転生したら雪音クリスだったので、曇りポイントを撃ち抜きます 作:ブラックだあああぁぁぁぁぁ(小並感)
目が覚めた瞬間、まず思ったのは、天井が知らない、ということだった。
白い天井。柔らかな光。鼻の奥をくすぐる、どこか甘い木の匂い。寝具はやけに軽く、体に触れる布の感触も、昨日まで使っていたはずの安物の布団とはまるで違っていた。寝返りを打とうとして、腕が妙に短いことに気づく。
「……ん?」
出た声は、知らないほど高かった。
自分の喉から出たはずなのに、耳に届いたのは幼い女の子の声だった。寝起きで喉が詰まっているとか、風邪を引いているとか、そういう次元ではない。声帯そのものが違う。体を起こそうとすると、視界の高さまで低い。手を見れば、小さい。指も、爪も、全部が小さい。
夢だ。
そう決めつけるのは簡単だった。というより、それ以外の選択肢を選びたくなかった。夢なら仕方ない。変な夢を見ている。疲れていたのかもしれない。最近、昔見たアニメの動画を見返していた気もするし、その影響で妙な夢になったのだろう。そうだ、夢なら納得できる。
なのに、頬をつねったら普通に痛かった。
「いた……」
痛い。夢ではないらしい。いや、夢でも痛みを感じることはあるかもしれないが、そんな理屈で自分を騙せるほど、頭は都合よく働いてくれなかった。布団の上で固まっていると、部屋の扉の向こうから足音が近づいてくる。軽やかで、慣れた人の足音だった。
「クリス、起きているの?」
その声を聞いた瞬間、体が勝手に反応した。
胸の奥がきゅっと縮む。懐かしい、という感覚ではない。自分はこの声を知らない。知らないはずなのに、この体は知っている。安心して、甘えて、少しだけ眠そうに返事をしたくなるような声だった。
扉が開く。そこに立っていたのは、柔らかな髪をした女性だった。日本人離れした顔立ちで、けれど目元だけは驚くほど優しい。こちらを見て微笑む姿に、言葉が出なくなる。
「おはよう、クリス。今日は少し早いのね」
「……お、はよぉ」
ほとんど反射で返事をした。
女性は嬉しそうに目を細めると、ベッドのそばまで来て、額に手を当てた。その手は温かかった。心配そうに覗き込まれて、思わず固まる。
「熱はないみたい。怖い夢でも見た?」
「んー……たぶん」
「ふふ。じゃあ、朝ごはんにしましょう。雅律も待っているわ」
雅律。
その名前を聞いた瞬間、頭の中で何かが音を立てて崩れた。
雅律。雪音雅律。バイオリニスト。母はソネット・M・ユキネ。声楽家。二人とも音楽家で、支援活動のために訪れた土地で戦火に巻き込まれる。幼い娘だけが残され、孤独の中で傷つき、やがて聖遺物の装者となる。
雪音クリス。
その名前が、自分の中で形になった。
いやいやいや、と心の中で叫んだ。叫んだはずなのに、実際には口が半開きになっただけだった。よりによって、そこなのか。転生だとしても、もっとこう、穏やかな世界とか、何も起きない日常とか、せめて物語の外側とか、いくらでも候補はあったはずだ。
どうして、戦姫絶唱シンフォギアの雪音クリスなのか。
階段を下りる足取りは、完全に自分のものではなかった。小さな足が、慣れた家の中を迷わず進む。この家に住んでいる記憶が、体の奥に染み込んでいる。廊下に飾られた写真。ピアノのある部屋。壁に立てかけられた楽器。どれも知らないはずなのに、見れば「ああ、いつもの場所だ」と思ってしまう。
食卓には、男性が座っていた。
細い指。穏やかな目。けれど背筋はまっすぐで、そこにいるだけで音楽の匂いがするような人だった。こちらに気づくと、新聞を畳んで微笑む。
「おはよう、クリス」
「おはよぉ……パパ」
口が勝手にそう呼んだ。
雪音雅律は少し嬉しそうに笑った。ソネットは台所から皿を運んでくる。焼きたてのパンと、卵料理と、スープ。あまりにも普通の朝だった。普通で、温かくて、壊れる気配なんてどこにもない。だからこそ怖かった。
自分は知っている。
この温かさが、いつか失われることを。自分がこのまま何もしなければ、目の前の二人は帰ってこない人になる。残されるのは、まだ幼い雪音クリスだけだ。誰にも頼れず、誰にも甘えられず、傷だらけになって、それでも強がって、乱暴な言葉で自分の柔らかいところを隠す少女になる。
