転生したら雪音クリスだったので、曇りポイントを撃ち抜きます   作:ブラックだあああぁぁぁぁぁ(小並感)

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4. 防人と絶唱少女とぽやぽや適合者候補

 

 その施設へ向かうと聞いた時、胃のあたりがきゅっと縮んだ。

 

 正式には、まだ何も教えられていない。弦十郎は「歌に特殊な反応を示した者の安全確認を行う場所」と説明しただけだし、両親の前では必要以上に物々しい言い方を避けていた。けれど、こちらは知っている。知ってしまっている。そこが、どれだけ日常から遠い場所なのかを。

 

 車の窓の外を、見慣れた街並みが流れていく。今日は雪音家から少し離れた施設へ向かっていた。表向きは音響関連の研究施設。両親には、クリスの歌に特殊な反応が確認されたため、安全確認を兼ねて話を聞きたいと説明されている。

 

 嘘ではない。

 

 嘘ではないが、全部でもない。

 

「クリス、大丈夫かい?」

 

 隣に座る雅律が、こちらを覗き込んだ。

 

「……大丈夫」

 

「本当に?」

 

「んー……たぶん」

 

「たぶん、か」

 

 雅律が困ったように笑う。ソネットは反対側から私の手を握ってくれていた。両親がいてくれる。それだけで、少しだけ呼吸がしやすい。もし一人で連れていかれていたら、きっと車に乗る前から逃げ出していた。

 

 逃げたところで、行く先なんてないのだけれど。

 

 自分は雪音クリスだ。

 

 いつか、歌で何かを起こす。たぶん、逃げようとしても逃げ切れない。そう分かっている以上、この世界の中枢に近づくことは避けられない。問題は、その速度が予想より早いことだ。両親を守るために未来を変えたら、今度は自分自身が見つかった。

 

 やっぱり、この世界は甘くない。

 

「今日は、前に会った大きな人と、白衣の人に会うの?」

 

 子どもらしく聞いたつもりだった。

 

 ソネットはすぐに頷く。

 

「ええ。風鳴さんと、櫻井さんね」

 

「……ふーん」

 

 内心では、名前を聞いただけで心臓が跳ねていた。

 

 風鳴弦十郎。櫻井了子。知っている名前だ。味方だと思いたい名前と、どう扱えばいいのか分からない名前。弦十郎は信じたい。けれど了子は怖い。今の彼女が何をどこまで自覚しているのか、こちらには判断できない。

 

 だから、今日は普通の子どもになる。

 

 そう決めていた。

 

 専門用語を言わない。変な先読みをしない。知っている顔を見ても驚きすぎない。何も知らない雪音クリスとして、少し警戒心の強い子どもを演じる。強気な口調はほどほどに。あまりやりすぎると、また「可愛い」と処理される。

 

 頭の中で作戦を確認していると、車が静かに止まった。

 

 建物は、思ったより普通だった。

 

 巨大な秘密基地のようなものを想像していたせいか、少し拍子抜けする。外から見れば、研究施設か、企業の研修所に見える。だが入口の空気は違った。警備の人間の視線が、柔らかいのに隙がない。どこかで見張られている感覚がある。

 

 子どもの体でも、それは分かった。

 

 いや、子どもだからこそ敏感なのかもしれない。

 

「ようこそ、雪音さん」

 

 入口で待っていた弦十郎が、深く頭を下げた。

 

 相変わらず大きい。近くで見ると、余計に大きい。だが、不思議と威圧感だけではない。こちらを怖がらせないよう、声の高さも、動きも、少しずつ調整してくれているのが分かる。

 

「今日はありがとうございます。こちらで改めて説明させていただきます」

 

 弦十郎は両親にそう告げた後、こちらを見る。

 

「クリスも、来てくれてありがとう」

 

「……別に。来いって言われたから来ただけだし」

 

 出た。

 

 反射的に強気な声が出た。しかも、少し練習してきた感じの声だ。自分でも分かる。自然ではない。雅律が少し目を細め、ソネットは微笑みをこらえている。

 

 弦十郎は笑わなかった。

 

 ただ、真面目に頷いた。

 

「そうか。それでも、よく来てくれた」

 

 その返し方は、ずるい。

 

