眩い雷光が収まった時、不動雷鳴剣のあった場所には、見知らぬ妖怪が立っていた。
白く大きく巻いた髪。紫がかった肌。小柄な身体の周囲には、何本もの腕を思わせる異形の力が揺らめいている。
突然現れた存在を前に、女郎蜘蛛も攻撃の手を止めていた。
蜘蛛糸に拘束された#朔夜は、かすれる声で問い掛ける。
「あなたは……?」
妖怪は堂々と胸を張った。
「オレは不動明王ボーイ! よろしくな!」
「不動……明王ボーイ?」
「おう!」
場違いなほど明るい返事が返ってくる。
鬼太郎は静かに相手を観察し、猫娘は何とも言えない表情を浮かべていた。
女郎蜘蛛も一瞬呆気に取られていたが、すぐに顔を怒りで歪める。
「どこの妖怪かは知らぬが、妾の邪魔をするでない!」
「まずは、こっちだな!」
不動明王ボーイは女郎蜘蛛を無視し、#朔夜を縛り上げている蜘蛛糸へ目を向けた。
その手には、短剣ほどの大きさに縮んだ不動雷鳴剣が握られている。
「今、助けるぞ!」
青白い雷光が走った。
不動雷鳴剣が蜘蛛糸へ触れた瞬間、#朔夜の身体を締め付けていた糸が次々と切断されていく。
最後の一本が切れ、支えを失った#朔夜の身体が前へ傾いた。
「っと!」
不動明王ボーイが素早く腕を伸ばし、#朔夜を受け止める。
「大丈夫か?」
「はい……あ、ありがとう」
そう答えたものの、#朔夜の身体にはほとんど力が残っていなかった。
女郎蜘蛛に青い宝石の力を吸い取られた影響だろう。指先は小さく震え、床へ落ちたゲンブ法典斧を拾うことさえできそうにない。
「小癪な!」
怒声とともに、女郎蜘蛛の背後から無数の蜘蛛糸が放たれた。
全ての糸が、不動明王ボーイへ襲い掛かる。
[newpage]
「危ない!」
#朔夜が叫ぶ。
しかし、不動明王ボーイは逃げなかった。
正面から迫る蜘蛛糸へ腕を伸ばし、その一本を掴み取る。
「捕まえた!」
「何じゃと!?」
女郎蜘蛛の表情が固まった。
蜘蛛糸は、女郎蜘蛛自身の妖力から作られたものだ。当然、その糸の先は彼女の身体へと繋がっている。
不動明王ボーイは両足を踏ん張り、握った蜘蛛糸を勢いよく引いた。
「そーれっ!」
「待て、何を――きゃあああああっ!?」
宙へ投げ飛ばされたのは、不動明王ボーイではなかった。
女郎蜘蛛の身体が浮かび上がり、そのまま不動明王ボーイを中心に大きな円を描いて回り始める。
一周。
二周。
三周。
「離せ! 妾を誰だと思っておる!」
「悪いことをした奴は、おとなしく反省しろ!」
「話を聞けと言っておるのじゃ!」
女郎蜘蛛は抵抗しようと新たな蜘蛛糸を放つ。
だが、不動明王ボーイは伸びてきた糸まで掴み取った。
「まだ元気そうだな!」
「待て! それは違う! これは抵抗ではなく――きゃああああっ!」
振り回す速度が、さらに上がった。
女郎蜘蛛の長い髪と衣装が風に煽られ、激しくたなびく。
これまで朔夜たちを圧倒していた大妖怪の威厳は、すでに見る影もない。
「何という力じゃ……」
目玉おやじが呆然と呟く。
「強いのは分かるけど、もう戦いというより振り回してるだけじゃない」
猫娘は頬を引きつらせていた。
女郎蜘蛛は何度も蜘蛛糸を放って逃れようとしたが、そのたびに妖力を消耗していく。
巨大だった身体は徐々に縮み、人間ほどの大きさから少女ほどの大きさへ、そして最後には手のひらへ乗るほど小さくなってしまった。
「ま、待て……妾の負けじゃ……」
女郎蜘蛛は早くも涙目になっていた。
「本当か?」
「本当じゃ! 抵抗せぬ! じゃから早く止めよ! 目が回る!」
「分かった!」
不動明王ボーイが突然手を止めた。
勢いを失った女郎蜘蛛は、そのまま床へ落下する。
「うぅ……酷い目に遭うた……」
小さくなった女郎蜘蛛は、八本の足をふらつかせながら起き上がろうとした。しかし何度試しても真っすぐに立てず、最後には床へ座り込んでしまう。
「自業自得よ」
猫娘が冷たく言い放つ。
「人間や妖怪を大勢巻き込んでおいて、被害者みたいな顔しないで」
「妾は土蜘蛛じゃぞ……もっと敬意というものを……」
女郎蜘蛛は弱々しく反論したが、不動明王ボーイと目が合うと、慌てて口を閉じた。
