問、起きたらなんか知らん魔神が大暴れしていた気持ちを答えよ。
「どうしてこんなに乱暴に叩き起こされなきゃいけないんだ……そう思わないか?」
そのへんの水スライムに訊いたが当然返答はない。
その「乱暴に叩き起こされた」仙人はあまり気にせずにぐっと伸びをした。どうせでかい独り言である。
仙人の号を「恵雨玄君」、名を
何百年かすやすやと眠っていたはずなのだが魔神再臨で飛び起きてしまった。寝起きの焦りといったらなく、思わず服も着ずに寝所を飛び出したほどである。もし人間体のまま港に行っていたら死んでいた。社会的に。
やっべーどうしようかな仙人たちはともかくモラクスの気配がないし、と荒波を御しつつ焦っていたところ、魔神めがけて岩槍もかくやという規模の爆撃が落ちその場は鎮まった。あれなんか武器っていうか建造物っぽい形だったけど大丈夫なんだろうか。
ひとまず魔神が再封印されたのを確認して戻って服を着た、それが今の状況である。
それから数日。
眠っているあいだのことを一通り把握し終わった渓月は、改めてあたりを見回した。
この前まで熟睡していたのは丁寧なしつらえの寝台で、その寝台があるのは石造りの――正確に言えば岩元素造りの、古色蒼然とした作風の建物である。
外から川が流れ込んできているが、渓月は水を司る仙人なので、むしろ快適ですらあった。便乗して水スライムがぽよぽよしているが、渓月は水を司る仙人なので、あまり不快ではなかった。襲われないなら許容範囲内である。
ここは記録によれば、岩王帝君手ずから創造した由緒ある建物らしい。数百年経っても未だに肌がピリつくほど強く残る岩元素は、なるほど確かに神の所業に違いない。
記録というのは同じ部屋の壁面に並んだ書架の中身で、巻数で言えば二十ほどもあるだろうか。湿気でよれた頁は少しめくりにくい。それを考慮してか同じ内容が刻まれた石板もあった。恐ろしく嵩張っているが、その配慮はありがたい。
渓月は全く、全然、これっぽっちも、記録された内容を覚えていなかったので。
そんなことあったっけ? 書いてあるからにはあったんだろうな……とそういう感じである。困ったことだ。
――水を揺らす足並み。
「うん?」
渓月はふと出入口の方向を注視した。人間の気配だ。
仙人ではない。ではないが、どこか懐かしい気配がする。そんな面妖な知り合いがいただろうか。……いたのかもしれない。覚えていないだけで。
邪悪な意思は感じないので、気配が近づくのをじっと待つ。仙人は得てして気が長い。長生きだからだ。
人影が渓月の居室に足を踏み入れた瞬間、その場にいた全ての水スライムが戦闘態勢をとった。
「うわっ!」
「パイモン下がって」
「おやめ」
人影――とそれにくっついてるなんか浮いてるのが身構えたが、水スライムたちは渓月の制止に従って彼らを襲うのをやめた。
渓月はゆったりと腕を組む。この仙にかかれば水スライムなどこんなものである。
慎重に剣を納めたのはまだ成人もしていないような、歳若い金髪の人間だ。その後ろからこわごわ顔を出した浮いてる小さいのは、よくわからないものの仙霊か何かだろうとみえた。
礼儀に則って渓月は挨拶をする。
「こんにちは」
「こ、こんにちは……」
「っておまえ誰だよ! 仙人はどこだ!?」
「私が仙人だが?」
何の話だ。
子供の声で詰問されて渓月は目をすがめた。仙人を探しにきたにしては敬意がなさすぎるのでは。
敬われねば嫌というわけではなく、ただ状況の齟齬が気になったのだ。一般論として仙人を敬わない凡人は珍しい。
「パイモン……」
金髪の人間が呆れた声で小さいのをたしなめている。パイモンと言うらしい。