 子どもの強がりを否定せず、その奥の怖さだけ受け止めてくる。こういう大人がいるから、装者たちは前を向けたのかもしれない。そう思ってしまう。

 

 案内された部屋は、応接室と検査室の中間のような場所だった。壁際には機材があるが、中央には低いテーブルとソファが置かれている。いかにも子どもを怖がらせないための配置だ。テーブルの上にはジュースまである。

 

「……罠?」

 

「違うわよぉ」

 

 背後から明るい声がした。

 

 振り返ると、櫻井了子が立っていた。白衣。柔らかな笑顔。軽い調子。だが、こちらを見る目だけはやはり研究者のものだった。私は思わずソネットの後ろに半歩隠れる。

 

「クリスちゃん、今日も警戒心ばっちりね」

 

「警戒してないし」

 

「そう? じゃあ、そのソネットさんの後ろに隠れてるのは?」

 

「位置取り」

 

「位置取り」

 

 了子は楽しそうに繰り返した。

 

 余計なことを言った。普通の子ども作戦、開始五分で怪しい。だが、了子相手に普通でいられる方が難しい。あの笑顔の奥に何があるのか、分からないのだから。

 

 弦十郎は咳払いをして、空気を整えた。

 

「了子君、ほどほどに」

 

「はいはい。怖がらせないように、でしょう?」

 

「そうだ」

 

「大丈夫よ。解剖もしないし、変な注射もしないわ」

 

 やめてほしい。

 

 前回こちらが口を滑らせた件を、まだ覚えている。両親の視線が一瞬だけ鋭くなる。了子は悪びれずに手をひらひらさせたが、弦十郎の目が少しだけ厳しくなった。

 

 この二人の距離感も、見ていると複雑だ。

 

 信頼はある。仕事仲間としての軽口もある。でもこちらは、知っている未来の断片が邪魔をして、まっすぐには見られない。

 

「今日は、君に会わせたい子たちがいる」

 

 弦十郎が言った。

 

 その瞬間、心臓が嫌な跳ね方をした。

 

「子たち?」

 

「ああ。君と同じように、歌に特別な反応を示す者たちだ」

 

 来た。

 

 分かっていた。分かっていたけれど、いざ言われると逃げ出したくなる。会いたい。ものすごく会いたい。けれど、会いたくない。会えば、もう物語の外側にはいられない。あの悲劇を、もっと近くで見ることになる。

 

 ソネットの手が、私の肩に添えられた。

 

「クリス?」

 

「……平気」

 

 平気ではない。

 

 でも、ここで引いたら、何のためにここまで来たのか分からない。奏を助けるには、奏の近くにいなければならない。翼を孤独にしないためには、翼がどんな顔で戦っているのか見ておかなければならない。

 

 扉が開いた。

 

 先に入ってきたのは、黒髪の少女だった。

 

 背筋がまっすぐで、立ち姿に隙がない。年齢はまだ若い。けれど、こちらを見据える瞳は大人びていた。礼儀正しく、硬く、そして少しだけ距離がある。彼女の周囲だけ空気が張り詰めているように感じる。

 

 風鳴翼。

 

 知っている名前が、目の前で呼吸をしていた。

 

「風鳴翼です」

 

 彼女は丁寧に頭を下げた。

 

「本日は、よろしくお願いいたします」

 

 真面目。

 

 第一印象は、それだった。知っていた通りだ。だが、画面越しや知識として知っているのと、目の前で見るのとでは違う。若い。まだ幼さも残っている。けれど、もう自分を剣として扱おうとしている顔をしていた。

 

 胸が、少し痛くなる。

 

「……雪音クリス」

 

 なんとか名乗る。

 

「あたしは……その、よろしく」

 

 言い終えてから、微妙に中途半端だったと気づく。強気にいくのか、礼儀正しくするのか、どちらかにすべきだった。翼は一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐに真面目な顔へ戻った。

 

「はい。雪音さん」

 

「雪音さん……」

 

 距離が遠い。

 

 当然だ。初対面なのだから。でも、知っている相手に名字で呼ばれるのは妙な感じがした。こちらだけが相手の未来を知っている。ずるい距離感だ。

 

 そして、その空気を叩き割るように、もう一人が入ってきた。

 

「お、いたいた。噂のちびっこ適合者候補ってのは、この子か?」

 

