「……フー子?」
のび太が、掠れた声でその名を呼んだ。
#朔夜の腕の中にいた小さな生き物は、ぴたりと動きを止めた。
黒い瞳が、のび太の顔をじっと見つめる。
確かめているようだった。
目の前にいる少年が、本当に自分の知っている相手なのか。長い時間を越えて、もう一度会いたいと願っていた相手なのか。
「フー……?」
小さな声が漏れた。
のび太は震える手を伸ばす。
「僕だよ、フー子。のび太だよ」
その瞬間だった。
「フーッ!」
フー子は#朔夜の腕から飛び出し、真っ直ぐにのび太の胸へ飛び込んだ。
「うわっ!」
同時に、部屋の中を突風が駆け抜ける。
机の上に積まれていた漫画が宙を舞い、ノートや答案用紙が天井まで巻き上げられた。カーテンが大きく膨らみ、ドラえもんは床の上を転がって壁へぶつかる。
「いったぁ! フー子、落ち着いて!」
「フー! フーッ!」
フー子は聞いていなかった。
のび太の胸元へ何度も身体を擦りつけ、頬へ飛びつき、嬉しそうに部屋中を飛び回っては、またのび太の腕へ戻ってくる。
階下から、玉子の声が響いた。
「のび太! 今度は何をしたの!」
「僕じゃないよぉ!」
そう叫びながらも、のび太の顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。
腕の中のフー子を壊れ物のように抱きしめ、何度も名前を呼ぶ。
「フー子……本当にフー子なんだね。もう一度、会えたんだね……!」
「フー……」
ドラえもんも、床に座り込んだまま目元を拭った。
「信じられないよ……。あの時、確かに……」
言葉の続きは出なかった。
#朔夜とまなは、部屋の入口近くでその光景を見守っていた。
二人には何が起きているのか分からない。それでも、のび太とドラえもんにとってフー子がどれほど大切な存在なのかは、説明されなくても伝わってきた。
やがて、少しだけ落ち着いたフー子が、のび太の頭の上へちょこんと乗った。
#朔夜はドラえもんへ視線を向ける。
「ドラえもん、この子を知ってるの?」
「知ってるなんてもんじゃないよ」
ドラえもんは立ち上がり、舞い落ちてきた答案用紙を頭から剥がした。
「フー子は、のび太君の大切な友達なんだ」
「ひみつ道具じゃなかったんだ」
「違うよ!」
即座に否定され、#朔夜は僅かに首を傾げる。
「だって、風を操るし、飛ぶし、喋るから」
「動いたり喋ったりするものが、全部ぼくの道具だと思わないでよ!」
まなは二人のやり取りを聞きながら、そっとドラえもんを見る。
「未来には、喋る道具もあるんだ……」
「まなさんまで、そこに驚かないで!」
ドラえもんは気を取り直し、フー子について簡単に説明した。
フー子は、台風の子どもであること。
かつて、のび太が卵から育てたこと。
そして、巨大な風の怪物――マフーガから皆を守るために戦い、別れることになった友達であること。
全てを話したわけではなかった。
それでも、命懸けでのび太たちを救った存在だと知るには十分だった。
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「それじゃあ、もう会えないと思ってた子が、急に帰ってきたんだね」
まなが言うと、のび太は何度も頷いた。
「うん。僕、ずっとフー子のことを忘れてなかった」
その言葉に応えるように、フー子が嬉しそうに鳴いた。
ところが、しばらくすると、フー子はのび太の頭から飛び立った。
部屋を一周し、#朔夜の肩へ降りる。
「フー」
「僕のところに戻ってきた」
#朔夜が手を差し出すと、フー子はその指先へ頬を寄せた。
のび太は少しだけ驚いた顔をする。
「フー子、#朔夜のことも好きなの?」
「フー!」
力強い返事だった。
「僕は、飛んできたところを受け止めただけだよ」
「でも、きっと安心したんだよ」
のび太は寂しがるどころか、嬉しそうに笑った。
「#朔夜が助けてくれたんだね。ありがとう」
「うん。でも、本当に何もしてないから」
まなは#朔夜の肩で寛ぐフー子を見て、感心したように笑う。
「やっぱり#朔夜ちゃん、動物に好かれるね」
「この子を動物に入れていいんですか?」
「台風の子だから……自然?」
「もっと広くなりましたね」
フー子は、のび太と#朔夜の間を何度か往復した。
以前から大切だった相手と、逃げ出した直後に自分を受け止めてくれた相手。その両方が近くにいることが嬉しくて仕方がないらしい。
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「念のため、身体を調べてみよう」
ドラえもんがポケットへ手を入れ、小型の検査機を取り出した。
スイッチを入れると、機械が低い作動音を響かせる。
その瞬間、フー子の身体が強張った。
「フッ……!」
周囲の空気が乱れ、机の上の鉛筆が転がる。
フー子は逃げるように#朔夜のフードへ潜り込んだ。
「待って。怖がってる」
#朔夜が検査機とフー子の間へ手を入れる。
ドラえもんはすぐに電源を切った。
「機械の音を怖がってる……?」
「フー子、大丈夫だよ。ここには怖い人はいないよ」