胃のあたりが冷たくなった。
「クリス? 食べないのかい?」
「……食べる」
小さな手でスプーンを握る。いつもなら簡単なはずの動作が、妙にぎこちない。中身は大人のつもりなのに、体は子どもだ。スープをすくうだけで少しこぼす。ソネットが布巾で拭いてくれて、その仕草にまた胸が痛くなる。
「今日は甘えん坊ね」
「ちがうし」
反射的に出た言葉は、思ったより子どもっぽかった。
雅律が小さく笑う。ソネットも微笑む。幸せな朝だ。あまりにも幸せで、今すぐ泣き出したくなった。だけど泣いたら理由を聞かれる。説明できるはずがない。あなたたちはこのままだと死ぬ。私はあなたたちの娘だけど、中身は別の世界から来た一般男性です。ついでにこの世界の未来を少しだけ知っています。そんなことを言ったところで、病院に連れていかれるだけだ。
いや、病院で済めばいい方かもしれない。
食事を終えて、自室に戻る。扉を閉めた瞬間、膝から力が抜けた。床に座り込んで、両手で顔を覆う。小さな手のひらでは、顔を隠しきれない。涙が出そうだった。怖い。とにかく怖い。ノイズ。聖遺物。フィーネ。二課。奏。翼。響。未来。頭の中に断片的な名前が浮かんでは消えていく。
細かいことまでは覚えていない。
全部を完璧に説明しろと言われたら無理だ。見たのはずいぶん前だし、あとから知った話も、ゲームの話も、断片的に混ざっている。けれど、大きな悲劇だけは覚えている。誰が死ぬのか。誰が傷つくのか。どこで取り返しがつかなくなるのか。
その中で、最初に撃ち抜かなければいけないものは決まっていた。
「パパと、ママ……」
声に出したら、胸が詰まった。
二人を死なせない。それが最初の目標だ。けれど、どうやって。今の自分は子どもだ。銃も撃てない。イチイバルも知らない。歌だって、まだただの歌でしかない。大人を説得するだけの言葉もない。未来を知っていると言えば、変な子ども扱いされる。具体的な危険を言えば、どうして知っているのかと聞かれる。
詰んでいる。
いきなり詰んでいる。
「……いや、待て。諦めるの早くない?」
自分で自分に言い聞かせる。そうだ。まだ始まったばかりだ。今の自分にできることは少ない。でも、少ないだけでゼロではない。子どもには子どもの戦い方がある。泣く。甘える。嫌がる。体調不良を訴える。怖い夢を見たと言う。行かないでと縋る。
大人だった頃なら卑怯だと思ったかもしれない。
けれど、今はそんなことを言っている場合ではなかった。命がかかっている。両親の命が。自分の未来が。あの孤独な少女を生み出すかどうかが、ここにかかっている。
立ち上がって、部屋の隅にある鏡の前に立った。
そこに映っていたのは、幼い少女だった。銀色に近い淡い髪。大きな瞳。まだ幼さの残る顔。将来の雪音クリスを知っているからこそ、その面影が分かる。けれど今の姿は、あの強気で乱暴な少女とはまるで違う。柔らかくて、頼りなくて、少し眠そうで、どう見ても世界の悲劇を撃ち抜く顔ではなかった。
「……これが、あたし」
言ってみる。思った以上にしっくり来ない。
自分は元男だ。なのに鏡の中には女の子がいる。混乱するなという方が無理だった。ただ、不思議と嫌悪感は薄い。むしろ体の奥にある雪音クリスとしての感覚が、これが自分だと自然に受け止めている。そこがまた怖い。自分がどこまで自分で、どこから雪音クリスなのか、線引きできない。
けれど、今はそれも後回しだ。
まずは生き残る。両親を生かす。未来を変える。
「うっせぇ!」
鏡に向かって叫んでみた。
全然迫力がなかった。
「うっせぇ……あたしに、任せろ……?」
語尾が迷子になった。鏡の中の幼女は、眉を吊り上げようとしているのに、どうにも眠そうな顔をしている。だめだ。これはだめだ。原作の雪音クリスはもっと刺々しくて、警戒心が強くて、簡単には近づけない雰囲気があった。今の自分は、どう頑張っても朝食後に二度寝しそうな子どもにしか見えない。
「撃ち抜いてやるよ……!」
小さな拳を握る。
やっぱり迫力がない。というか銃も持っていないのに撃ち抜くも何もない。思わず肩の力が抜けた。鏡の中の自分も、ぽやっとした顔でこちらを見る。これで本当に未来を変えられるのか。正直、不安しかない。