近づいてきた水スライムを拾ってぽよぽよしながら渓月は訊いた。
「それで、どういう用件かな」
来訪者二人……一人と一匹?は顔を見合わせた。
「えっと……オイラたち、仙人を探してるんだけど」
二人が交互に話す事情を聞く。
オセルとかいう魔神のときに港に現れた、白い龍の仙人で、恵雨玄君。
ふむ、と渓月は頷いて、水スライムを放り投げた。
「それなら私のことだな」
「でもピンばあやは女の仙人だって言ってたんだぞ! おまえは女には見えない!」
そばの水面でぽよんと跳ねた水スライムを目で追ってから渓月は言った。
「え?」
「え?」
「『え?』ってなんだよ!」
「い、いやちょっと待ってくれ」
水鏡を生成して全身を確認する。そこに映っているのは長髪の人影だ。
量のある毛髪はまっすぐで、腰ほどまでもある。それは自分でもわかることだ。渓月は肩口の毛束を指でつまんだ。色は白い。
まとう服の袖は広く、丈は短く、上下で分かれていて活動的だ。様式は女物のそれ。足は裸足で、片方の足首に神の目のついた輪飾り。これも鏡を見なくてもわかる。
――で、と渓月は水鏡の中の顔を見つめた。困りきった表情の白藍の瞳が見つめ返してくる。
背は特別高くも低くもない成人の大きさ。身体の線に丸みはなく、くびれのない腰はまっすぐだ。剝き出しにした脚の輪郭もすんなりとしていて、男性のたくましさはないが少なくとも女性特有の柔らかさはない。
渓月は試しに水鏡に対して横向きに立ってみた。腰はともかく胸が真っ平らなのがよくわかる。
仙人は呆然と呟いた。
「どうしよう……女装趣味の変態がいる……」
「……」
「……」
返答に困ったらしい沈黙を漂わせる客人たちに向き直り、渓月は深く頭を下げた。
「すまないが、まともな服を調達してきてくれないか。後で必ずモラは返す」
璃月最古の仙人のひとり、恵雨玄君は、この日おそらく初めて借金をした。
一般的――なのだと提供者は言っていた――な璃月の男性服に袖を通す。それでやっと人心地のついた渓月は、肩の力を抜いて提供者に礼を言った。
「重ね重ねありがとう。それからすまなかった」
「大丈夫」
「オイラたち雑用には慣れてるからな!」
パイモンが胸を張る。渓月はちょっと気まずくなって肩をすくめた。
普段なら褒美をとらすくらいの発言は許されるが、今は少し状況が違う。
「で――女仙を探しに来たと言ったな?」
うん、と異邦の旅人とパイモンが微妙な顔で頷く。渓月も同じような顔をしているはずだった。
「私の記憶に間違いがなければ、私こそが恵雨玄君渓月、水を司る女仙だが」
渓月は右の掌を見て、手の甲を見て、また掌を見てから言った。
「全然違うなこれは」
「うん……」
仙人は旅人の胡乱な視線を手で遮る。指が長くて掌の薄い、丸みのない手だ。
「あいにく私は起きる前のことを全然覚えていないから、有力な情報は提供できそうにない。すまないな」
「えっ」
「えっ!?」
「嘘じゃないぞ」
顔に書いてあったので先回りして断っておく。
渓月は続けた。
「つまり君たちの思う通り、私の記憶は大間違いで、実際の正体は記憶喪失になった挙句自分を仙人だと思い込む奇人だという可能性がある」
「そ、そこまで疑ってるわけじゃない……」
「可能性の話だよ。もちろん私の姿が大変身した線もある」
「……そういうのあるのか?」
浮いた子供が全く信じていない表情で尋ねる。
自称仙人は真面目な顔で答えてやった。
「でなければ、寝る前の私がぱっつぱつの服で女装する趣味があったことになってしまうだろ」
笑いを堪えようとしたらしい二人が変な咳払いをした。
「と、とにかく!」
パイモンが大声を出す。高い声は建物の中によく響いた。
