転生したら雪音クリスだったので、曇りポイントを撃ち抜きます   作:ブラックだあああぁぁぁぁぁ(小並感)

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6.師匠、だいたい手遅れです

 

 

 金髪の少女のことが、頭から離れなかった。

 

 会ったのは一度だけだ。名前も聞けていない。中庭で少し話しただけで、気づいたら消えていた。普通に考えれば、ちょっと変わった子どもと出会っただけで済ませるべきなのかもしれない。

 

 でも、普通に考えられるなら苦労はしない。

 

 金色の髪。幼い姿。父。世界を識る。想い出。運命を壊すという言葉。断片だけなら、どこかで見たような気がする。けれど、頭の中にある未来の記憶は雑に重なっていて、必要な時ほど細かい名前が出てこない。

 

「金髪、幼女、父、世界、想い出……」

 

 机に突っ伏しながら呟く。

 

 紙には、思い出せる単語を書き並べていた。だが、並べれば並べるほど不穏になる。普通の知り合い候補がひとつもない。もっとこう、平和な音楽家の娘とか、海外から来た親戚の子とか、そういう方向に落ち着いてほしいのに、単語が全部だめな方へ向かっている。

 

「……絶対、関わっちゃいけないやつでは?」

 

 自分で言って、胃が痛くなった。

 

 分かっている。分かっているのに、もう遅い気がする。向こうは私の名前を知っていた。こちらの想い出についても、普通ではない見方をしていた。つまり、見つかっている。何に見つかったのかは分からないが、かなりまずいものに目をつけられた。

 

 布団に潜って忘れたい。

 

 けれど、今日はあの施設で検査の日だった。

 

「クリス、準備できた?」

 

 ママの声がする。

 

「んー……できてる」

 

 できていない。心の準備だけができていない。だが、行かないわけにはいかない。奏と翼に会えるかもしれないし、弦十郎に聞けることもある。あの金髪少女のことを相談するかは迷う。説明すると、自分がどこまで話したのかまで聞かれる可能性が高い。

 

 それは困る。

 

 未来の夢だの、自分の中に自分じゃないものがあるだの、初対面の怪しい少女へ話しました。

 

 正直に言えば、怒られる。

 

 かなり怒られる。

 

 車の中でも、私はずっと難しい顔をしていたらしい。パパに「本当に大丈夫かい」と聞かれ、ママにも髪を撫でられた。大丈夫と言ったが、信じられている気はしなかった。

 

 施設に着くと、いつものように弦十郎が迎えてくれた。今日は了子もいたが、検査準備があるらしく、軽く手を振っただけで奥へ引っ込んでいく。あの白衣の背中を見ると、まだ少し警戒してしまう。

 

「お、来たな。寝起きふわふわ候補生」

 

 廊下の向こうから、奏が手を振ってきた。

 

「その呼び方やめろ」

 

「じゃあ、重い顔のちびっこ」

 

「悪化してる!」

 

 反射で叫ぶと、奏は楽しそうに笑った。隣にいた翼は真面目にこちらを見ている。

 

「雪音さん、睡眠不足ですか」

 

「……何で分かるんだよ」

 

「目元に疲れが出ています。検査に影響があるなら、今日は中止するべきです」

 

「大丈夫。ちょっと考え事してただけ」

 

「考え事」

 

 翼の目が少し細くなる。

 

 鋭い。奏とは違う方向に鋭い。こちらが何か隠していることまでは分からなくても、普段と違うことは見抜いてくる。防人怖い。

 

「ひとりで抱え込むなって言ったばっかりだろ」

 

 奏が軽い口調で言った。

 

 胸に刺さる。

 

 ひとりで抱え込むな。そう言われた。なのに、今まさに抱え込もうとしている。相談した方がいいのは分かっている。だが、何をどう説明すればいいのか分からない。金髪の少女が怪しいです、理由は私の未来知識がざわつくからです。そんな説明、どこから突っ込まれるか分かったものではない。

 

「大丈夫」

 

 だから、そう言った。

 

「本当に?」

 

 翼が確認する。

 

「……たぶん」

 

「たぶんは大丈夫ではありません」

 

「それはそう」

 

 素で返すと、奏がまた笑った。

 

