「まなさん……?」
#朔夜がもう一度呼び掛けても、まなは返事をしなかった。
大きく見開かれた瞳から、涙が一筋だけこぼれ落ちる。
目の前にいるアニエスを見つめたまま、身体を小さく震わせていた。
「まな?」
アニエスも困惑した様子で名前を呼ぶ。
しかし、周囲の吸血鬼たちは待ってくれない。
柱へ叩きつけられた一体が身体を起こし、牙を剥きながら低く唸った。残る者たちも、アニエスを警戒しつつ、じりじりと距離を縮めてくる。
「今はゆっくり話している場合じゃないわね」
アニエスは杖を構え、朔夜たちの前へ立った。
「二人とも、私の後ろから離れないで!」
「はい」
#朔夜は頷き、動かないまなの肩へ腕を回した。
「まなさん。少しだけ歩けますか?」
返事はない。
#朔夜が支えなければ、そのまま膝から崩れ落ちてしまいそうだった。
吸血鬼の一体が床を蹴る。
「ダイナガ・ミ・トーチ!」
アニエスの杖から放たれた赤い光が、襲い掛かった吸血鬼の胸を捉えた。大きな音と共に身体が吹き飛び、周囲の仮装客から歓声が上がる。
「すごい演出!」
「映画の撮影かな?」
誰も、この騒ぎが本物の吸血鬼と魔女による戦いだとは気付いていない。
「もう! こんな時まで仮装だと思われるなんて!」
アニエスが苛立たしげに杖を振る。
その時、人混みの向こうから聞き慣れた声が飛んできた。
「#朔夜!」
人々を押し分けるようにして、ナツメが駆け寄ってくる。
そのすぐ後ろには、しずかとアヤメ。そして先頭を追い越す勢いで、猫娘が走ってきた。
「まな!」
猫娘の声が響いた瞬間だった。
それまで何の反応も見せなかったまなの肩が、大きく震えた。
ゆっくりと顔を上げる。
紫がかった長い髪。
大きな赤いリボン。
鋭い黄色の瞳。
少し前まで、記憶のないまま「猫の仮装をした人」だと思っていた姿。
けれど今は違う。
忘れていた日々の中で、何度も自分を助け、叱り、守ってくれた大切な人だった。
[newpage]
「……猫姉さん」
掠れた声が、まなの口からこぼれた。
猫娘の足が止まる。
「まな……?」
「猫姉さん……!」
今度は、はっきりと呼んだ。
まなは#朔夜の腕を離れ、ふらつきながら猫娘へ駆け寄った。
「思い出した……。私、思い出したよ……!」
勢いよく抱きつかれ、猫娘は一歩よろめく。
「鬼太郎のことも……目玉おやじさんのことも、ねずみ男のことも……アニエスも、アデルさんも……」
まなの声が涙で震える。
「猫姉さんのことも……全部……!」
「まな……!」
猫娘も、今度は迷わなかった。
まなの背中へ両腕を回し、力強く抱き締め返す。
「やっと……やっと思い出したのね……!」
猫娘の声も、僅かに震えていた。
あの戦いが終わった後、消えてしまった記憶。
いくら声を掛けても、どれだけ近くへ行っても戻らなかった時間。
それでもまなは、記憶を失ったまま再び「猫姉さん」という呼び名を選んだ。
そして今、その名前に込められていた思い出まで取り戻したのだ。
ナツメたちは、二人の再会を静かに見守っていた。
#朔夜も胸を撫で下ろす。
まなの様子がおかしくなった理由は、やはり失われた記憶が戻ったからだったらしい。
「感動の再会は後にして!」
アニエスの鋭い声が飛んだ。
「まだ終わっていないわよ!」
周囲には、今も吸血鬼たちが残っている。
猫娘はまなを背後へ庇い、鋭い爪を伸ばした。
「こいつら……一体どこから湧いてきたのよ」
「カミーラよ」
アニエスが答える。
「街に妙な魔力が集まっていると思って追ってきたの。ハロウィンの仮装に紛れて、本物の吸血鬼を潜り込ませていたのよ」
「カミーラ……?」
まながその名前に反応する。
猫娘の表情が険しくなった。
その直後、吹き抜けの上階から、ゆったりとした拍手の音が聞こえてきた。
「さすがね。もう私に気付いていたの」
全員が顔を上げる。
二階の手すりに、一人の女が腰を預けていた。
黒を基調とした衣装。
夜の闇よりも深い長い髪。
青白い肌と、妖しく輝く赤い瞳。
周囲にいる吸血鬼たちとは、纏う空気そのものが違っていた。
「カミーラ!」
アニエスが杖を向ける。
猫娘は姿を確認した瞬間、怒鳴り声を上げた。
「やっぱりあんたの仕業ね、このクソババア!」
「相変わらず口の悪い猫ですこと」
カミーラは眉一つ動かさず、余裕の笑みを浮かべる。