「ここで言い合ってても仕方ないよな。ちゃんとした仙人に確認しに行こうぜ!」
自分がちゃんとしてない仙人なことは否定のしようがなかったので、渓月は黙って旅人たちに従った。
浮いた子供と会話しながら先を歩く旅人の背中は小さい。まだ成長の余地を残した体躯は華奢だが伸びやかだ。渓月はほっこりとその後ろ姿を眺めた。
時折出没するアビスやらスライムやらの魔物を危なげなく斬り捨てつつ、旅人は出口までを先導する。しかし足取りは少し重たくて歩きにくそうだ。そもそも川を引き込んでいる建物で、床面が基本水浸しだからだろう。水位はくるぶしほどまでもある。
渓月は裸足だし、濡れて困ることなど一切ないが、人間はそうではない。ふむ、と暫定仙人は頷いた。
「……!?」
弾かれたように振り返った旅人がお前か!? と表情で問う。
渓月は笑って、ひらひらと手を振った。
「少しは歩きやすくなったかな。気が利かなくてすまない」
「だって、神の目が……!」
「神の目? 持っているよ」
渓月は足首につけた宝石を示してみせた。見にくかっただろうか。
「そうじゃなくて……」
「ええっ!?」
ふわふわ飛んで足元を覗き込んだ小さいのが叫んだ。
「お前の神の目、岩じゃないか!」
「うん」
「え?」
「何かおかしいか? 君だって神の目を持っているようには見えない」
渓月は首を傾げた。渓月には神の目は元素色の光を放って眩しく見えるが、旅人の姿にその光は見当たらない。
「そ、それは……そうだけど……」
「でもこの世界の人間は元素力を操るのに神の目が必要だろ? 仙人だって持ってるぞ? 魈とか、甘雨とか」
ショウやカンウが誰だかわからなかったが、渓月はひとまずパイモンの言わんとする内容は理解して、それから困って眉をひそめた。
「できるものはできるんだが……困ったな、私の正体がさらに疑わしくなってしまった」
仙人すら神の目を必要とするなら自分はいったい何だというのか。渓月は両手を出して水球をお手玉してみた。ちなみに岩元素でやれと言われてもやり方がさっぱりわからない。外付けの魔力器官とか言われても困る。外付けでは使えないではないか。
旅人が顎に手を当てて考え込むようにする。
「やっぱり仙人なのかな……」
「確証が出るまでは怪しんでおくのがいい。私も気になる」
「そんな他人事みたいに」
渓月は軽く笑った。物事の比重は仙人と人間では異なるものだ。自分が真にそうかどうかはともかく、思い込んでいる限りでは仙人なのだから、人間と同じように思い悩みはしない。
この寝所は広くない。彼らはほどなくして建物の外に出た。降り注ぐ陽光が気持ちいい。
渓月は目の上に手を翳して遠くを見晴るかす。稜線の影に覚えのあるような、ないような。寝る前の記憶を綺麗に忘れ去った脳で思い出すことは特にない。手を下ろした。
「なあ、仙人らしいことは何かできないのか?」
小さな仙霊が問いかけてくる。渓月は問い返した。
「仙人らしいこと?」
「例えば……どかーんと敵を倒したり、しゅぱっ! と仙術を使ったりみたいなことだ!」
「どかーんしゅぱっ、ね……敵を倒すのに仙術は要らないが、そうだな」
渓月は今出てきた建物を振り返って、片手で印を組んだ。
「隠」
景色が陽炎のように揺らいで、それから建物が消えうせる。見た目には自然豊かな何もない土地になったのを確認して、術者は満足と共に頷いた。
子供の歓声があがる。
「ええ――消えたぞ! お前すごいんじゃないか!?」
「見えなくなっただけだよ。いない間に寝床を荒らされては困るからね。こんなものは方術でもできるだろうから……」
何の証明にもならない。渓月は肩をすくめた。
「さて、君たちはどうやら仙人に縁があるとみえる。誰のもとに連れていってくれるのかな」