 明るい声。

 

 軽い足取り。

 

 入ってきた少女は、こちらを見るなり、遠慮なく笑った。翼とは違う。張り詰めた感じはない。けれど、軽いだけでもない。体の芯に、燃えるようなものがある。笑顔の奥に、戦場を知っている目があった。

 

 天羽奏。

 

 生きている。

 

 その事実だけで、喉が詰まった。

 

 まだ何も起きていない。まだコンサートの日ではない。彼女は目の前で普通に歩いて、普通に笑って、普通にこちらを覗き込んでいる。死んでいない。絶唱で燃え尽きていない。今なら、まだ守れる。

 

「……っ」

 

 まずい。

 

 泣きそうになった。

 

 初対面で泣くのはまずい。怪しすぎる。私は慌てて視線を逸らし、拳を握る。強気。強気にいけ。雪音クリスらしく。知らない相手に軽く扱われたら噛みつく。そういう方向でいけばいい。

 

「ちびっこ言うな」

 

 言えた。

 

 やや声が震えていたが、言えた。

 

「あたしは雪音クリスだ。子ども扱いすんな」

 

 言ってから気づく。

 

 子どもである。

 

 紛れもなく子どもだ。奏はきょとんとした後、腹を抱えるほどではないが、明らかに楽しそうに笑った。翼は眉をひそめる。ソネットが後ろで微妙に困った顔をしている気配がした。

 

「へえ。いいじゃん。目つき鋭いし、口も悪い」

 

「悪くないし」

 

「今の返し、絶対練習してきただろ」

 

「してない!」

 

 即答した。

 

 即答しすぎた。

 

 奏の笑みが深くなる。しまった。完全に見抜かれている。鏡の前で練習していたことまでは知らないはずだ。知らないはずなのに、雰囲気で当ててくる。姉御肌の勘、怖い。

 

「奏、初対面の相手に失礼だ」

 

 翼が静かに注意する。

 

「悪い悪い。でも、面白いだろ、この子」

 

「面白いかどうかで判断すべきではない。装者候補として接するなら、まずは礼節と安全確認を」

 

「ほら出た、防人モード」

 

「防人モードではない」

 

「出てる出てる」

 

 二人のやりとりに、少しだけ息が抜けた。

 

 知っている二人だ。けれど、まだ知らない二人でもある。翼は真面目で硬い。奏は軽く見えて、場を柔らかくするのがうまい。両方とも、本当にここにいる。紙の上の設定でも、記憶の中の断片でもなく、目の前で言い合っている。

 

 守りたい。

 

 そう思った。

 

 奏だけではない。翼もだ。この二人が並んでいる風景を、壊したくない。未来を知っているからこそ、この何気ないやりとりがどれだけ危ういものなのか分かってしまう。

 

「雪音さん」

 

 翼がこちらへ向き直る。

 

「事情はまだ詳しく聞いていませんが、あなたの力が危険を伴うものであるなら、軽率な態度は慎むべきです」

 

「つ、翼」

 

 奏が少し困った顔をする。

 

 翼の言葉はきつい。けれど悪意はない。本気で言っている。自分にも、周囲にも、危険が及ぶかもしれないから。彼女はまだ若いのに、もう自分を任務の中に置いている。

 

 だから、こちらも逃げられない。

 

「分かってる」

 

 今度は、演技ではなく答えた。

 

「怖いものだっていうのは、分かってる」

 

 翼の目が少しだけ変わった。

 

 子どもが言うには、少し重すぎたかもしれない。でも、言ってしまったものは仕方ない。奏も、笑うのをやめてこちらを見ている。弦十郎は黙っている。了子だけが、興味深そうに目を細めていた。

 

「でも、知らないままの方がもっと怖い。だから来た」

 

 言葉にすると、自分でも少し驚いた。

 

 それは、今日ここに来るまでの怖さの答えだった。逃げたい。でも逃げても、知っている未来は消えない。なら、知らないふりをするより、知って怖がる方がいい。怖がったままでも、守りたいものの近くにいたい。

 

 翼はしばらく私を見つめてから、静かに頭を下げた。

 

「失礼しました」

 

「え?」

 

「あなたを、何も分かっていない子どもとして扱いました」

 