 検査自体は短かった。

 

 歌唱反応の確認、波形の記録、体調チェック。前よりも慣れてきたとはいえ、歌うたびに背中の奥で何かが応える感覚はまだ怖い。見えない弦が鳴るような、遠くにある何かとつながるような感覚。

 

 ただ、今日はそれとは別のものも感じた。

 

 歌い終えた後、ほんの一瞬、視界の端に金色が揺れた気がした。

 

「……っ」

 

 振り返る。

 

 誰もいない。

 

 検査室の壁。機材。ガラスの向こうの弦十郎と了子。両親。奏と翼。見慣れ始めた人たちだけだ。金髪の少女など、どこにもいない。

 

「どうしたの?」

 

 了子がマイク越しに聞いてくる。

 

「何でもない」

 

 言ってから、自分でも声が硬いと思った。

 

 検査後、弦十郎は両親に今後の方針を説明するため、別室へ案内した。私も同席する予定だったが、了子に「少し休んでからでいいわよ」と言われた。たぶん、検査中の反応が微妙に乱れていたのだろう。

 

 奏と翼は訓練に戻ると言って、先に行った。

 

 私は施設内の古い資料室で待つことになった。音楽資料や古い書籍が並ぶ、落ち着いた部屋だ。もちろん完全に一人ではない。廊下には職員がいて、すぐ近くにはママたちのいる部屋もある。安全圏。たぶん、安全圏。

 

 そう思った時点で、嫌な予感がした。

 

 資料室の奥で、紙が一枚落ちた。

 

「……風?」

 

 窓は閉まっている。

 

 落ちた紙は、古い楽譜のように見えた。けれど、近づいて拾い上げると、そこに書かれていたのは音符ではなかった。円と線。見慣れない記号。規則性があるようで、普通の図形ではない。

 

 胸の奥が、ざわつく。

 

「来ると思っていた」

 

 背後から声がした。

 

 振り返る。

 

 金髪の少女が、書架の影に立っていた。

 

 やっぱりいた。

 

 そう思ったのと同時に、すぐ逃げるべきだとも思った。ここは施設内だ。大声を出せば、誰かが来る。廊下には職員がいる。無理に近づく必要はない。というか、前回の時点で十分怪しかった相手だ。

 

「……何でここにいる」

 

「お前が知りたそうな顔をしていたからだ」

 

「答えになってない」

 

「答えをすべて与えられると思うな」

 

「初対面に近い子どもへ言うことじゃないだろ、それ」

 

「ならば、子ども扱いされたいのか?」

 

「それはそれで困るけど!」

 

 やり取りが前回と同じ方向に転がり、少しだけ頭が痛くなる。

 

 少女は、私の足元に落ちた紙を指さした。

 

「それを見て、何も思わなかったか」

 

「変な図形だと思った」

 

「それだけか?」

 

「……ちょっと嫌な感じがした」

 

「上々だ」

 

「何が?」

 

「入口に立てたということだ」

 

 最悪の予感がした。

 

 入口。

 

 何の入口だ。聞きたくない。聞きたくないが、聞かなければもっとまずい気もする。少女は書架の奥へ歩き出す。資料室の壁際にある本棚の前で立ち止まり、何かを押した。

 

 音もなく、本棚の隙間が開いた。

 

「いやいやいや」

 

 思わず声が出た。

 

「何で施設の資料室に隠し部屋があるんだよ」

 

「古い建物には、古い道が残るものだ」

 

「そんな雑な説明で納得できると思うな」

 

「逃げてもいい」

 

 少女は振り返らずに言った。

 

「だが、お前は戻ってくる。知らぬままでは、己の中身に潰されるからな」

 

 言葉が刺さる。

 

 己の中身。

 

 その言い方が、昨日からずっと胸の奥に残っていた違和感を正確に触った。私の中には、私だけではないものがある。雪音クリスとしての幼い記憶と、前世の記憶と、知っている未来の断片。それが混ざっている。

 

 見ないふりをしているだけだ。

 

「……すぐ戻れるんだろうな」

 

「戻る気があるならな」

 

「その言い方、信頼できない」

 

「ならば来るな」

 

 少女は淡々と言う。

 

