翌朝。
#朔夜は騒がしい声で目を覚ました。
時計を見ると、まだ朝の六時にもなっていない。
何事かと思いながら居間へ向かうと、そこには重苦しい空気が漂っていた。
「だから早く探しに行ってくださいよ!」
声を荒げているのはユウマの母親だった。
目には涙が浮かび、髪も乱れている。
一睡もしていないのだろう。
「落ち着け。警察にも連絡しとる」
「落ち着いてなんかいられません!」
祖父や近所の人々が必死になだめているが、半ば錯乱状態だった。
それも無理はない。
幼い息子が一夜にして消えたのだ。
しかも目撃証言は曖昧で、残されたのは巨大な黒い羽だけ。
普通の失踪事件ですらない。
#朔夜は何も言えず、その様子を見つめた。
胸の奥が重い。
自分が目を離さなければ。
そんな後悔ばかりが浮かんでくる。
やがて捜索隊が編成され始めた。
消防団。
警察。
近所の住民たち。
皆が慌ただしく準備を進めている。
当然、#朔夜も行こうとした。
だが――。
「お前は駄目だ」
祖父に即座に止められた。
「なんで!」
「山を甘く見るな」
低い声だった。
「桜島の山は危険じゃ。火山地帯でもある。子供が入る場所じゃない」
「でも!」
「駄目じゃ」
有無を言わせぬ口調。
結局、#朔夜は家に残されることになった。
納得などできるはずもない。
だが大人たちは次々と出発していく。
気付けば家には祖母しか残っていなかった。
――今だ。
#朔夜は静かに立ち上がった。
昨日見たもの。
季節外れの桜。
あれが関係している気がしてならない。
誰にも気付かれないよう玄関を抜けると、そのまま山道へ向かった。
[newpage]
朝の山は静かだった。
蝉の声だけが響いている。
昨日の夜と違い、視界は良好だ。
だからこそ違和感があった。
「確か……この辺だったはず……?」
何度も辺りを見回す。
だが。
桜がない。
一本もない。
昨夜、確かに見たはずだ。
月明かりに照らされた満開の桜を。
夢だったのだろうか。
そんなはずはない。
あまりにも鮮明だった。
#朔夜はさらに奥へ進む。
すると。
「……あれ?」
木々の隙間に何かが見えた。
近付く。
そこにあったのは古びた祠だった。
かなり小さい。
しかも壊れている。
屋根は崩れ、柱も傾いていた。
長年放置されていたのだろう。
昨日読んだ本の内容が脳裏をよぎる。
[chapter:――悪さをする天狗が封じられた祠。]
まさか。
胸騒ぎがした。
#朔夜はそっと手を伸ばす。
[newpage]
その時だった。
「関わるな」
突然、背後から声が響いた。
「っ!?」
飛び上がるほど驚いて振り返る。
そこに立っていたのは昨日資料館で見かけた青年だった。
黒と白のパーカー。
無造作な髪。
どこか眠そうな目。
そして。
昨日見た半透明の鬼の姿は今は見えない。
だが。
普通の人ではない。
そんな確信があった。
青年は祠を見つめていた。
その視線は鋭い。
資料館で見た時とは別人のようだった。
「……あなたは」
「帰れ」
即答だった。
「ここは子供が来る場所じゃない」
「でも!」
#朔夜は思わず叫んだ。
「ユウマがいるかもしれない!」
青年の眉が僅かに動く。
「従兄弟なんだ!」
「……」
「昨日、目の前で消えたんだよ!」
感情が溢れる。
悔しさ。
不安。
恐怖。
全部。
青年は少しだけ目を伏せた。
意外そうな顔だった。
だが次の瞬間には元に戻る。
「必ず助ける」
静かな声だった。
「だから家に帰れ」
「でも!」
「足手まといになる」
その言葉に#朔夜は息を呑む。
反論できなかった。
今の自分では何もできない。
それは事実だ。
青年は続ける。
「任せろ」
短い言葉だった。
だが不思議と嘘には聞こえなかった。
#朔夜はしばらく黙り込んだ。
やがて。
「……分かった」
小さく答える。
そして踵を返した。
山道を下る。
青年はそれを見送っていた。
やがて。
#朔夜の姿が見えなくなる。
青年は小さく息を吐いた。
「頼むから大人しく帰ってくれよ……」
そう呟く。
そして。
祠の脇へ歩み寄る。
何もない空間へ手を伸ばした。
その瞬間。
空間が揺らいだ。
まるで見えないカーテンをめくるように。
景色が波打つ。
青年はそのまま森の奥へ消えていった。
[newpage]
数分後。
木陰からひょこっと顔が覗く。
「やっぱり……」
#朔夜だった。
もちろん帰っていない。
引き返したふりをしただけである。
青年が見えなくなるまで隠れていただけだ。
そして。
見てしまった。
あの消え方を。
「絶対おかしい……」
普通の人間ではない。
それだけは分かる。
そして。
消えた場所も覚えた。
#朔夜は慎重に近付く。
そこには何もない。
木しかない。
だが。
違和感があった。
空気が揺らいでいる。
熱気のような。
水面のような。
奇妙な感覚。
恐る恐る手を伸ばす。
すると。
指先が何かに触れた。
「うわっ!?」
柔らかい。
だが確かに壁がある。
見えない壁だ。
「結界……?」
妖怪と関わるようになってから何度か聞いた言葉。
まさか本当にあるとは。
心臓が激しく鳴る。
怖い。
当然だ。
だが
ユウマがいるかもしれない。
そう思った瞬間。
迷いは消えた。
「……行くしかない」
小さく呟く。
そして。
一歩踏み出した。
空間が波打つ。
景色が歪む。
風が吹く。
世界が反転する。
次の瞬間。
#朔夜の姿は森の中から消えていた。
[chapter:――境界の向こう側へと。]