「いや、子どもだけど」

 

 思わず素で返す。

 

 奏が吹き出した。

 

「そこで自分で言うのかよ」

 

「うっせぇ」

 

「お、戻った」

 

「戻ってない!」

 

 また奏が笑う。翼はますます困惑している。弦十郎はなぜか嬉しそうに見守っている。了子は機材の準備をしながら、こちらの会話を聞き逃すまいとしている。

 

 なんだこの空間。

 

 怖いはずなのに、少しだけ騒がしい。

 

 検査と説明は、そこからゆっくり進められた。

 

 今日の目的は正式な訓練ではない。歌唱反応の再確認、特殊な波形との相性、そして装者候補としての初期適性を見るだけだと説明された。ソネットと雅律も同席している。二人は何度も質問し、弦十郎は一つずつ答えた。

 

 子どもを戦わせるのか。

 

 危険はどの程度なのか。

 

 拒否できるのか。

 

 家族に何が知らされるのか。

 

 雅律の声は穏やかだが、厳しかった。ソネットの手はずっと私の肩に置かれている。二人とも、私を守る側に立っている。だからこそ、自分がこれから踏み込もうとしている場所の重さが分かる。

 

「現時点で、クリスを実戦に出すことは考えていません」

 

 弦十郎ははっきり言った。

 

「年齢も、心身の準備も足りていない。まずは安全な環境で、自分の力を知ることから始めます」

 

「その力を知った先で、戦う選択を迫られることは?」

 

 雅律が問う。

 

 弦十郎は沈黙した。

 

 嘘を言わない人だ。

 

「可能性はあります」

 

 やはり、そう答えた。

 

「ですが、その時に本人の意思を無視することはしません」

 

「本当に?」

 

 聞いたのは私だった。

 

 弦十郎がこちらを見る。

 

「本当だ」

 

「子どもだからって、勝手に決めない?」

 

「決めない」

 

「大人の都合で?」

 

「決めない」

 

「世界が危ないから仕方ないって?」

 

「それでも、君の意思を聞く」

 

 そこまで言われて、少しだけ黙る。

 

 世界が危ない時に、そんなきれいごとが本当に通るのかは分からない。知っている未来では、子どもたちは戦っていた。歌っていた。傷ついていた。誰かを守るために、自分を削っていた。

 

 でも、今この場で弦十郎が嘘をついていないことだけは分かった。

 

「……なら、聞く」

 

 小さく言う。

 

「ちゃんと聞く。分かんないこと、いっぱいあるから」

 

「それでいい」

 

 弦十郎は頷いた。

 

 その後、簡単な歌唱テストが行われた。

 

 奏と翼は少し離れた場所で見守っている。私はマイクの前に立ち、前回と同じように短い旋律を歌うことになった。前よりは少し落ち着いている。両親が見ていて、弦十郎がいて、奏と翼がいる。怖いけれど、一人ではない。

 

 息を吸う。

 

 声を出す。

 

 前回と同じように、空気の奥へ何かが伸びていく。背中の奥で、見えない弦が震える。あの冷たく鋭い音が、また遠くから応えた。だが、今度は前ほど飲まれない。自分の声が、どこへ向かっているのかを少しだけ意識できた。

 

 歌を終える。

 

 了子が機材を確認し、興奮を隠しきれない顔で頷いた。

 

「やっぱりすごいわ。適合係数だけじゃ説明しきれない。反応の深度が……」

 

「了子君」

 

「はいはい、子どもの前では難しい話をしすぎない」

 

 難しい話ではなく、言われたらだいたい分かってしまうから困る。

 

 奏がこちらに近づいてきた。

 

「歌、上手いじゃん」

 

「……ママの方が上手い」

 

「そりゃそうだろ。比べる相手が強すぎる」

 

 奏は笑って、私の頭に手を伸ばしかけた。

 

 反射的に避ける。

 

「あ、悪い。撫でられるの嫌か?」

 

「嫌じゃないけど、急に来るな」

 

「お、ちゃんと言えるのは偉い」

 

「偉いって言うな」

 

「はいはい」

 

 奏は今度はゆっくり手を伸ばしてきた。避けようと思えば避けられた。でも、避けなかった。頭に手が乗る。少し乱暴で、でも温かい撫で方だった。

 