 本当に引き止めないつもりらしい。無理やり連れていく気はない。ここで廊下に戻れば、たぶん帰れる。少なくとも、今すぐ何かされることはない。

 

 なのに、足は動かなかった。

 

 知りたい。

 

 怖いのに、知りたい。

 

 私は小さく息を吐き、隠し通路の中へ入った。

 

 数歩進んだだけで、空気が変わった。

 

 古い紙と薬草、金属、そして焦げたような匂い。狭い通路の先には、小さな部屋があった。工房、という言葉が頭に浮かぶ。机の上にはガラス器具、古い本、乾いた草、金属片、石のかけら。床にはさっきの紙と似た図形が、薄く描かれている。

 

 絶対に踏んではいけない床だった。

 

 そう思って足を止める。

 

「踏めば起動する」

 

「言うのが遅い!」

 

「止まったではないか」

 

「結果論!」

 

 少女はわずかに笑った。

 

 私は慎重に床の線を避ける。子どもの足幅では逆に動きづらい。転びそうになり、慌てて机の端を掴む。そこに置かれていた小さな金属片が、かすかに震えた。

 

 部屋の空気が、一瞬だけ鳴った。

 

「……今の」

 

 少女の表情が変わる。

 

 私は手を離した。だが、遅かった。机の上の図形に薄い光が走る。床の線が、こちらの息に反応するように淡く浮かび上がった。熱くはない。痛くもない。けれど、頭の奥にある記憶がざわつく。

 

 前世の部屋。

 

 テレビの光。

 

 見たはずの物語。

 

 雪音家の朝食。

 

 ママの歌声。

 

 パパのバイオリン。

 

 奏の笑顔。

 

 翼の真面目な目。

 

 知らないはずの過去と、まだ起きていない未来の断片が、一瞬で浮かび上がる。けれど、それは燃えない。削れない。ただ、そこにある。重いまま、失われずに残っている。

 

「止まれ」

 

 少女が短く言った。

 

 図形の光が消える。

 

 私は膝に手をつき、浅く息をした。痛みはない。記憶も消えていない。だが、今の一瞬で、自分の中身を外側からなぞられたような気持ち悪さが残った。

 

「お前の想い出は、器に対して重すぎる」

 

 少女が言う。

 

「だが、不思議なことに摩耗していない」

 

「……その“想い出”って言い方」

 

 私は顔を上げる。

 

「普通の意味じゃないよな」

 

 少女の目が、少しだけ楽しそうに細まった。

 

「気づいたか。ならば一歩目としては上々だ」

 

「何の一歩目だよ」

 

「学ぶための一歩だ」

 

「学ぶって、何を」

 

 聞きながら、もう分かりかけていた。

 

 部屋。図形。術式。想い出を普通とは違う意味で扱う言葉。父。世界を識る。運命を壊す。そこまで揃って、ようやく頭の奥でばらばらだった断片がつながり始める。

 

 待て。

 

 待ってほしい。

 

 この金髪。幼い姿。父の言葉。世界を識る命題。想い出。術式。欧州めいた古い空気。

 

 まさか。

 

「私の名を聞きたいと言っていたな」

 

 少女は、古い本の上に指を置いたまま、こちらを見た。

 

「キャロル」

 

 その名を聞いた瞬間、頭の奥で何かが噛み合った。

 

 金髪。

 

 幼い姿。

 

 父。

 

 世界を識る。

 

 想い出。

 

 そこまで揃って、なぜ気づかなかったのか。

 

「キャロル・マールス・ディーンハイム」

 

 終わった。

 

 完全に終わった。

 

 私は、よりによって未来で世界を壊そうとする金髪少女に、人生相談をしていた。

 

「……用事を思い出した」

 

「そうか」

 

「帰る」

 

「好きにしろ」

 

 あっさり言われて、逆に怖い。

 

 私は一歩下がる。キャロルは引き止めない。拘束もしない。術式で脅すこともしない。ただ、静かにこちらを見ている。それが余計に逃げづらい。まるで、逃げてもどうせ戻ってくると確信しているようだった。

 

「お前の異常性を放っておく方が危険だ」

 

「いきなり何」

 

