冷たい雨が降っていた。
空は鉛色の雲に覆われ、路地には泥水が流れている。
少年は崩れかけた石壁にもたれながら膝を抱えていた。
腹が減っていた。
昨日から何も食べていない。
いや、その前も大したものは口にしていない。
空腹はもはや日常だった。
寒さも同じだ。
薄汚れた服では雨風を防げず、体の芯まで冷え切っている。
それでも生きている。
生きるしかなかった。
「全部、王族のせいだ」
酒場から聞こえてくる声。
「税を上げやがって」
「食料を持っていきやがって」
「俺たちだけ苦しめばいいと思ってやがる」
何度も聞いた言葉だった。
毎日のように。
朝も昼も夜も。
少年はそれを信じた。
信じるしかなかった。
現実に苦しみがあったからだ。
隣に住んでいた老人は病で死んだ。
幼馴染は冬を越せなかった。
親類もまた、飢えによって命を落とした。
誰も助けてくれなかった。
だから憎んだ。
顔も知らない王を。
見たこともない王族を。
彼らが悪なのだと信じた。
[newpage]
ある日。
町が騒がしくなった。
「王が来るらしいぞ」
その噂は瞬く間に広がった。
地方視察。
民の様子を見るため。
そんな名目だった。
だが酒場の男たちは笑った。
「いい機会だ」
「やってしまえ」
「王さえ死ねば変わる」
変わる。
その言葉だけが少年の胸に残った。
変わるのなら。
苦しみが終わるのなら。
やるべきことは一つだった。
その夜。
少年は盗品市で粗末な短剣を手に入れた。
刃こぼれした安物。
だが十分だ。
近づいて刺す。
それだけでいい。
そう信じていた。
◇
そして当日。
広場には大勢の人が集まっていた。
兵士。
役人。
商人。
住民。
その中心に一人の男がいた。
王だった。
少年は息を呑んだ。
想像と違った。
もっと傲慢な男だと思っていた。
豪華な服を着て威張り散らすような。
だが実際は違った。
老人の話を聞き。
子供に微笑み。
農民の悩みに耳を傾けている。
偽善だ。
そう思った。
そう思い込もうとした。
だが心のどこかで違和感が生まれる。
それを振り払うように少年は走った。
短剣を握り締め。
一直線に。
「死ねぇぇぇぇぇ!!」
叫びながら飛び出した。
あと一歩。
届く。
[newpage]
その瞬間だった。
鋭い衝撃。
視界が回転する。
気付けば地面に叩きつけられていた。
短剣が転がる。
腕を兵士たちに押さえつけられる。
「確保しろ!」
「王を守れ!」
怒号が飛び交う。
終わった。
そう思った。
王族暗殺未遂。
死罪は確実だった。
だが――
「待ちなさい」
静かな声が響いた。
兵士たちが動きを止める。
王だった。
王はゆっくりと近付いてくる。
怒りはなかった。
憎しみもない。
あるのは悲しみだった。
「何故、私を殺そうとした」
問いかけ。
少年は叫んだ。
「全部お前のせいだ!!」
「みんな苦しんでる!!」
「家族だって死んだ!!」
「王族が食い物を奪ったからだ!!」
広場が静まり返る。
兵士たちは険しい表情を浮かべていた。
だが王は黙って聞いていた。
最後まで。
一言も遮らずに。
そして静かに頷いた。
「そうか」
それだけだった。
「……それだけかよ」
思わず声が漏れる。
言い返さないのか。
怒らないのか。
否定しないのか。
王は少しだけ目を伏せた。
「そう思わせてしまったことは、私の責任だ」
その言葉は少年の予想を裏切った。
言い訳ではなかった。
責任転嫁でもなかった。
ただ受け止めていた。
それが逆に理解できなかった。
「殺さないのか?」
少年は尋ねた。
王は答える。
「殺して何になる」
「憎しみは次の憎しみを生むだけだ」
意味が分からなかった。
こんな綺麗事を言うヤツがいるのか。
だが王は続けた。
「この者を牢へ」
やはりそうか。
少年は歯を食いしばる。
だが次の言葉で耳を疑った。
「治療を施せ」
「温かい食事も出せ」
「それと――」
王は少年を見た。
まっすぐに。
「騎士団で預かろう」
広場全体がざわついた。
兵士たちですら驚いている。
当然だった。
王を殺そうとした者だ。
普通なら処刑される。
それが騎士団?
正気ではない。
「何を考えてる!」
少年自身が叫んだ。
「俺はお前を殺そうとしたんだぞ!」
王は笑った。
穏やかに。
「だからだ」
「その力を、人を守るために使え」
その言葉は少年の胸に刺さった。
理解はできない。
だが忘れられなかった。
[newpage]
数年が過ぎた。
騎士団での日々は過酷だった。
剣術。
体術。
戦術。
礼儀作法。
毎日が訓練だった。
何度も逃げ出そうとした。
何度も反発した。
それでも追い出されなかった。
むしろ先輩騎士たちは本気で向き合ってきた。
「強くなりたいなら立て」
「剣を握れ」
「王に拾われた恩を忘れるな」
最初は反発した。
だが少しずつ変わっていく。
ある日。
王に同行する任務を命じられた。
地方の孤児院だった。
少年は驚いた。
そこは自分が育った地区だったからだ。
荒れた街。
貧しい人々。
変わらない現実。
そう思った。
だが違った。
王は大量の食料を持ち込んだ。
薬もあった。
孤児院の修繕費も。
住民たちは感謝していた。
少年は困惑した。
酒場で聞いていた話と違う。
王は奪う側ではなかった。
むしろ与えていた。
◇
後に彼は知る。
当時の政策の真実を。
流行病。
凶作。
限られた資源。
王は王国全体を生かすために苦渋の選択を続けていた。
誰かを見捨てたのではない。
誰も見捨てないために足掻いていた。
その結果として恨まれていたのだ。
理解した瞬間。
少年は自分を恥じた。
そして初めて。
王へ謝罪したいと思った。
[newpage]
騎士叙任の日。
彼は片膝をつく。
剣を捧げる。
王は静かにその姿を見つめていた。
少年は頭を下げる。
「私は愚かでした」
「真実を知ろうともしなかった」
「それでもあなたは私を見捨てなかった」
声が震える。
王は何も言わない。
ただ待っていた。
だから彼は誓った。
心から。
初めて。
「この命を王国に捧げます」
「あなたが守ろうとしたものを守ります」
王は微笑んだ。
そして剣に手を添えた。
「ならば――」
その言葉は生涯忘れられないものになる。
[chapter:「我が剣となるのだ」]
その瞬間。
少年は騎士になった。
後に親衛隊長サーベルと呼ばれる男の物語は、そこから始まったのである。