「ピューイ……!」
暗い湖の上から届いた声に、のび太は息を止めた。
一度聞いただけで分かった。
長い時間が過ぎても、どれほど遠く離れていても、聞き間違えるはずがない。
「ピー助……!」
のび太は岸辺へ駆け出した。
「ピー助ーっ! こっちだよ!」
「のび太君、待って!」
ドラえもんの声も、今ののび太には届いていなかった。
靴の先が水へ踏み込もうとしたところで、#朔夜が背後から服をつかむ。
「待って! 夜の湖に入ったら危ない!」
「でも、ピー助がいるんだよ!」
「だからって泳いで迎えに行かなくていいでしょ!」
#朔夜が必死に引き戻している間にも、静かだった湖面へ波紋が広がっていく。
暗闇の中を、大きな影がこちらへ近づいていた。
水を掻き分ける音。
月明かりを反射した湖面から、細長い首がゆっくりと現れる。
「ピューイ……?」
その生き物は、岸辺に立つのび太を見つめた。
のび太も動かなかった。
ピー助も動かない。
お互いが本物なのか、もう一度確かめ合っているようだった。
「僕だよ」
のび太が震える声で言った。
「のび太だよ、ピー助」
「ピュ……」
ピー助の目が大きく見開かれる。
「ピューイッ!」
喜びに満ちた声が、夜の琵琶湖へ響き渡った。
ピー助は大きな水しぶきを上げ、一気に岸へ向かって泳ぎ始めた
[newpage]。
「ピー助!」
のび太も再び水へ入ろうとする。
「だから待ってって!」
#朔夜が服を引っ張り、今度はドラえもんも加わって二人がかりでのび太を岸へ留めた。
「離してよ! ピー助が来てるんだよ!」
「ピー助の方から来てるでしょ!」
「ここは夜の湖だよ! 再会する前に君が溺れたらどうするの!」
まなも慌てて、のび太の前へ回り込む。
「のび太君、急に飛び込んだらピー助君も驚いちゃうよ!」
その一言で、ようやくのび太が動きを止めた。
岸近くまで泳いできたピー助は、浅瀬へ身体を寄せると、長い首をのび太へ向かって伸ばした。
のび太も両腕を伸ばす。
ピー助の鼻先が、そっと頬へ触れた。
「ピー助……!」
「ピューイ……」
のび太はピー助の顔へ抱きついた。
「会いたかったよ……。ずっと、ずっと会いたかった……!」
ピー助は優しく鳴き、のび太の頬へ何度も顔を擦り寄せた。
ドラえもんも目元を拭う。
「本当にピー助だ……。どうしてこの時代にいるのか、全然分からないけど……」
「今はいいよ」
のび太はピー助から離れようとしなかった。
「ピー助が無事だった。それだけでいいよ」
#朔夜とまなは、少し離れた場所から二人の再会を見守っていた。
「のび太君、本当に嬉しそう……」
「うん」
#朔夜も小さく頷いた。
フー子は二人の頭上を嬉しそうに飛び回り、ピー助へ向けて何度も声をかけている。
「フー! フーッ!」
「ピューイ!」
ピー助もフー子のことを覚えているらしい。
長い首を持ち上げ、楽しそうに声を返した。
フー子が生み出した風が湖面を駆け抜け、月明かりを細かく揺らした。
その光景を、遠くから見つめる目があった。
[newpage]
湖岸から離れた一本の木。
枝の上に、一羽のカラスが止まっている。
夜の闇へ溶け込むような黒い羽。
だが、その片方の目だけが、不自然な赤色に光っていた。
カラスの視界を通じ、赤髪の女性は湖岸の様子を観察していた。
「……先を越されたわね」
彼女は、遠く離れた研究施設で小さく呟いた。
水生個体が一般人に撮影されたと知ってから、すぐに回収班を動かすことも考えた。
だが、既に湖の周囲には見物人や撮影者が集まり始めていた。
不用意に接触すれば、古代生物だけでなく、回収に使用する技術まで人間社会へ晒すことになる。
だから噂が薄れ、人が減るのを待つ。