「お前は、己の中に収まりきらぬほどの想い出を抱えている。しかもそれを失っていない。普通なら、とうに摩耗しているか、器が壊れている」

 

「普通じゃない自覚はあるけど、そんな診断される覚えはない」

 

「診断ではない。観察だ」

 

「余計悪い!」

 

 声を荒げたが、キャロルは揺れない。

 

 彼女は机の上から小さな紙片を取り、私に見せた。さっき光ったものより単純な図形だ。見ていると、なぜか目が離せなくなる。図形の意味は分からない。だが、構造の一部が、頭の奥で何かと噛み合う。

 

「忘れろと言われて忘れられるか」

 

「……たぶん、無理」

 

「ならば学べ。知らぬまま持つには、お前の中身は重すぎる」

 

「何でそうなるんだよ」

 

「知らぬ力は暴発する。知らぬ記憶は己を食う。知らぬまま守ろうとする者は、守るべきものごと壊す」

 

 その言葉だけは、笑えなかった。

 

 キャロルは、こちらの奥に踏み込んでくる。嫌だ。怖い。だが、間違っていない気もした。未来を変えると決めた。けれど、私は自分の記憶のことすら分かっていない。何を覚えていて、何が抜けていて、どこからが雪音クリスで、どこからが前の自分なのかも曖昧だ。

 

 それを放置していいのか。

 

 答えは、たぶんよくない。

 

「だからって、キャロルから学ぶのは違うだろ……」

 

「私の名を知っているような口ぶりだな」

 

「……夢で見た」

 

「便利な言葉だ」

 

「ほんとに便利なんだよ」

 

 キャロルは小さく笑った。

 

 こちらは笑えない。目の前にいるのは、未来の大災害予定者だ。関われば危険。どう考えても危険。だが、このタイミングで出会ったのは偶然なのか。私の異常な想い出に反応して、向こうから近づいてきたのなら、放っておいても逃げ切れないのではないか。

 

 詰んでいる。

 

 また詰んでいる。

 

「つまり」

 

 私は恐る恐る聞いた。

 

「君は、私に何をさせたいんだ」

 

「基礎を学ばせる」

 

「何の基礎?」

 

「己の中の想い出を、壊さず見るための基礎だ」

 

「それは……ちょっと気になる」

 

 言ってから、しまったと思った。

 

 キャロルの目が勝ったように細くなる。

 

「ならば決まりだ」

 

「待て。今のは興味があるってだけで、弟子入りしますって意味じゃない」

 

「同じだ」

 

「同じじゃない!」

 

「学ぶ者は弟子だ」

 

「理屈が強引!」

 

 抗議しても、キャロルは平然としている。

 

「安心しろ。今すぐ何かをさせるつもりはない。お前はまだ幼い。器も、歌も、力も未熟だ」

 

「そこで安心しろって言われても」

 

「だが、だからこそ覚えは早い。余計な型がつく前に、最低限の扱いを叩き込める」

 

「叩き込むって言った」

 

「言ったが」

 

「言ったが、じゃない」

 

 会話が成立しているようでしていない。

 

 この感じ、まずい。キャロルの中ではもう何かが決まっている。こちらの了承を取る気はあるようで、実際には結論が先にある。拒否しても「拒否する理由ごと学べ」と言われそうな圧がある。

 

「私はまだ弟子になってない」

 

「今なった」

 

「なってない!」

 

「ならば仮だ」

 

「仮弟子って何だよ!」

 

「よい響きではないか」

 

「よくない!」

 

 完全にペースを握られている。

 

 怖い。怖いのに、少しだけ腹が立つ。世界を壊す予定の相手に腹を立てている場合ではないのだが、師匠面の速度が速すぎる。初対面に近い子どもを隠し部屋に案内し、図形を見せ、想い出を観察し、名前を明かし、弟子認定する。情報量が多い。

 

 私は頭を抱えたくなった。

 

「そろそろ戻れ」

 

 キャロルが言った。

 

「え、急に?」

 

「長く消えれば、お前の親が心配する」

 

 意外だった。

 

 その言い方には、からかいも悪意もなかった。本当に、親を心配させるなと言っているように聞こえた。前回の父の話を思い出す。彼女にとって親という存在は、軽く扱えないものなのかもしれない。

 

「……分かってる」

 

