鬼太郎は反射的に振り返った。
風が吹く。
白煙がゆっくりと左右へ流れ、視界が少しずつ晴れていく。
そこに、一つの人影が立っていた。
逆光に包まれ、その姿はまだはっきりとは見えない。
しかし、その気配だけで分かる。
見覚えのある妖気。
それでいて、決定的に違う何か。
「……#朔夜?」
鬼太郎は思わずその名を口にした。
人影は静かに一歩前へ出る。
コツ――。
靴音だけが、不思議なほどよく響いた。
その瞬間だった。
空気が変わる。
夏だというのに、ひやりとした風が鬼太郎の頬を撫でる。
猫娘が小さく肩を震わせた。
「寒い……?」
目玉おやじも息を呑む。
「この気配……。」
煙が完全に晴れた。
そこに立っていたのは、紛れもなく#朔夜だった。
だが、鬼太郎の知る#朔夜ではない。
少年らしかった面影は薄れ、どこか成熟した女性を思わせる中性的な美貌へと変わっていた。
切れ長となった瞳は深い蒼碧を湛え、澄み切った湖面のように静かでありながら、その奥には感情の揺らぎが一切映らない。
瞼には青紫の彩りが宿り、その美しさをより神秘的なものへと変えていた。
淡い髪は長く流れ、風もないのにゆるやかに揺れている。
深い緑の羽織を羽織り、その袖口から覗く籠手は華美ではない。
それでも、歴戦の武人を思わせる気品があった。
胸元では、青い宝石が青白く静かに脈動している。
そして。
左肩から腕へかけて、一匹の白蛇が静かに身体を巻き付けていた。
蛇は敵意を見せない。
ただ黄金色の瞳だけが周囲を見渡している。
最後に鬼太郎の視線が止まったのは、その右手だった。
巨大な一振りの斧。
妖気ではない。
神気とも異なる。
重く、清らかな力を放つ妖聖剣。
[newpage]
「……ゲンブ法典斧。」
目玉おやじが思わず呟く。
「妖聖剣だって!?」
猫娘は言葉を失っていた。
静かだ。
何もしていない。
ただ立っているだけ。
それなのに、その場にいる誰もが息苦しさを覚える。
まるで巨大な湖の底へ沈められたような圧迫感。
鬼太郎は無意識に下駄を半歩引いていた。
(人間じゃない。)
違う。
(妖怪でもない。)
さらに違う。
目の前にいる存在は。
(神……。)
その時だった。
土蜘蛛がくつくつと喉を鳴らした。
「ようやく来わね。」
その声音には焦りはない。
むしろ歓喜に近かった。
「四神の力を宿す者。」
「待っていたわ。」
鬼太郎が眉をひそめる。
待っていた?
この状況を?
#朔夜は土蜘蛛を静かに見つめる。
表情は変わらない。
怒りもない。
憎しみもない。
ただ、凍てつく湖面のような静寂だけがあった。
白蛇がゆっくりと鎌首をもたげる。
しかし威嚇はしない。
静かに土蜘蛛を見つめるだけ。
その様子に、猫娘は思わず息を呑んだ。
「あれ、本当に#朔夜なの……?」
鬼太郎は答えられなかった。
姿は#朔夜。
だが、その奥に流れる力は、まるで別の存在だった。
ふと、#朔夜が一歩前へ出る。
足元へ、小さな波紋が広がった。
まるで地面が水面へ変わったかのように。
そして静かにゲンブ法典斧を持ち上げる。
重さを感じさせることなく。
あまりにも自然に。
その動作だけで、土蜘蛛の笑みが消えた。
初めてだった。
あの土蜘蛛が、わずかに警戒の色を浮かべたのは。
鬼太郎は確信する。
この戦いは、今この瞬間から新たな局面へ入る。
そして朔夜は、静かに口を開いた。
「……。」
その声が発せられる直前――。