「ピンばあやのところだ! 知ってるか?」
自称仙人は微笑んだ。
「――全然知らない」
で、やっぱり全然知らなかった。
璃月港の広場――案の定街のつくりにもとんと見覚えがない――で引き合わされたのは腰の曲がった老婆である。
旅人が事情を説明するに従って彼女の顔は困惑の色を強くし、終わるころには困り果てていると言ってもいい様相だった。
「……まさか、玄君?」
「少なくとも、そう呼ばれる見た目ではないな……」
渓月は眉を下げて正直に答えた。玄君というのは女の仙人にのみ許される号で、今の自分がパッと女に見えるかというと、たぶんそうではない。
「ええと……名を聞いても? 私は渓月という」
「名をピン、号を歌塵浪市真君と」
「そうか……」
やっぱりわからない。寝床にあった記録にその仙号が記されていたような、気のせいだったような。読んだ記憶すら既に遠く崩れかけている。
事態をおろおろと見守っていたパイモンが情けない声を出した。
「ピンばあやでもわからないのかよ……?」
「すまんのう、子供たち……仙力からして、この方が仙人であることは間違いがないのじゃが……」
老婆は渓月を見上げる。渓月も老婆を見下ろす。お互いにとても困っている。
背の高いほうの仙人は軽く息をついて微笑んでみせた。少なくとも自称仙人から仙人にランクアップできたのはいいことだ。
「ひとつ断言してくれただけでも十分だ。ありがとう」
「お役に立てんで申し訳ないのう」
「いいや」
渓月は旅人たちにも笑みを向けた。足を揺らすと一緒に足首の神の目も揺れる。
神の目は岩の色をしている。この国の色だ。
「仕方がない、モラクス……岩王帝君に会いに行こう。彼なら決着をつけてくれるだろうから。
「――えっ?」
空気が凍った。
「……どうした? 何かまずいことを言ったかな? 彼は私の友人だから、急に行っても大丈夫だと思うけど……」
岩王帝君が嫌われているなどということがあるだろうか。この璃月で? まさか。
旅人がおずおずと顔を覗き込んでくる。
「渓月……知らないの?」
「し、知らない……な?」
具体的に何をかはともかく、彼らが衝撃を受けている原因を知らないことは確かだ。
旅人はうろうろと視線をさまよわせて、何度か唇を舐めて、それからひどく言いにくそうに切り出した。
「岩王帝君が……『亡くなった』、って……」
「――は?」
「あ、待って、待って渓月!」
咄嗟に駆け出した。後ろのほうで凡人が何か叫んでいる。それどころではなかった。
――岩王帝君の死について。
「……すまない、このことについてはあまり話したくない」
――岩王帝君の死について。
「ああ……岩王帝君が亡くなられた……もちろんとても悲しいのですが、いつもと同じように生活を続けるしかないです」
――岩王帝君の死について。
「ああ、今でも信じられないよ。岩王帝君がもういないなんて、俺の父と祖父が生きてたら、どんな顔するだろう」
――岩王帝君の、
走って、走って、いつの間にか璃月港の北の端に来ていた。渓月は広場に立ち尽くす。
仙人たる渓月の息はこんなことでは切れない。今吐息が震えているのは全く別の理由だった。
「……モラクス、」
唇から零れた言葉が風にさらわれていく。
街を行く民を手当たり次第につかまえて訊ねた、その返答はあまりにも残酷だった。
岩神モラクスは真実死んだのだ。そう理解するしかなかった。
立った地面が揺らいでいる気さえする。渓月はゆっくりと膝をつくと、強張った指で足首の神の目に触れた。
「我が君……」
この宝石にかけた誓いがある。……その相手がもういない場合は、いったいどうすればいいのだろうか。