「ならば、これを持て」

 

 差し出されたのは、小さな栞のような紙片だった。

 

 古い紙。端に細かな記号が書かれている。中央には、簡単な図形がひとつ。見ていると、頭の奥がかすかにざわつく。でも、さっきほど強くはない。

 

「何これ」

 

「今日見た式の影だ。忘れるな」

 

「忘れたくても忘れられない気がするんだけど」

 

「ならば適性がある」

 

「適性とか言うな」

 

 受け取りたくない。

 

 でも、受け取らないと、次に何をされるか分からない。いや、何かされるというより、また勝手に見せられそうだ。私は渋々それを受け取った。

 

「弟子よ」

 

「まだ認めてない」

 

「次は、己の想い出を数えるところから始める」

 

「怖い授業内容だな」

 

「逃げてもいい」

 

「本当に?」

 

「だが、知りたくなる」

 

「……嫌な師匠だ」

 

「師匠と認めたか」

 

「認めてない!」

 

 キャロルはわずかに笑った。

 

 その笑みに、ぞっとするほどの年季を感じた。幼い姿なのに、古い。子どもの身体に、長い時間と重い想い出が詰まっている。たぶん、私が彼女をただの敵として見られない理由はそこにある。

 

 彼女もまた、子どもの器に収まりきらないものを抱えている。

 

 そんなことを考えてしまった自分が、少し嫌だった。

 

 資料室へ戻ると、本棚は何事もなかったように閉じていた。

 

 廊下からは職員の足音が聞こえる。時間はそれほど経っていないようだった。手の中の紙片だけが、さっきまでの出来事が夢ではないと主張している。

 

「クリス?」

 

 ソネットの声がした。

 

 慌てて紙片をポケットに隠す。

 

「ここにいる」

 

「大丈夫? 遅くなってごめんなさい」

 

「大丈夫。資料見てただけ」

 

 嘘ではない。

 

 資料ではないものも見たが。

 

 ママは私の顔を見て少し首を傾げた。

 

「疲れた顔をしているわ」

 

「ちょっと難しいもの見た」

 

「音楽資料?」

 

「……似たようなもの」

 

 違う。

 

 全然違う。

 

 でも、今はそういうことにさせてほしい。

 

 その日の帰り道、私は妙に静かだったらしい。パパにもママにも心配されたが、「眠い」と言い張った。実際、眠かった。疲れた。検査よりも、キャロルとの会話の方が何倍も疲れた。

 

 だが、眠気よりも混乱が勝っている。

 

 キャロル・マールス・ディーンハイム。

 

 未来で世界を壊そうとする少女。父の遺志を抱え、想い出を燃やし、強大な力を振るう存在。そんな相手に、私は見つかった。しかも、なぜか弟子扱いされている。

 

 どうしてこうなった。

 

 両親を守った。

 

 奏にも会った。

 

 翼とも会った。

 

 そこまではいい。

 

 どうして次に来るのが、キャロル師匠なのか。

 

 夜、布団の中で、私は小さな紙片を取り出した。

 

 いつの間にか、そこに文字が増えていた。

 

 見慣れない記号の下に、几帳面な字で短く書かれている。

 

『弟子よ。次までに、今日見た式を忘れるな』

 

「……いや、弟子になった覚えないんだけど」

 

 声は小さかった。

 

 だが、心の中では絶叫していた。

 

 紙片を裏返す。裏にも文字があった。

 

『忘れられぬなら、それでよい』

 

「逃げ道まで潰してくる……」

 

 布団をかぶる。

 

 現実から逃げるように目を閉じる。

 

 もちろん、眠れるはずがなかった。目を閉じれば、図形が浮かぶ。金色の髪が浮かぶ。あの古い目が、こちらを面白そうに見ている。

 

 最初の標的は、両親の死だった。

 

 次は奏の悲劇だと思っていた。

 

 なのに、予定表のど真ん中に、勝手に師匠が書き込まれている。

 

「……世界、五分だけ待ってくれないかなぁ」

 

 寝起きでもないのに、そんな言葉が漏れた。

 

 返事はない。

 

 当たり前だ。

 

 世界は待たない。

 

 そしてキャロルも、たぶん待ってくれない。

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