その時、夕暮れの空から大勢の羽ばたき音が聞こえてきた。
黒い翼を持つ烏天狗たちが群れを成し、元町タワーへ向かって飛んでくる。
先頭に立つ烏天狗は制服のような衣装を身に纏い、腰には刀と捕縛用の縄を下げていた。
「そこまでだ!」
烏天狗たちは広場へ降り立つと、小さくなった女郎蜘蛛を取り囲む。
「土蜘蛛だな。人間及び妖怪への襲撃、誘拐、生命力の吸収、さらに市街地へ大規模な被害を発生させた容疑で拘束する」
「遅い!」
猫娘の鋭い声が飛んだ。
「もう全部終わっちゃったじゃない! 今まで何してたのよ、烏天狗警察!」
「仕方がないだろう! 現世でこれほど大規模な事件が起きているとは、こちらも把握できていなかったのだ!」
「それで済むと思ってるの?」
「まあまあ、猫娘。警察を動かすにも、それなりの手順があるんじゃろう」
目玉おやじが二人の間へ入る。
「今は土蜘蛛を確実に引き渡すことが先じゃ」
「……分かってるわよ」
猫娘は不満そうに腕を組んだ。
烏天狗の一人が、小さな籠を取り出して女郎蜘蛛の前へ置く。
「入れ」
「無礼者! 妾を誰だと――」
抗議しようとした女郎蜘蛛だったが、不動明王ボーイが一歩近付くと、急いで籠の中へ飛び込んだ。
「早く蓋を閉めよ!」
「随分と素直になったな」
「うるさい!」
籠の扉が閉じられる。
「この後、女郎蜘蛛はどうなるんですか?」
不動明王ボーイに支えられた#朔夜が尋ねた。
「妖怪裁判所へ連行する。取り調べの後、正式な裁判に掛けられることになるだろう」
「裁判……僕たちも立ち会えるんですか?」
烏天狗は首を横へ振る。
「妖怪裁判所への人間の立ち入りは、原則として認められていない」
「原則?」
「昔、特例として人間が立ち会ったことがあったがな」
目玉おやじが口を挟んだ。
「じゃが、人間界と妖怪界の双方を揺るがすほどの、よほど特殊な事件だっのじゃ。今回証言が必要となれば、わしら妖怪が呼ばれることになるじゃろう」
「そうですか……」
#朔夜は籠の中の女郎蜘蛛へ視線を向けた。
女郎蜘蛛は身体を丸め、こちらに背を向けている。反省しているのか、単に拗ねているだけなのかは分からなかった。
烏天狗警察は鬼太郎から簡単に事情を聞き取ると、女郎蜘蛛を収めた籠を持って空へ舞い上がった。
黒い翼の群れが夕暮れの彼方へ消えていく。
その姿が完全に見えなくなった瞬間、#朔夜の身体から力が抜けた。
「#朔夜!」
猫娘と不動明王ボーイが、倒れかけた身体を慌てて支える。
「まったく、無茶し過ぎよ!」
「すみません……」
「ひとまず有星神社へ戻ろう」
鬼太郎が静かに告げる。
「アヤメの状態も確認した方がいい」
[newpage]
朱雀と一反木綿の力を借り、#朔夜たちは有星神社へ戻った。
座敷では、アヤメが静かな寝息を立てている。
女郎蜘蛛の憑依は既に解けており、生命力を吸い取っていた糸も朔夜が断ち切っていた。
顔色はまだ青白かったが、呼吸は安定している。
「女郎蜘蛛との繋がりは完全に切れておる。このまま休ませれば、じきに目を覚ますじゃろう」
オババの言葉を聞き、#朔夜は安堵の息を吐いた。
「よかった……」
「よかった、で済ませるには、妙なことが多過ぎるようじゃのう?」
オババの鋭い視線が、#朔夜の胸元へ向けられる。
女郎蜘蛛に妖力を吸収された青い宝石は、今では弱々しい光を宿しているだけだった。
「その石じゃ。いったい何物なんじゃ?」
「わしも気になっておった」
目玉おやじも身を乗り出す。
「湖を割り、玄武を朔夜の身体から引き剥がし、最後には不動雷鳴剣へ力を流したと聞いたぞ。尋常な宝石ではあるまい」
「それは……僕にも分からなくて」
朔夜は宝石へ手を添える。
「以前、妖怪縁日へ迷い込んだ時に、マオさんから譲ってもらったんです」
「日陰マオというヤツだ。恐らく高校生ぐらうだろう」
零が補足した。
鬼太郎たちの視線が零へ集まる。
「お主は知っておるのか?」
「ああ。きさらぎ駅で本人から聞いた」
零は壁へ寄り掛かりながら、淡々と続ける。
「妖怪縁日で#朔夜がこの石を見つけ、強く惹かれたらしい。代金はマオが支払ったらしいとコイツから聞いた」