「……
肌が粟立った。
細く息を吸いながら振り返る。
がむしゃらに走ってきたほう――南側からではちょうど建物の陰になって見えない卓子に、ひとりの美丈夫が腰掛けている。
身にまとっているのは仕立てのよい洋装だ。長く伸ばして括った髪は濃茶、毛先にはっきりとした岩元素の色。まっすぐな眉と目元に薄く朱を引いた化粧、――そうして飾られた黄金の瞳。少し瞠られた形は驚愕を示している。
美丈夫は驚きの表情を落ち着けたあと、そっと窺うような表情をした。
「渓月……俺がわかるか?」
「……」
渓月は弾かれたように立ち上がって駆け出した。
たとえ――たとえ全ての記憶が時の中に崩れ落ちても、忘れるものか。
この国を愛し、この国が愛し、渓月が愛した、この国の神の瞳を、その声を。
彼が渓月と呼んだ。ならば自分は渓月だ。そうだろう。
疾走に合わせて神の目が跳ねる。猛然と駆け寄ってくるのに何を思ったか、彼はふと腰を浮かせたが――もう遅い。
「――この馬鹿野郎ッ!!」
渓月は親愛なる神に向かって全力で飛び蹴りを放った。
周りの凡人がなんか悲鳴をあげているがよく聞こえない。
モラクスは最小限の身のこなしで身をかわすと、着地際を狙って床に組み伏せてきた。
辛うじて腕をねじ込んで関節を極められるのを防ぎ、なんとか一発ぶん殴ってやろうと藻掻きながら怒鳴る。
「何を考えてるんだ君は!! もし本当に君のことがわからなかったらどうするつもりだったんだ!? ええ!?」
「落ち着け」
「落ち着いていられるとでも思うのか!?」
「悪かった。説明をするから落ち着け」
「心配したんだぞ!! 」
「頼むから落ち着いてくれ……」
顔は見えないものの背中側から困り果てた声音が降ってくる。どよどよする周囲ごと無視して渓月は憤然と身をよじった。
「大人しくしろ!」
鼻先に槍の鋭い穂先を突き付けられてさすがに黙った。
ゆっくりと背中から荷重が消える。渓月は腕をついてそっと顔を上げた。
軽鎧に身を包んだ衛士が数人、厳しい表情でこちらに槍を向けている。
「千岩軍である! 暴行容疑で逮捕連行する。大人しくついてきてもらおう」
「……」
同じくそっと振り返ると、モラクスは沈痛な表情で額に手を当てている。
なるほど、と渓月は思った。
たとえ神がいなくなろうとも、璃月は今日もつつがなく厳然たる契約の国であるらしい。
仙人は大人しく両手首を差し出した。
モラクスのとりなしで開放されたころには、高いところにあった陽が既に橙色に翳り始めていた。
どうやらこの男は凡人として世に馴染んでいて、しかもそれなりに信頼が篤いらしい、と渓月は察する。でなければこの仙は今ごろはまだ犯罪者として詰所に勾留されていたことだろう。仙なのに。
まあ、これに関しては衆目があるにも関わらず頭に血が昇った自分が悪い。
渓月はそう自分を納得させて、前を歩く男の背中に声をぶつけた。
「それで君はこんなところで何をしているのかな、『鍾離先生』?」
そう呼ばれていたはずだ。
彼はちらりと振り返って答えた。
「ああ、もちろん説明はしよう。いい場所を知っているんだ。お前と再会した記念に出向くのも悪くはない」
そう言って連れてこられたのは絶雲の間でも仙境なんでもなく、璃月港のど真ん中に立つ茶室だった。こんなことろで積もる話ができるだろうか。
会釈ひとつで入口の護衛を突破した彼のあとについていく。物珍しさにきょろきょろする渓月を見咎めたか、女がひとり歩み寄ってきた。従業員には見えない。
「こんにちは、鍾離先生。来ていただけるなんて光栄です。そちらの方は?」
「久方ぶりだな、夜蘭殿。これは友人の渓月という。二人で茶を楽しみたいのだが、部屋は空いているだろうか」