 生きている。

 

 また、その実感が胸に来る。

 

 私はこの手を、失わせたくない。

 

「……何だよ」

 

 涙が出そうになったのをごまかすため、睨む。

 

 奏は目を細めた。

 

「いや。お前、目が忙しいなって思って」

 

「目?」

 

「怖がったり、怒ったり、泣きそうになったり、強がったり。小さいのに忙しそうだ」

 

「小さい言うな」

 

「そこだけは絶対噛みつくのな」

 

 奏が笑う。

 

 翼が少し離れたところから、複雑そうにこちらを見ていた。彼女は奏ほど距離を詰めてこない。だが、拒絶しているわけでもなさそうだ。観察している。判断している。たぶん、自分がどう接すべきか迷っている。

 

 なら、こちらから少し踏み込むべきかもしれない。

 

「翼」

 

 呼んでから、しまったと思った。

 

 初対面で呼び捨て。

 

 完全に知っている相手の距離感で呼んでしまった。翼の眉がわずかに動く。奏は面白そうに口元を緩めた。弦十郎までこちらを見た気がする。

 

「……風鳴、さん」

 

 慌てて言い直す。

 

 翼は一拍置いてから、静かに答えた。

 

「翼で構いません。奏も、私をそう呼びますので」

 

「あ、そう……」

 

「ただし、礼節を欠く意味での呼び捨てなら改めてください」

 

「はい」

 

 即答した。

 

 奏が耐えきれずに笑った。

 

「お前、翼には弱いのか?」

 

「弱くないし」

 

「今の返事、めちゃくちゃ素直だったぞ」

 

「うっせぇ」

 

 もう駄目だ。

 

 強気なクリス計画は、出会ったその日に揺らいでいる。奏には演技を見抜かれ、翼には真面目に正され、弦十郎には優しく見守られ、了子には面白いサンプルのように見られている。想定よりずっと疲れる。

 

 そして子どもの体は、疲れると眠くなる。

 

 検査が一段落した後、私は応接室のソファに座らされた。両親は弦十郎と今後の方針について話している。奏と翼は少し離れた場所で、何やら訓練予定のような話をしていた。了子は機材データの確認に行ったらしい。

 

 緊張が切れた。

 

 まぶたが重い。

 

 寝てはいけない。ここで寝たら駄目だ。知らない施設で、原作の重要人物たちの前で、ぽやぽや寝るわけにはいかない。雪音クリスとしての威厳がなくなる。いや、そもそも幼女に威厳を求める方が間違っているかもしれないが、それでも。

 

「クリス?」

 

 ソネットの声が遠くから聞こえた。

 

「眠いの?」

 

「眠くない……」

 

 定番の嘘をつく。

 

 直後、意識が落ちた。

 

 次に目を開けた時、誰かが肩を揺らしていた。

 

「おーい、クリス。起きろー」

 

 奏の声だった。

 

 起きなければいけない。分かっている。ここは例の施設で、目の前には奏と翼がいて、私は強気でいなければならない。そう分かっているのに、脳がまだ起動していなかった。

 

「んー……」

 

 声が漏れる。

 

「あと五分だけ……世界、待ってぇ……」

 

 言った。

 

 完全に言った。

 

 数秒遅れて、意識が戻る。

 

 目の前で、奏が肩を震わせていた。翼は眉間に皺を寄せ、どう受け止めるべきか分からない顔をしている。弦十郎はなぜか優しい顔だ。ソネットは口元を押さえ、雅律は静かに視線を逸らしている。

 

 終わった。

 

 強気な雪音クリス計画、開始前から完全に終わった。

 

「お前さ」

 

 奏がついに吹き出した。

 

「無理して悪ぶってるだろ」

 

「……違う」

 

「いや、違わないだろ。寝起きふわふわすぎるって」

 

「ふわふわじゃない」

 

「じゃあ何だよ、今の『世界待ってぇ』は」

 

「世界が悪い」

 

「世界のせいにしたぞ、この子」

 

 奏が笑う。遠慮なく笑う。けれど、その笑い方に悪意はなかった。馬鹿にしているというより、面白くて仕方ないという顔だ。翼は隣で真面目に考え込んでいる。

 

「寝起きふわふわ適合者候補、って感じだな」

 

