神楽鈴が鳴る。
チリン――。
澄み切った音色が、結界の中へ静かに響いた。
#朔夜は何も考えていなかった。
ただ舞う。
ただ願う。
争いが終わってほしい。
ユウマが無事でいてほしい。
それだけだった。
だが――。
風が変わる。
山全体を包んでいた桜吹雪が、まるで生き物のように動き始めた。
舞い上がる。
渦を巻く。
天へ昇る。
それはまるで巨大な龍だった。
淡い桃色の龍が空を駆けているかのような光景。
空中で激突していた天狗と青年が同時に動きを止めた。
「何だ……?」
天狗が目を見開く。
その瞬間だった。
山中に咲く全ての桜が震えた。
ザァァァァァッ――!
枝が伸びる。
一本ではない。
二本でもない。
ありとあらゆる桜の枝が、まるで意志を持ったかのように天狗へ向かって伸び始めたのだ。
[newpage]
「なっ――!?」
天狗は慌てて飛び退く。
翼を広げる。
急上昇する。
だが。
桜の枝は止まらない。
山の斜面から。
谷底から。
屋敷の庭から。
数え切れない枝が天へ向かって伸びていく。
それは蔦にも似ていた。
鎖にも似ていた。
どこか神聖で。
どこか恐ろしい。
「馬鹿な!」
天狗が叫ぶ。
右へ。
左へ。
枝を避け続ける。
だが次第に逃げ場が無くなっていく。
一本が翼を掠めた。
次の一本が足首へ絡みつく。
「離せッ!!」
力任せに引き千切る。
だがその隙にさらに枝が伸びる。
肩へ。
腕へ。
胴へ。
ついに――
幾重にも重なった桜の枝が天狗の全身を絡め取った。
「ぐっ……!!」
空中で動きが止まる。
巨大な身体が拘束される。
まるで裁きを受ける罪人のように。
[chapter:桜の枷の中で。]
天狗は初めて恐怖の表情を浮かべた。
「この力は……まさか……」
その声は震えていた。
[newpage]
一方。
少し離れた場所で戦いを見ていた青年が目を見開いていた。
隣には角を生やした鬼の姿。
二人は同時に呟いた。
「神降ろしだと……?」
「ありえん……」
声は小さい。
だが驚愕は隠せなかった。
あの少年は何も知らないはずだ。
術者でもない。
巫女でもない。
神職ですらない。
なのに。
今起きている現象は間違いなく神降ろしだった。
しかも極めて自然な形で。
まるで。
本人すら気付かぬまま。
[newpage]
天狗を縛る桜の枷が淡く輝く。
その時だった。
空から一筋の光が差し込んだ。
青白い光。
月光にも似た柔らかな輝き。
雲ひとつ無い空から静かに降り注ぐ。
一本。
また一本。
やがて無数の光が天狗を包み込んだ。
「やめろ……」
天狗が呻く。
「やめろ……!」
光は答えない。
ただ降り注ぐ。
優しく。
静かに。
だが逃れようのない圧倒的な力で。
「やめろおおおおお!!」
天狗が絶叫した。
次の瞬間。
身体の奥から何かが噴き出した。
[chapter:黒い影だった。]
煙のようで。
液体のようで。
生き物のようでもある。
禍々しい何か。
見ているだけで嫌悪感を覚える存在。
黒い影は天狗の胸元から飛び出すと、悲鳴のような音を発しながら空へ逃げようとした。
その瞬間。
拘束していた桜の枝が一斉に光る。
青白い光もさらに強くなる。
まるでその影だけを追い出すように。
浄化するように。
「アァァァァァァァァッ!!」
黒い影が叫ぶ。
そして天狗の身体から完全に引き剥がされた。
影は空高く飛び去っていく。
西の空へ。
彼方へ。
まるで何かから逃げるように。
[newpage]
直後。
桜の枝が静かに解けた。
天狗の身体が地面へ落ちる。
ドサリ、と重い音。
動かない。
沈黙。
結界全体が静まり返る。
桜吹雪だけが舞っていた。
青年はしばらくその光景を見つめていた。
やがて深いため息を吐く。
「……助かった」
短い一言だった。
心からの言葉だった。
その直後。
背後から呆れた声が飛ぶ。
「まったく、お前という奴は」
半透明の体を持つ鬼ー青年の相棒だろう。
「だから一人で突っ走るなと言ったではないか」
「仕方ないだろ」
「仕方なくない」
「結果オーライだ」
「全然オーライではない」
いつものやり取りが始まる。
青年は苦笑した。
[newpage]
その頃。
#朔夜はと言えば。
「よいしょ……」
眠ったままのユウマを背負い直していた。
天狗も止まった。
ユウマも見つかった。
なら帰るだけである。
実にシンプルだった。
「帰るか」
山道を下り始める。
「待て!」
背後から青年の声が聞こえた。
だが#朔夜は気付かない。
いや。
聞こえていたが、
とりあえずユウマを家族の元へ返す方が先だった。
そのままスタスタと歩いていく。
「おい!」
「待てと言っている!」
青年が慌てて追いかけようとする。
彼の相棒が呆れたように言った。
「逃げられてるな」
「……そうみたいだな」
[newpage]
さらにその頃。
結界から遠く離れた山の中。
飛び去った黒い影が森を駆けていた。
逃げる。
逃げる。
何かを恐れるように。
だが。
その進路を一人の青年が塞いだ。
蒼い髪。
冷たく、蒼月のような瞳。
静かな威圧感。
カイラだった。
「ほう」
黒い影が怯える。
逃げようとする。
しかし。
カイラは無造作にその首根っこを掴んだ。
まるで小鳥でも捕まえるかのように。
「見つけたぞ」
黒い影が暴れる。
悲鳴を上げる。
だが無意味だった。
カイラは腰の剣を抜く。
そして。
一閃。
青白い軌跡が闇を裂いた。
黒い影は断末魔すら残せず消滅する。
風に溶けるように。
跡形もなく。
静寂。
カイラは剣を納めた。
そして消えゆく残滓を見つめながら小さく呟く。
「……空亡か」
その声だけが、誰にも聞かれることなく夜風へ溶けていった。