「その少年は、何と言っておったんじゃ?」
目玉おやじが尋ねる。
「『あるべき場所へ返しただけ』だ」
その言葉を聞いた途端、オババと目玉おやじの表情が険しくなった。
「返した、とな」
「つまり、その石は元々#朔夜のものだったとも受け取れるのう」
「でも、僕はこの宝石を見たことなんて」
#朔夜は戸惑いながら答える。
「少なくとも、妖怪縁日へ行くまでは……」
「マオという少年は、何かを知っておるようじゃな」
オババは考え込むように目を細めた。
「だが、今問題なのは石の出所だけではない」
鬼太郎が口を開く。
「宝剣殿で、いったい何が起きたんだ?」
「湖に着いた時から、宝石は反応していました」
ナツメが答えた。
「湖の底を光で指し示して、その直後に水が左右へ割れたんです」
「玄武の石像から水が流れ出した時も、この石の光で止まりました」
トウマが続ける。
「それだけじゃない。玄武が#朔夜の身体へ入った時、最後に引き剥がしたのも宝石の力だった」
アキノリが真剣な表情で言った。
「その後、玄武は朔夜をゲンブ法典斧の使い手に選んだんです」
「玄武に身体を乗っ取られただと?」
零の眉が寄る。
「お前、そんなことになっていたのか」
「はい……」
「なぜ平然としている」
「平然としているつもりはないんですけど……」
「十分平然としておるぞ」
伊吹丸が呆れたように口を挟む。
「まこと、そなたは己の身を顧みぬな。此度も一歩誤れば、玄武に身も心も奪われておったやもしれぬぞ」
「すみません……」
「伊吹丸の言う通りだ」
鬼太郎も真剣な声で続ける。
「力が助けてくれたからといって、その宝石が安全だとは限らない」
「むしろ力の正体が分からん以上、警戒すべきじゃろう」
目玉おやじが頷く。
「じゃが、今のところ#朔夜を害するどころか、守ろうとしているようにも見えるのう」
「だからこそ厄介なんじゃ」
オババが腕を組む。
「善意で動く力ほど、扱う者が無茶をしやすい。#朔夜、お主はその石を過信し過ぎてはならんぞ」
「はい」
#朔夜は素直に頷いた。
「それで、あっちの妖怪は何者なの?」
猫娘が、不動明王ボーイを指差す。
「元町タワーで名乗ってはいたけど、どうして不動雷鳴剣から出てきたのよ」
「呼ばれたからだ!」
不動明王ボーイが元気よく答える。
「誰に呼ばれたの?」
「分からない!」
「分からないのかよ」
零が即座に突っ込む。
「でも、助けを求める声が聞こえたんだ。だから出てきた!」
「その声は、#朔夜のものだったのか?」
鬼太郎が尋ねる。
「たぶん!」
「また、たぶん?」
猫娘が額を押さえる。
伊吹丸は不動明王ボーイをじっと見つめた。
「不動明王の名を冠する者よ。そなた、自らがいずこより来たのかも分からぬと申すか」
「細かいことは気にするな!」
「細かくはないわ!」
猫娘の声が座敷へ響いた。
#朔夜は胸元の宝石を見下ろす。
妖怪縁日で強く惹かれた青い石。
湖を割り、玄武の力を動かし、不動明王ボーイを呼び出した宝石。
偶然だと思っていた出来事が、少しずつ一本の線で繋がり始めている。
[newpage]
「日陰マオは、この石の正体を知っているはずだ」
零が朔夜へ言った。
「今度会った時には、必ず問いただせ。『あるべき場所へ返した』という言葉の意味もな」
「はい」
「それから、もう一つじゃ」
朱雀が静かに口を開いた。
「玄武から妖聖剣を受け取った瞬間、#朔夜の額に加護の紋章が現れた」
「え?」
#朔夜は思わず額へ手を当てた。
「僕の額に……?」
「本人は気付いていなかったのか」
「何ですか、その反応!?」
零、鬼太郎、猫娘、目玉おやじ、オババ、伊吹丸。
その場にいる全員の視線が、一斉に#朔夜へ集まった。
「ちょ、ちょっと待ってください。一度に聞かれても……」
困り果てる#朔夜の横で、不動明王ボーイが再び胸を張る。
「オレは不動明王ボーイ! よろしくな!」
座敷に沈黙が訪れた。
零が眉間を押さえる。
「お前の自己紹介は、もう聞いた」
「そうなのか?」
「自分で名乗ったことくらい覚えておれ!」
思わず伊吹丸まで声を荒らげる。
その日、有星神社には久しぶりに明るい笑い声が響いた。