それまでは監視に徹する。
判断としては間違っていないはずだった。
普通の移動手段を使う相手ならば。
ところが、突然現れた扉から、青い猫のような機械と数人の子どもたちが出てきた。
その中には、赤髪の女性が既に知っている顔もあった。
「あの少年までいるじゃない……」
青い髪。
静かな緑の目。
蜘蛛の妖怪との戦いで雷鳴剣を呼び、監視対象となった少年――鬼谷朔夜。
しかも、研究施設から脱走した風の個体が、当然のようにその肩へ戻っていく。
「どうして、あれがあの子に懐いているのよ」
彼女には答えが分からなかった。
そして、湖岸を見守っているのはカラスだけではなかった。
[newpage]
少し離れた別の木。
葉の影に紛れるように、一羽の梟が身を潜めている。
梟は、のび太の家で奇妙な扉が開かれた時から、まなと朔夜を追っていた。
扉が閉じる直前、音もなくその隙間を抜けたのだ。
空間を一瞬で越える不可思議な術。
そして、見知らぬ湖で待っていた巨大な異形。
梟は瞬きもせず、一部始終を観察していた。
風を操る小さな存在は、青髪の少年のそばを離れようとしない。
だが、眼鏡の少年が湖の生き物を呼ぶと、その生き物は喜びながら姿を現した。
異形の獣に慕われる者。
人ならざる者を恐れず受け入れる者。
その性質は、朱夏の生まれ変わりを探す梟にとって、無視できるものではなかった。
[newpage]
――ガサッ。
湖岸の茂みから、小さな音が聞こえた。
#朔夜が即座に振り返る。
「……何かいる」
「え?」
まなも茂みを見るが、暗闇の奥までは見通せない。
ドラえもんが四次元ポケットへ手を入れ、明かりを取り出そうとする。
しかし、#朔夜が片手で制した。
「急に照らさない方がいい。たぶん、こっちを警戒してる」
#朔夜はゆっくりと茂みへ近づいた。
追いかけるような動きはしない。
少し手前でしゃがみ、両手を相手から見える位置へ置く。
「大丈夫だよ」
声を低くし、穏やかに呼びかける。
「捕まえに来たんじゃない」
茂みの奥に、二つの小さな影があった。
一方が前に立ち、もう一方を庇うように翼を広げている。
「ピー助と一緒にいたの?」
「キュ……」
僅かな鳴き声。
のび太が顔を上げる。
「今の声……」
ピー助の首から手を離し、ゆっくりと#朔夜の隣へ近づく。
「キュー?」
茂みの影が動いた。
「ミューもいるの?」
名前を呼ばれた瞬間、二匹の身体が大きく反応した。
羽毛に覆われた小さな頭が、恐る恐る茂みの外へ現れる。
「キュー……!」
のび太の声が震えた。
一匹目が茂みから飛び出す。
それを追うように、もう一匹も姿を現した。
「ミュー!」
二匹は翼を広げながら、のび太のもとへ駆けてくる。
先に飛びついたのはミューだった。
「ミュ、ミュー!」
「ミュー! 無事だったんだね!」
ミューはのび太の胸へ頭を押しつけ、そこにいるのが本当にのび太なのか確かめるように何度も声を上げた。
少し遅れて近づいたキューも、のび太の腕へ顔を寄せる。
「キューも……! 二人とも無事だったんだ……!」
「キュウ……」
二匹は疲れ切っていた。
羽毛には泥や枯れ葉が絡み、身体には細かな擦り傷が残っている。
それでも、のび太を見上げる目には、はっきりと安堵が浮かんでいた。
ピー助が嬉しそうに鳴いた。
キューとミューも振り返り、無事を確かめ合うように声を返す。
三匹は、別々に逃げたのではなかった。
一緒に研究施設を抜け出し、壊れた装置によって見知らぬ場所へ飛ばされた。
ピー助は大きな身体を隠せる湖へ入り、キューとミューは岸の茂みへ身を潜めていた。
突然現れた人間たちを警戒していた二匹も、ピー助が喜ぶ姿を見て、ようやく出てくる決心をしたのだ。