「こんなところで何を企んでいるの!」
「企むだなんて、人聞きの悪いことを言わないでほしいわね。少し祭りを楽しみながら、様子を見に来ただけよ」
「様子?」
猫娘が聞き返す。
カミーラの赤い瞳が、ゆっくりと一行の中を移動した。
[newpage]
まな。
猫娘。
アニエス。
そして、#朔夜のところで止まる。
「少し前に、面白い話を耳にしたものだから」
#朔夜は思わず周囲を見た。
明らかに、カミーラはこちらを見ている。
「僕……ですか?」
「なるほど。あなたが例の――」
「#朔夜に何の用よ!」
猫娘が、朔夜を隠すように一歩前へ出た。
ナツメもしずかも、さりげなく#朔夜の近くへ寄る。
カミーラはその反応を見て、楽しそうに目を細めた。
「随分と大切にされているのね」
「質問に答えなさい!」
アニエスが杖へ魔力を集める。
「誰から何を聞いたのよ!」
「それを素直に教えるほど、私は親切ではないわ」
カミーラは手すりからゆっくり身体を起こした。
「でも、わざわざ足を運んだ甲斐はあったようね。話に聞いていた以上に、興味深い子だわ」
#朔夜には、何の話をしているのか分からない。
だが、自分の知らないところで何者かが自分について話し、それをカミーラが盗み聞きしたらしいことだけは理解できた。
「この子に手を出すつもりなら、容赦しないわよ!」
「あなた一人で、私を止められるつもり?」
カミーラが微笑む。
アニエスの表情が強張った、その時だった。
「アニエス!」
別の声が響く。
銀色の髪をなびかせながら、一人の女性が吹き抜けの上空から降りてきた。
手にした杖を一振りすると、淡い光の壁が朔夜たちを包み、周囲の吸血鬼を弾き飛ばす。
「一人で先走るなと言っただろう!」
「アデル!」
「カミーラの魔力を感じたからといって、何の準備もなく突っ込むなんて無茶だ!」
「でも、まなたちが襲われていたのよ!」
言い返すアニエスを横目に、アデルはカミーラへ鋭い視線を向けた。
「これ以上、好きにはさせないわ」
アニエスが正面。
アデルが退路を塞ぐ位置。
猫娘も爪を構え、カミーラを睨みつけている。
カミーラの笑みが、ほんの僅かに薄くなった。
「姉妹揃ってのお出迎えとは、随分と歓迎されたものね」
「逃がさないわよ!」
アニエスが杖を振り上げる。
その瞬間、周囲にいた吸血鬼たちが一斉に動いた。
狙いは#朔夜たちではない。
騒ぎを見物していた一般客の集団だった。
「危ない!」
ナツメが叫ぶ。
アニエスとアデルの視線が、僅かに吸血鬼たちへ向く。
猫娘も、近くにいた子どもを庇うため飛び出した。
ほんの一瞬。
カミーラはその隙を見逃さなかった。
「それでは、ごきげんよう」
黒い衣装に包まれた身体が、無数の蝙蝠へ変わる。
「待ちなさい、カミーラ!」
アニエスが魔法を放つ。
赤い光は蝙蝠の群れを掠めたが、群れは幾つにも分かれ、ショッピングモールの天井近くへ散っていった。
周囲の吸血鬼たちも、次々と黒い蝙蝠へ姿を変える。
魔女姉妹が一般客を守っている間に、蝙蝠たちは夜の街へ逃げていった。
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「逃げ足だけは速いクソババアね……!」
猫娘が悔しそうに吐き捨てる。
アニエスも杖を握ったまま、暗い天井を睨んでいた。
「偵察に来たと言っていたわね」
「ああ。恐らく最初から、ここで大きな戦いを起こすつもりはなかったようだ」
アデルが静かに答える。
「目的を果たしたから退いた。そう考えた方がよさそうね」
#朔夜は、カミーラが最後まで自分へ向けていた視線を思い出す。
面白い話。
例の子。
その言葉が、胸の奥へ小さな不安を残した。
「#朔夜」
ナツメに呼ばれ、#朔夜は顔を上げる。
「大丈夫?」
「うん。僕は何ともないよ」
そう答えてから、まなの方を見る。
猫娘は改めて、まなの両肩を掴んでいた。
「本当に……全部、思い出したの?」
まなは涙を拭い、しっかりと頷く。
「うん。全部思い出したよ、猫姉さん」
「……そう」
猫娘はそれだけ答えると、もう一度まなを強く抱き締めた。
今度のまなも、迷わずその背中へ腕を回す。
ハロウィンの音楽と、何も知らない人々の笑い声が響く中。
長い間失われていた二人の時間は、ようやく再び繋がったのだった。
やっと、まなの記憶が回復したぁ!