翌日。
#朔夜は、何事もなかったかのように自宅へ戻っていた。
昨日の夜の出来事は、記憶としては残っているのに、現実の重さだけが妙に薄い。まるで夢と現実の境目だけが、きれいに削り取られているようだった。
しかし朝は待ってくれない。
制服に着替え、いつも通り家を出る。
夏の空気は重く、蝉の声だけがやけに現実的だった。
──かるた部の活動場所は、今日も変わらず蒸し暑い部室だった。
かるたの練習は、まず基本の書き取りから始まる。
札の音を正確に覚えるため、上の句を繰り返し書き、体に染み込ませる作業だ。
「はい、じゃあ次」
顧問の声が響く。
#朔夜は筆を動かしながら、頭の中で札を反復する。
“ちはやぶる……”
だがその瞬間、意識が一瞬だけ途切れた。
「#兔谷(ウガイ)さん、この句の続きは?」
不意に名前を呼ばれる。
視線が集まる。
頭の中に浮かんだ断片だけで答えてしまった。
「えっと……それは、風が逆流したときの……」
沈黙。
数秒の間のあと、周囲から小さな笑いが起きる。
「#兔谷(ウガイ)にしては珍しいな」
顧問は呆れたようにため息をつきつつも、深くは叱らなかった。
ただ、#朔夜自身は妙に引っかかっていた。
(今の……何言ったんだ、自分)
[newpage]
午後。
部活中、またしても小さな異変が起きる。
顧問に当てられた瞬間、言葉が一瞬だけ遅れる。
頭では分かっているのに、口だけが別の方向へ動きかける。
「……えっと、月の満ち欠けは地球の……回転と、えっと……」
またも曖昧な回答。
教室がざわつく。
顧問は軽く首を振り、「集中しなさい」とだけ言った。
だがその言葉は、いつもより少し重く感じられた。
帰りの会。
クラスはいつもの雑談混じりの空気に戻っていた。
その中で、ふと誰かが言う。
「そういえばさ、昨日の夜、高知県で小さな地震あったらしいよ」
何気ない一言。
しかし#朔夜の指先が、ほんのわずかに止まる。
「へえ……」
誰かが軽く流す。
会話はそれ以上広がらない。
ただ、その単語だけが、なぜか耳の奥に残った。
――地震。
◇
夕方。
家に帰ると、母が台所から声をかける。
「次の休み、ホームセンター行くわよ。ちょっと庭の道具見たいの」
いつもの予定。
何も特別ではない言葉。
だが、その“普通さ”が、逆に現実を強く感じさせる。
「うん、分かった」
そう返しながらも、#朔夜はふと思う。
(ちゃんと、寝ないとな……)
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その夜。
祖母からの電話が入る。
「こっちもね、ちょっと揺れたよ。大したことないけどねえ」
笑い混じりの声。
だが#朔夜は受話器を持ちながら、少しだけ黙る。
電話を切ったあと、#朔夜は窓の外を見る。
夏の夜は静かで、何も起きていないように見える。
だからこそ、余計に気になる。
(気のせい、だよな)
自分にそう言い聞かせる。
そして、夜が更けていく。
──#朔夜は、短く呟いた。
「今日は、ちゃんと寝よう」
その言葉は、ほんの少しだけ祈りのようだった。
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ミステリートレインの展望デッキは、静かに宇宙へ向かって開かれている。
乗客のざわめきはなく、ただ機械の低い駆動音だけが響いていた。
「遅いじゃん」
声がする。
のび太たちが、すでにそこにいた。
まるで最初から待っていたかのように。
「今日、ちょっと変な顔してるけど」
軽い冗談のような言葉。
しかし#朔夜は笑えなかった。
展望デッキの窓の外で、星が一瞬だけ“揺れた”気がしたからだ。
アストンが何気なく続ける。
「この前の話、覚えてる?」
その一言で、#朔夜の胸の奥が、わずかに沈む。
誰も気づかないまま。
#朔夜だけが、その違和感の輪郭に触れかけていた。
そして展望デッキの奥で、誰かが静かにこちらを見ていた。
それが乗客なのか、それとも“別の何か”なのかは、まだ分からないまま。
夜は、何事もなく続いていくように見えた。