「フー!」
フー子も、キューとミューの周囲を飛び回る。
四匹に囲まれたのび太は、涙を流しながら笑っていた。
その様子を見て、#朔夜は少し呆然とする。
「のび太、本当に動物の友達が多いね」
「僕だって、全員が一緒に現れるなんて思ってなかったよ!」
まなはフー子、ピー助、キュー、ミューを順番に見る。
「台風の子と、首の長い子と、羽毛のある恐竜が二匹……」
最後にドラえもんへ目を向けた。
「全員、違う時代の友達なんだよね?」
「そうなんだけど……」
ドラえもんも困惑を隠せない。
「どうしてみんな同時に現代へ来たのか、ぼくにも全然分からないよ」
[newpage]
木の上から観察を続ける梟は、#朔夜を見つめていた。
隠れていた二匹の存在に、誰よりも早く気づいた。
相手を脅かすことなく、敵意がないと伝えた。
風の存在に懐かれ、異形の生物を怯えさせない少年。
朱夏の生まれ変わりが異なる姿で現れる可能性を、梟は否定していなかった。
そして、犬山まなもまた、目の前の異形を恐れず受け入れている。
危険を承知で夜の湖まで同行し、妖怪へ連絡を取ることにも躊躇がない。
二人とも、人ならざる世界との縁が深い。
観察すればするほど、候補から外す理由がなくなっていく。
梟が僅かに首を動かした。
湖の反対側にある木。
そこに止まるカラスの片目が、赤く光っている。
ただの鳥ではない。
誰かが、あの目を通じてこの場を見ている。
「……」
梟は声を出さず、赤い目のカラスを見据えた。
[newpage]
同じ頃、赤髪の女性も異変に気づいていた。
「今……あの梟、こちらを見た?」
偶然とは思えない。
闇の中にいるカラスの位置を正確に捉え、明らかに視線を向けている。
兔谷朔夜と天野まなを観察しているのは、自分たちだけではない。
だが、梟が何者なのかまでは分からなかった。
[newpage]
その時、遠くの湖岸から人々の声が聞こえてきた。
「今、鳴き声がしなかったか?」
「こっちの方だ!」
「動画を回せ!」
噂を聞きつけた見物人たちが近づいている。
ピー助が不安そうに首を動かす。
キューとミューも身を低くし、のび太のそばへ寄った。
「まずい」
ドラえもんは四次元ポケットへ手を入れる。
「このままじゃ、また撮影されちゃう。三匹を安全な場所へ隠さないと」
「でも、ピー助をのび太の家には連れていけないよね」
#朔夜がピー助を見上げた。
「ママに怒られるとかいう大きさじゃないよ」
「それくらい分かってるよ!」
ドラえもんはポケットの中を探り、小さな箱を取り出した。
地面へ置き、蓋を開く。
「こういう時は――飼育用のジオラマ!」
箱の内部には、精巧な森と湖が作られていた。
外から見れば、小さな模型にしか見えない。
しかし内部には、本物と変わらない広さを持つ自然環境が存在している。気温や湿度を調節し、暮らす生き物に合わせて地形を変えることもできた。
キューとミューは箱を見ると、すぐに反応した。
「キュ!」
「ミュー!」
「覚えてるんだね」
のび太が笑う。
二匹を育てていた頃にも使った道具だったそう。
ミューが先に入口へ近づき、中を覗き込む。
キューもその後ろから様子を確認し、二匹は迷うことなくジオラマの中へ入った。
次の瞬間には、内部の森へ降り立っている。
「ピー助も入れるの?」
「湖を広くすれば大丈夫だよ」
ドラえもんが側面のダイヤルを回す。
ジオラマ内部の湖が広がり、ピー助が十分に泳げるほどの大きさへ変わっていった。
のび太はピー助の顔を撫でる。
「怖くないよ。僕もすぐに会いに行くから」
「ピューイ……」
ピー助は名残惜しそうにのび太を見つめた。