「ふわふわじゃない」

 

「じゃあ、今のは?」

 

「……世界が、悪い」

 

「二回目だぞ、それ」

 

 奏がまた笑った。

 

 翼は真面目な顔で口を開く。

 

「寝起きで世界に停止を求めるのは、合理的ではありません」

 

「翼、そこ真面目に拾うところじゃないって」

 

「しかし、世界は待たない」

 

「急に重い」

 

 思わず素で呟いた。

 

 奏がまた笑った。

 

 私はソファの上で小さくなる。顔が熱い。耳まで熱い。強気に振る舞うはずだった。簡単に舐められないように、乱暴な口調で、少し尖って、誰にも近づかせないようにするはずだった。

 

 でも、目の前の二人は、それを許してくれそうにない。

 

 奏は距離を詰めてくる。翼は真面目に向き合ってくる。弦十郎は逃げ道を塞ぐのではなく、怖くても立てる場所を作ろうとしてくる。両親は、私がどんな顔をしても守ろうとしてくれる。

 

 なら、知っている雪音クリスを完全に演じるのは、最初から無理なのかもしれない。

 

 いや、諦めるのはまだ早い。

 

「今のは寝ぼけただけだ」

 

「へえ」

 

「普段のあたしは、もっとこう……強い」

 

「はいはい」

 

「信じてないだろ」

 

「信じてる信じてる。寝起きふわふわ候補生」

 

「候補生って言うな。まだ決まってないし」

 

 そう返してから、自分でも少し驚いた。

 

 まだ決まっていない。

 

 そうだ。まだ自分は何者でもない。歌に反応があるだけの子どもだ。知っている未来では雪音クリスは戦う。けれど、この世界の自分は、まだそこに立つと決めたわけではない。決める前に、知っておきたいだけだ。

 

 奏の表情が少しだけ変わった。

 

「そっか」

 

 彼女はそれ以上、踏み込まなかった。

 

「じゃあ、今は候補でいいな」

 

「……うん」

 

「怖い夢を見たなら、ひとりで抱えんなよ。候補だろうが何だろうが、小さいんだから」

 

「小さい言うな」

 

「そこは言う」

 

「言うな」

 

「じゃあ、ちび」

 

「もっと悪い!」

 

 また空気が軽くなる。

 

 でも、胸の奥にはさっきの言葉が残った。ひとりで抱えるな。そんなことを言う人が、あの未来で命を燃やし尽くす。絶対に嫌だ。絶対に、そんなところへ行かせない。

 

 私は奏を見る。

 

 生きている奏。

 

 笑っている奏。

 

 守ると決めたものが、また一つ増えた。

 

「奏」

 

「ん?」

 

「……死ぬなよ」

 

 口から出ていた。

 

 部屋の空気が、一瞬だけ止まる。

 

 言ってから後悔した。重すぎる。初対面で言うことではない。子どもがいきなりそんなことを言えば、不吉にもほどがある。翼の表情が変わり、弦十郎の目も静かに細くなった。ソネットが不安そうに私の名前を呼ぶ。

 

 だが、奏は驚いた後、少しだけ笑った。

 

「お前、変なこと言うな」

 

「……悪い」

 

「でも、悪くない」

 

 奏は立ち上がり、自分の胸を軽く叩いた。

 

「あたしは簡単に死なないよ。まだ歌いたいし、翼に小言も言われ足りないし、今見つけた面白いちびっこをからかい足りない」

 

「だから、ちびっこ言うな」

 

「ほら、元気出た」

 

 奏は笑った。

 

 その笑顔を見て、胸が痛くなる。知っている。そういう人ほど、誰かのために命を燃やしてしまう。だからこそ、近くにいなければならない。笑っている時も、強がっている時も、無茶をしそうな時も。

 

 翼が静かに口を開いた。

 

「奏は、無茶をするところがあります」

 

「翼?」

 

「ですから、雪音さんがそう言いたくなる気持ちは、少し分かります」

 

 意外だった。

 

 翼は奏を見て、それからこちらを見る。

 

「ただし、あなたも同じです」

 

「え?」

 

「怖いものを知っている顔をしている。けれど、ひとりで前に出ようとしている。そういう者は、無茶をします」

 