のび太が呼びかけると、フードの隙間からフー子が顔を覗かせた。
#朔夜がそっと身体を撫でていると、フー子の表面に何かが付着していることに気づいた。
「ドラえもん、これ」
小さな金属片だった。
薄く湾曲し、端には焼け焦げた跡がある。自然の中で付いたものには見えない。
ドラえもんは手袋をはめ、慎重に破片を受け取った。
「何かの機械の一部みたいだ。フー子は、どこかの施設に捕まっていたのかもしれない」
「誰がそんなことをしたんだよ!」
のび太が声を上げる。
フー子は答えられない。
ただ、恐ろしい記憶を振り払うように首を横へ振り、再び#朔夜の肩へ身体を寄せた。
「今は無理に聞かない方がいい」
#朔夜の言葉に、のび太は唇を噛みながら頷いた。
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その時、まなのスマートフォンから通知音が鳴った。
「あっ。さっきの琵琶湖の投稿、続きが上がってる」
「琵琶湖?」
のび太とドラえもんが画面を覗き込む。
表示されていたのは、夕暮れの湖を撮影した映像だった。
水面を進む大きな影。
最初の動画よりも輪郭がはっきりしており、細長い首が一瞬だけ湖面から現れる。
撮影者の驚く声が入り、謎の生物は人の気配を恐れるように水中へ潜った。
その直前。
甲高い鳴き声が、映像の奥から聞こえた。
のび太の表情が変わる。
「もう一回!」
「え?」
「今の声、もう一回再生して!」
まなが慌てて映像を戻す。
暗い湖面。
揺れる映像。
そして、短い鳴き声。
「……ピー助だ」
のび太が呟いた。
ドラえもんが目を見開く。
「ピー助って、まさか……」
「間違いないよ!」
のび太はスマートフォンを両手で掴みそうな勢いで画面へ顔を近づけた。
「僕がピー助の声を間違えるはずない! この子はピー助だよ!」
「この長い首の子も、のび太の友達なの?」
#朔夜が尋ねる。
「うん。僕の大切な友達だよ」
その時、フー子も動画へ反応した。
スマートフォンの周囲を飛び回り、不安そうな声を上げる。そして窓の外へ向かおうとするように、何度も身体を傾けた。
「フー子、この子を知ってるの?」
「フー! フーッ!」
はっきりとは分からない。
しかし、フー子が何かを伝えようとしているのは確かだった。
ドラえもんは窓の外を見る。
既に日は落ちかけている。
「動画が撮影されたのは夕方だ。今から普通に向かったら遅いけど、どこでもドアなら行ける」
「行こう、ドラえもん!」
「もちろん行くよ。ただし、何がいるか分からない。フー子を捕まえていた相手が、ピー助も探しているかもしれない」
「僕も行く」
#朔夜が即答する。
「やっぱりそう言うと思ったよ……」
「フー子が離れないし。それに、この子たちを捕まえた相手がいるなら放っておけない」
ドラえもんは反論できず、今度はまなの方を向いた。
「まなさんは帰った方がいいよ。これから夜の湖へ行くんだから」
「私も行くよ」
「危険かもしれないんだよ?」
「だから行くの」
「どうしてそうなるの!」
まなは既にスマートフォンを操作していた。
「猫姉さんにも連絡しておくね。琵琶湖へ行くって」
「連絡したから大丈夫という話じゃないよ!」
「妖怪や吸血鬼に巻き込まれたことなら何度もあるから」
「それは自慢するところじゃない!」
ドラえもんの制止にも、まなは一歩も引かなかった。
「#朔夜ちゃんだけ行かせて、私だけ帰れないよ」
「僕はフー子が離れないから行くんですけど……」
「じゃあ、私も朔夜ちゃんから離れない」
「えぇ……」
#朔夜は困った顔でドラえもんを見る。
しかし、まなを説得できそうな者は誰もいなかった。
最後にはドラえもんが根負けする。
「分かったよ! ただし、絶対に勝手な行動をしないこと!」
「分かった!」
「まな先輩、たぶん分かってないですよね」
「分かってるよ!」
返事だけは良かった。
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ドラえもんは投稿された映像の背景と位置情報を調べ、撮影地点から少し離れた場所を選んだ。
どこでもドアを開く。
扉の向こうから流れ込んできたのは、冷たい夜風だった。
広い湖面が暗闇の中へ続き、遠くには噂を聞きつけた人々のライトがいくつか揺れている。
五人は人目を避け、静かな岸辺へ移動した。
フー子が空へ舞い上がり、湖の上へ小さな風を送り出す。
のび太は暗い水面を見つめた。
「のび太君。まだ本当にピー助だと決まったわけじゃ――」
「ピー助だよ」
のび太は迷わなかった。
一歩、湖へ近づく。
両手を口元へ添え、暗闇の向こうへ向かって叫んだ。
「ピー助ーっ!」
声が夜の湖へ広がる。
「僕だよ! のび太だよ!」
返事はなかった。
寄せては返す波の音だけが聞こえる。
まなが不安そうに湖面を見つめる。
#朔夜は湖だけでなく、周囲の茂みや暗い森にも意識を向けていた。
のび太が、もう一度大きく息を吸う。
その時。
遠く、夜の湖から――。
「ピューイ……!」
か細い声が返ってきた。
のび太の目が、大きく見開かれた。