だが、ジオラマの中で待つキューとミューの声を聞くと、ゆっくり入口へ身体を近づける。
光に包まれ、ピー助の姿が箱の中へ吸い込まれた。
内部の湖へ、大きな水しぶきが上がる。
岸辺にいたキューとミューが、嬉しそうに声を上げた。
「これで、ひとまず三匹は安全だ」
ドラえもんが蓋を閉じる。
[newpage]
赤い目のカラスを通して見ていた彼女は、思わず椅子から身を乗り出した。
「……三体全部、持っていかれた?」
信じがたい光景だった。
行方不明になっていた個体たちは、ほとんど抵抗することなく、青い機械が取り出した箱へ入っていった。
風の個体も、鬼谷朔夜のそばを離れようとしない。
偶然見つけたとは思えないほど、回収が手際よく進んでいる。
「まさか、こちらの動きを知って先回りしたの……?」
実際には、のび太が友達の声を聞き分け、助けに来ただけだった。
だが、その事情を知らない彼女には、全てが計画的な奪取に見えていた。
銀色のペンダントから、低い声が響く。
『追え』
「無理よ。もう移動するわ」
湖岸では、ドラえもんがどこでもドアを取り出していた。
扉を開く。
向こう側には、見覚えのない部屋が広がっている。
『転移先を確かめよ』
「このカラスでは扉を通れない。近づけば、あの少年に気づかれる可能性もある」
『風の核も、三体も、同じ者たちの手に渡ったのだぞ』
「見れば分かるわよ!」
彼女の声に、苛立ちが滲ませた。
[newpage]
フー子はジオラマの入口を一度覗いたが、中へは入らなかった。
のび太の肩へ乗り、次に朔夜の肩へ飛び移る。
最後には二人の間を漂いながら、楽しそうに鳴いた。
「外にいたいみたいだね」
まなが笑う。
「のび太君と#朔夜ちゃんの近くがいいんじゃない?」
「フー!」
肯定するような返事だった。
遠くから、見物人のライトが近づいてくる。
「早く戻ろう」
ドラえもんたちは、どこでもドアへ急いだ。
のび太は扉をくぐる直前、ジオラマの小さな窓を覗き込む。
湖から顔を出したピー助。
岸辺に並ぶキューとミュー。
三匹とも、のび太の方を見ていた。
「もう大丈夫だよ」
のび太は静かに言った。
「今度は、僕たちが守るから」
フー子が、のび太の肩で優しく鳴いた。
一行が扉の向こうへ消える。
ドラえもんが最後にドアを閉じると、扉そのものが夜の湖岸から消滅した。
[newpage]
彼女は、誰もいなくなった岸辺を睨む。
「……本当に、どこへ行ったのよ」
カラスが枝から飛び立った。
だが、追うべき痕跡はどこにも残されていない。
足跡と、湖から吹く風だけだった。
[newpage]
もう一羽の監視者――梟は、その場に残っていた。
奇妙な扉。
青い機械。
異形の獣に慕われる少年たち。
そして、兔谷朔夜と犬山まな。
梟は静かに翼を広げる。
二人のうち、どちらが朱夏の生まれ変わりなのか。
今の段階では、まだ判断できない。
むしろ観察を重ねるほど、二人とも候補から外せなくなっていた。
さらに、もう一人。
人間には見えない存在と会話を続ける少女――未空イナホ。
結論を急いではならない。
酒呑童子様のもとへ連れていくなら、失敗は許されない。
そして、先ほどの赤い目を持つカラス。
候補者たちを狙う別の勢力が存在している可能性もある。
「……機を見極めねばならぬ」
梟は小さく呟いた。
「三人とも、決して見失わぬように」
その身体が、夜の森へ溶ける。
感動的な再会が行われていた湖岸で、のび太たちは最後まで気づかなかった。
自分たちの姿を、二つの異なる監視者が見つめていたことを。
夜の琵琶湖に残されたのは、風に揺れる草木と、怪物を探し続ける人々。
そして、互いの正体すら知らない者たちが残した、疑念だけだった。