 何も言い返せなかった。

 

 翼は真面目だ。硬い。けれど、人を見ていないわけではない。むしろ見すぎている。こちらの強がりも、怖さも、隠しているものまでは分からなくても、何かを抱えていることくらいは感じ取っている。

 

「だから、無茶をしないでください」

 

 翼が言う。

 

「あなたが候補者であるなら、なおさら」

 

「……分かった」

 

 今度は素直に頷いた。

 

 奏がにやっと笑う。

 

「やっぱ翼には素直だな」

 

「うっせぇ」

 

「はいはい、強い強い」

 

 からかわれている。完全にからかわれている。けれど、不思議と嫌ではなかった。緊張で固まっていた心が、少しずつほどけていく。怖さは消えない。未来も変わらない。けれど、今この瞬間だけは、笑い声がある。

 

 しばらくして、弦十郎が今後の予定を告げた。

 

 すぐに訓練へ入るわけではない。まずは定期的な検査と、歌唱反応の確認。そして、必要に応じて奏や翼の訓練を見学する。実際に力を扱うのは、両親の同意と本人の意思を確認しながら段階的に進める。

 

 両親は不安そうだったが、完全には拒まなかった。

 

 私が逃げないと決めていることを、たぶん感じ取っていたのだと思う。

 

 帰る前、奏が廊下まで見送りに来た。

 

「また来るんだろ?」

 

「たぶん」

 

「そっか。じゃあ次までに、その悪ぶり演技、もうちょい自然にしとけよ」

 

「演技じゃない」

 

「はいはい」

 

「本当だし」

 

「じゃあ、寝起きふわふわの方が演技?」

 

「……それは」

 

 言葉に詰まる。

 

 奏の笑みが深くなった。

 

「ほらな」

 

「うっせぇ」

 

 今度の「うっせぇ」は、少しだけ自然に出た。

 

 奏もそれに気づいたのか、満足そうに笑った。

 

「じゃあな、クリス」

 

 名前を呼ばれた。

 

 ただそれだけで、胸の奥が温かくなる。知っている名前の人に、自分の名前を呼ばれる。まだ救えていない。まだ何も変えていない。けれど、ここからなら届くかもしれない。

 

「……またな、奏」

 

 今度は呼び捨てを直さなかった。

 

 奏も気にしなかった。翼が少しだけ眉を動かしたが、何も言わなかった。許されたのか、見逃されたのかは分からない。でも、その距離が少しだけ嬉しかった。

 

 車に乗り込む前、私は振り返る。

 

 施設の入口で、奏が手を振っている。その隣に翼が立っている。弦十郎が少し後ろで見守っている。了子は窓の向こうから、興味深そうにこちらを見ていた。

 

 怖い。

 

 やっぱり怖い。

 

 でも、逃げたくない。

 

 私は雪音クリスだ。まだ銃も撃てない。歌も安定しない。強がり方だって下手で、寝起きには世界に待ってほしいと頼んでしまう。

 

 それでも、今日決めた。

 

 あの人を死なせない。

 

 あの二人を、引き裂かせない。

 

 知っている未来がどれだけ強くても、今ここで笑っている人たちを、なかったことになんてさせない。

 

「クリス、帰りましょう」

 

 ソネットに呼ばれる。

 

「うん」

 

 頷いて、車に乗る。

 

 窓の外で、奏がまだ手を振っていた。私は少し迷ってから、小さく手を振り返す。強気な雪音クリスなら、そんなことはしないかもしれない。でも、今の私はしたかった。

 

 だからした。

 

 その瞬間、奏が笑った。

 

 それだけで、今日はここに来てよかったと思えた。

 

 

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TS転生クソボケユメ先輩(死亡済・幽霊)が原作のn倍ホシノの脳を焼いていた話(作者:死刑囚)(原作:ブルーアーカイブ)

▼ ユメ先輩にTS転生していた元ブルアカプレイヤーの『俺』――が、原作通りにユメ先輩として死んだらなぜか幽霊になってた話。▼ なお、原作よりマシにしようと思って色々やった(できたとは言っていない)結果、ホシノの脳は原作よりこんがり焼かれているものとする。


総合評価:17466/評価:8.97/連載:13話/更新日時:2026年06月01日(月) 06:50 小説情報


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