮明だった。
#朔夜は慌ててスマホを取り出した。
画面が点灯する。
時刻を見る。
「……。」
最後に時間を確認した記憶から、三十分ほどしか経っていなかった。
[newpage]
「そんな……。」
体感では何時間も歩いた。
トンネルを抜け、駅へ辿り着き、電車にも乗った。
それなのに。
現実では僅かな時間しか流れていない。
夢。
そう片付けるには、妙に現実味がありすぎた。
何気なく連絡先を開く。
「え……?」
スクロールする指が止まる。
見覚えのない名前が二つ、追加されていた。
[chapter: 石動 零]
[chapter: 日陰 マオ]
「……。」
#朔夜は画面を見つめたまま固まる。
交換した。
確かに交換した。
かたす駅で電車を待っている間に。
夢なら、残るはずがない。
「本当……だった。」
思わず呟く。
その瞬間だった。
ふと前方から視線を感じた。
顔を上げる。
「……。」
数列前の座席。
零さんがこちらを見ていた。
目が合う。
二人とも何も言わない。
ほんの数秒。
静かな時間だけが流れる。
やがて零さんは、小さく一度だけ頷いた。
言葉はない。
しかし、それだけで十分だった。
夢ではなかった。
互いに、それを理解している。
次の瞬間には零さんは何事もなかったように窓の外へ視線を戻してしまった。
#朔夜もそれ以上話しかけることはしない。
あの短い頷きだけで、全て伝わった気がした。
[newpage]
「……そうだ。」
#朔夜は慌てて車内を見回した。
マオさん。
彼はどこだ。
前方。
後方。
最後尾。
乗客の顔を一人ずつ確認する。
いない。
制服姿の高校生はどこにも見当たらなかった。
「……いない。」
「誰か探してるの?」
不意に声を掛けられた。
振り向くと、出木杉が不思議そうな顔でこちらを見ている。
「あ、うん。」
「高校生くらいの人、見なかった?」
「あと、中学生くらいの女の子と、その友達。」
出木杉は少し考える。
「ああ。」
「その人達なら一つ前の駅で降りたよ。」
「え?」
#朔夜は目を丸くした。
「一つ前?」
「うん。」
「課外授業だったみたい。」
「先生も一緒だったし。」
アヤメ達のことだ。
そういえば、同じ境港へ来ていた。
「起こそうかと思ったんだけど。」
出木杉は苦笑する。
「#朔夜君、すごく気持ち良さそうに寝てたから。」
「そのままにしちゃった。」
「そう……だったんだ。」
確かに眠っていた。
だが、その眠りは普通ではなかった。
そう思ってしまう自分がいた。
[newpage]
「疲れたんだろうね。」
前方から穏やかな声が聞こえる。
社会科の先生だった。
「展示をたくさん歩き回ったし。」
「初めて見るものばかりだったろ?」
「ゆっくり休みなさい。」
先生は優しく微笑んだ。
「はい。」
#朔夜も笑顔で返事をする。
それ以上は何も言えなかった。
先生に話したところで、信じてもらえるはずがない。
きさらぎ駅へ迷い込み、異界を歩いたなど。
自分でも信じ難い話なのだから。
バスはゆっくりと市街地へ入っていく。
窓の外には見慣れた道路。
信号。
コンビニ。
夕日に照らされた住宅街。
どれもいつも通りだった。
異界の赤い空とは違う。
どこか安心する景色。
#朔夜はもう一度スマートフォンを開いた。
連絡先。
そこには確かに、
[chapter: 石動 零]
[chapter:日陰 マオ]
の名前が並んでいる。
試しにマオさんの名前をタップする。
通話ボタン。
メッセージ。
どちらも押そうと思えば押せる。
「……。」
しかし、指は途中で止まった。
今はやめておこう。
また、いつか。
本当に必要になった時に。
そっと画面を閉じる。
バスは目的地へ向けて走り続ける。
何事もなかったかのように。
夏の終わりを告げる夕焼けの中を。
けれど#朔夜だけは知っていた。
あの異界は夢ではない。
あの太鼓の音も。
赤い空も。
そして、「あるべき場所へ返しただけだよ」と笑った高校生も。
確かに存在していたのだと。
胸元の宝石が、夕日に照らされて小さく輝いた。
その光だけが、あの出来事が現実だったことを静かに物語っていた。