でも、笑えた。
ほんの少しだけ。
怖くて、泣きそうで、どうしようもない状況なのに、自分の迫力のなさが馬鹿馬鹿しくて、少しだけ息ができた。そうだ。最初から完璧な雪音クリスになれるわけがない。むしろ、ならなくていいのかもしれない。あの未来の彼女は、傷ついたからああなった。なら、その傷を避ける自分が同じ姿にならないのは当然だ。
それでも、必要なら演じる。
強気なクリスを。乱暴な言葉を。誰にも舐められない態度を。
でも、本当の自分まで壊す必要はない。
「んー……まあ、なんとかなる……かなぁ」
素の声がこぼれた瞬間、部屋の外からくすりと笑う声がした。
固まる。ゆっくり扉を見る。まさかと思った時には、扉が少しだけ開いて、ソネットが顔を覗かせていた。いつから聞いていたのか。どこから聞いていたのか。非常にまずい。
「クリス、鏡の前で練習?」
「ち、ちがっ……!」
「ふふ。可愛いわ」
「かわいくないし!」
反射的に叫ぶ。するとソネットは、ますます楽しそうに笑った。完全に子どもの背伸びとして処理された。助かったのか、助かっていないのか分からない。少なくとも転生者疑惑は出ていない。だが、原作クリス演技の初披露は母親に可愛い扱いされて終わった。
先が思いやられる。
ソネットは部屋に入ってくると、散らばっていた寝具を整えた。その横顔を見て、胸がまた痛む。生きている。ここにいる。歌う声も、笑う声も、手の温かさも、全部ある。
「ママ」
「なあに?」
「……お仕事、遠くに行くの?」
できるだけ自然に聞いたつもりだった。
ソネットは少し目を丸くした後、柔らかく微笑んだ。
「そうね。少し先だけれど、お父さんと一緒に行く予定があるわ。音楽を届けに行くの。困っている人たちのところへ」
やっぱり。
喉の奥が詰まる。まだ詳しい場所までは聞いていない。でも分かる。これが、あの未来につながる道だ。今ここで放置すれば、いずれ戻れないところまで進んでしまう。
「クリスも一緒に行けるかは、まだ相談中だけれど」
「……行かないで」
思ったよりも早く、言葉が出た。
ソネットが動きを止める。こちらを見る。自分も驚いていた。もっと計画を立てるつもりだった。泣き落としは次の手段にするつもりだった。けれど、口が勝手に動いた。子どもの体が、母親を失いたくないと叫んでいた。
「クリス?」
「行かないで。パパも、ママも」
声が震える。
演技ではなかった。泣こうと思ったわけでも、甘えようと計算したわけでもない。ただ、怖かった。知っている未来が、目の前の母親を飲み込もうとしているようで、怖くてたまらなかった。
ソネットはすぐに近づいて、しゃがみ込む。目線を合わせて、こちらの頬に触れた。
「怖い夢を見たのね」
「……うん」
「大丈夫。すぐにどこかへ行くわけじゃないわ。ちゃんとお父さんとも話しましょう」
それは約束ではない。
中止するとも言っていない。けれど、第一歩だ。今はそれでいい。子どもの言葉が、少しでも大人の予定に引っかかった。それだけで十分だ。
ソネットに抱きしめられる。温かい。優しい。泣かないつもりだったのに、涙が出た。小さな手で母親の服を掴む。絶対に離さないと、心の中で決めた。
この人を死なせない。
この家の音を消させない。
バイオリンの音も、歌声も、朝食の匂いも、何気ない笑い声も、全部守る。まだ銃はない。ギアもない。力もない。けれど、知っている。自分はいつか、イチイバルを纏う。弾丸を放つ。なら、その日が来る前に撃ち抜くべきものもあるはずだ。
運命だとか、悲劇だとか、知っている未来だとか。
そういうものを、まずはこの小さな手で押し返す。
「あたし……」
ソネットの腕の中で、小さく呟く。
「絶対、守るから」
「あら。頼もしいわね」
母は笑った。子どもの可愛い宣言だと思ったのだろう。けれど、こちらは本気だった。泣き落としでも、仮病でも、怖い夢でも、未来予知っぽい脅しでも、使えるものは全部使う。
自分は雪音クリスだ。
まだ銃も撃てない。歌も知らない。ただの子どもだ。けれど、最初の標的だけはもう決まっていた。