女は左右均等に唇を引いて微笑んだ。肩に変わった上衣を掛けているのが印象的だ。
「ええ、もちろん。奥の部屋へどうぞ。――そこのあなた、案内してさしあげて」
上等な調度品の揃えられた個室に案内されたあと、渓月はぽつりと呟いた。
「優雅に茶を楽しむ茶室じゃなさそうだ」
渓月は凡人の暮らしにあまり詳しくないが、少なくとも茶室なら他の部屋から定期的に怒号やらすすり泣きやらが聞こえることはないだろう。
モラクス――鍾離、は上衣を脱いで壁に掛けながら肩をすくめた。
「少なくとも、この璃月港で秘密の話をするのに最も適した場所だ。郊外まで出向くのには時間がかかるからな」
「そうかい。君がそう言うならいいけど」
椅子に腰を落ち着けた男の、向かいに渓月も腰を下ろす。
従業員がしずしずと茶と菓子を置いていったあと、仙人は挑むように口を開いた。
「さて、それじゃあ話を聞こうじゃないか」
目の前の神は黄金の双眸をひとつ、ぱちりと瞬かせた。
「ああ。――俺の今の名は鍾離、往生堂に客卿として身を寄せるものだ」
彼は語った。六千年の重み。凡人同士の会話で耳にした「責務」の意味。摩耗のこと。璃月の民のこと。七星のこと。
――迎仙儀式に合わせて画策した『岩王帝君の死』の演目、『旅人』のこと、ファデュイのこと、氷神との契約のこと。
「かくて岩王帝君は天に昇り、今ここにいるのは凡人の鍾離というわけだ」
しれっとした顔で締めくくった鍾離を、水の仙は半眼で眺めた。凡人は数百年も前から眠っていた仙人を友とは呼ばないし、身のうちに明らかな仙力を湛えたりもしない。うまく隠しているが渓月にはわかる。
まあ、本人がそう主張するなら揚げ足は取るまい。要は立場の話なのだろう。
つまりつつくべきはそこではなく。
「それでどうして私に何も言わずに勝手に死んだ?」
「よく寝ていたからな」
「起こすなり夢枕に立つなりあっただろう」
問い詰めると彼はあっさりと頷いた。
「そうだな。七星と仙人の夢枕には立った」
「わ、た、し、も、仙人だが!?」
むしろずっと寝ていたのだからいつでも夢枕に立てたはずである。そうだな、と友は視線を逸らし気味に頷いた。
「……悪かった。告げたらお前は飛び起きてきただろう。調子が悪かったとしても。無理に起こすには忍びなかった」
「言いたいことはわかるけど……」
そこまで愚直に安眠を考えてくれなくてもいい。この仙のことを赤子だとでも思っているのか。
渓月は目の前の自称凡人を軽く睨んだ。
「よかったな君、ここが仙境だったらもうひと暴れしていたところだ」
悪かった、と鍾離はもう一度言って、こちらに掌を見せて降参の身振りをした。それで溜飲を下げてやることにする。
彼が神を辞めたことに対する不満はない。自分と違ってずっと起きていた彼が、その思慮深さでもってこの国を人に託すと決めたのならば、渓月に異を唱える権利はないからだ。それだけの信頼がある。
「では、無事に……無事に? 禅譲が叶って何よりだ。……まったく……」
渓月は首と肩の力を抜いて、思い切り椅子の背もたれにもたれかかった。質のいい椅子は軋む音ひとつ立てず、綿の詰まった面の感触は柔らかい。
「本当に心配したんだからな……」
「許せ。ところで、渓月」
「どうか」
よいしょ、と背筋を伸ばす。
鍾離はひとくち茶をすすって、それから真っ直ぐこちらを見た。
「身体の調子は?」
「良いよ」
「痛むところは?」
「ない」
「以前のことはどれくらい覚えている?」
「……全然?」
「……」
黙られては居心地が悪い。今度は渓月が目を逸らして言い訳をする番だった。
「それこそ許してくれてもいいんじゃないか……不随意の現象だ。君のことはわかったんだし……」
