結界の向こう側へ足を踏み入れた瞬間、#朔夜は思わず息を呑んだ。
そこは別世界だった。
見渡す限りの桜。
山肌を埋め尽くすように咲き誇る淡い桃色の花々が、風に乗って舞い続けている。
昨日、月明かりの中で見た桜と同じだった。
いや、それ以上だ。
今は真夏。
本来ならば咲くはずのない季節だというのに、ここだけは春のまま時が止まっているようだった。
「なんだよ……ここ……」
思わず呟く。
背後を振り返る。
だが結界の入り口は既に見えなかった。
代わりに広がるのは桜の森だけ。
静かで、美しくて。
そしてどこか不気味だった。
その時だった。
山頂近くに何かが見えた。
「あれ……?」
目を凝らす。
屋敷だ。
立派な日本家屋。
古いが威厳のある造りをしている。
昨日も今朝も、こんな建物は見えなかった。
間違いなく結界の中にだけ存在している。
「ユウマ……」
胸がざわつく。
もし天狗が連れ去ったのなら。
もし捕まっているなら。
あそこしかない。
#朔夜は背負っていた弓を握り直した。
「待ってて」
小さく呟く。
そして山道を駆け出した。
[newpage]
途中。
突如として空気が震えた。
ドォォォン!!
耳をつんざく轟音。
「っ!?」
反射的に顔を上げる。
山頂付近から黒煙が上がっていた。
次の瞬間。
何かが吹き飛んだ。
巨大な木だった。
何十年も生きてきたであろう大木が真っ二つになり、空中を舞う。
「なに……!?」
その向こうに二つの影が見えた。
一人は昨日資料館で見かけた青年。
黒と白のパーカー。
無愛想な横顔。
だが今の彼は明らかに異様だった。
腕が異常なまでに膨れ上がっている。
筋肉が隆起し、血管が浮き出し、まるで別人のようだった。
そしてもう一方。
巨大な翼。
長い鼻。
赤黒い顔。
禍々しい妖気。
「天狗……!」
間違いなかった。
あれがユウマを攫った存在。
天狗は怒号を上げながら突進する。
青年もまた地面を蹴った。
次の瞬間。
二人が空中で激突した。
衝撃波が山全体を揺らす。
「うわっ!」
#朔夜は慌てて身を伏せた。
桜吹雪が嵐のように舞う。
凄まじい戦いだった。
だが――
「今は!」
助けに行く方が先だ。
#朔夜は視線を切り、再び走り出した。
屋敷へ辿り着くまでにそれほど時間はかからなかった。
警備らしいものも見当たらなかった。
玄関を抜ける。
廊下を走る。
襖を開ける。
空っぽ。
また開ける。
空っぽ。
さらに奥へ。
そして――
「あっ!」
見つけた。
座敷の一室。
布団の上で眠る小さな男の子。
ユウマだった。
[newpage]
「ユウマ!」
駆け寄る。
肩を揺する。
「起きろ!」
返事はない。
だが呼吸はしている。
怪我もない。
眠っているだけだ。
その事実に胸を撫で下ろす。
「よかった……」
本当に。
よかった。
その時。
[chapter:チリン――]
小さな音が聞こえた。
「?」
振り返る。
部屋の隅。
古びた木箱の上に神楽鈴が置かれていた。
巫女が舞う時に使う鈴だ。
なぜこんな場所に。
不思議に思いながら手に取る。
すると昨日読んだ本の内容が脳裏をよぎった。
神社。
祭祀。
信仰。
奉納。
そして――
天狗。
「そういえば……」
昔聞いたことがある。
地域によっては天狗を山の神として祀る場所もあると。
悪い妖怪として語られることもある。
だが一方で守護神として信仰される場合もある。
もし。
もし本当に神として扱われていた存在なら。
「話くらいは聞いてくれるんじゃ……」
ふとそんな考えが浮かんだ。
[newpage]
屋敷を出る。
少し離れた場所。
来る途中に見かけた広場へ向かう。
石畳が敷かれた小さな空間。
周囲を桜が囲んでいる。
まるで舞台だった。
上空ではまだ戦いが続いている。
轟音が響く。
だが#朔夜は神楽鈴を握り締めた。
静かに息を吐く。
昔から体が勝手に覚えていた。
理由は分からない。
誰に教わったのかも曖昧だ。
けれど舞を舞うことが出来た。
不思議なほど自然に。
鈴を鳴らす。
チリン。
小さな音が響く。
一歩。
また一歩。
ゆっくりと足を運ぶ。
風が吹いた。
桜が舞う。
鈴が鳴る。
チリン。
チリン。
#朔夜は静かに舞い続けた。
誰に見せるわけでもない。
ただ祈るように。
願うように。
争いが終わりますように。
ユウマが無事でありますように。
誰も傷付かなくて済みますように。
そんな想いを乗せながら。
ふと。
風が止んだ。
いや。
違う。
風そのものが#朔夜の周囲へ集まり始めていた。
「……?」
鈴の音が響く。
桜が舞う。
青白い月光が差し込む。
そして。
空で戦っていたはずの二つの気配が、同時にこちらを向いた。
青年も。
天狗も。
まるで何かに引き寄せられるように。
広場を見下ろしている。
桜吹雪の中心で。
神楽鈴を手に舞う#朔夜の姿を。
誰よりも美しく。
誰よりも儚く。
月光の下で舞うその姿は、まるで――
遠い昔に失われた何かを思い出させるようだった。
そして天狗の瞳が、大きく見開かれる。
[chapter:「__サクヤ、姫様?」]
何かを呟いた。
だが距離が遠すぎて聞こえない。
それでも。
確かに。
その顔から怒りが消えていた。
桜が舞う。
鈴が鳴る。
そして物語は、少しずつ真実へ近付いていくのだった。