「怒ってはいない」
「あ、うん」
記憶がどこぞへすっ飛んでしまったのは仕方がない。それは渓月にとっての摩耗のかたちで、テイワットにおける定めだ。ただよりによって記憶力の素晴らしいことに定評のある男の前なのが気まずいだけである。
ちらっと横目で鍾離を見る。彼は特に表情を変えずに、具体的には、と促した。
「えっと……地名は何とか。人は……どうだろうな、君以外の知り合いに会っていないから何とも言えない。出来事は全然心当たりがない」
「旅人はピンに会ったと言っていたが?」
渓月はきょとんとした。
「えっ君が盛大に巻き込んで振り回したっていう旅人と私って知り合いなのか?」
鍾離が片眉を上げる。
「今日の午前、記憶喪失を案じて港まで案内したと言っていたぞ。ピン――歌塵浪市真君に引き合わせたとも」
渓月は白い髪先を弄んだ。
「ああ……うん……全然駄目だな……」
そうだったかも、というぼんやりした心当たりすらない。言われてみれば今日あったことの詳細が全部飛んでいるし、寝床で読んでいたはずの数多の記録の中身ももう覚えていない。
いやこれは本当に駄目だな、と仙人は項垂れた。いくら凡人より緩やかな時の流れに生きているとはいえ、いくら岩王帝君逝去などという衝撃的な情報を知らされたとはいえ、一両日中のことを忘れるのはもはや呆け老人である。
ふう、と鍾離もため息を落としたようだった。
「……そうか。では、そのように対応するしかないだろうな」
「面目ない……ん?」
言い回しに違和感があった。渓月は改めて鍾離を直視して――なんでもないような顔で茶菓子をつまんでいる――ぱちくりと瞬いた。
対応する。対応?
「誰が?」
「俺がだ」
「君!?」
む、と鍾離が眉を寄せた。わざとらしい表情の作り方は拗ねているそれだ。
「寝直す気はないんだろう。何をそんなに驚くことがある?」
「いや、隠居するつもりだったから……凡人殿が介護してくれるとは……」
普通に郊外の山とかで過ごすつもりでいたのである。彼の話によれば、もはや凡人を手取り足取り導く時代ではないらしいので。
鍾離は拗ねた顔を装うのをやめ、ふっと諧謔みのある表情で微笑んだ。
「また俺が死んだと血相を変えられてはたまらないからな」
「う……」
全く否定できない。
鍾離はさらに続ける。
「過去を忘れてしまったことと今を記憶できないことは、厳密に言えば違う現象だ。繰り返し刷り込めば覚え直すことが可能かもしれない。それには友人が必要だ、そうだろう?」
「そ、そうだけどそうかな……」
もっともな言い分だが正直あまり自信がない。渓月は人差し指で毛先をくるくるした。
そりゃあそう何度も友の死に焦りたくはないし、街中で飛び蹴りを食らわせて連行されたくもないけれども。
「少なくとも頻繁に顔を合わせていれば忘れられることもないだろう。俺の凡人生活に付き合ってもらうぞ」
渓月は思わず笑った。凡人が己の暮らしを凡人生活などと自称するものか!
「あはは――では、仰せの通りに。これを機に凡人に混じってみるのも悪くない。凡人好きだしな」
「――そうか」
鍾離はもう一度、今度は含みのない色で微笑んで、静かな所作で席を立った。
「そうと決まれば場所を変えよう。ここは密談にはいいが、飲食には向かない」
「ふうん、どこへ?」
渓月も服の裾をさばいて立ち上がる。
壁にかかっていた上衣を手渡してやると、鍾離はさらに楽しそうに目を細めた。
「美味い酒を出す店を知っている。俺の奢りだ」
「乗った!」
――まさか彼が財布を持っていないなどと、渓月は思いもしなかったのである。
ここすきお待ちしてます!!ぽちっとしてね。