河岩帯礪   作:海野ミウ

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 ──龍を見た。白い龍だ。

 

 その水夫が龍を見たのは帝君逝去からまだ間もない日のことだ。荒波を御したその姿を、今でも鮮明に覚えている。

 凡人の身なれどどうしても感謝の意を伝えたく、璃月を救った英雄──異邦の旅人──に依頼したのが、たった二日前かそこらのことだ。件の仙人を見つけた、と旅人から知らせを受けた彼は、案内を受けて遥か仙人の住まう絶蜂──慶雲頂にやってきていた。

 石畳の道を踏んで歩く。空に根を張る浮生石を足場にしてまで進むのは彼にとって始めてのことだが、前を行く旅人はまるで気負った様子がない。

 

「着いたよ」

 

 やがて旅人が示したのは、山中に誂えられた広場だった。奥に古く巨大な香炉がそびえている。

 

「来たぞー!」

 

 旅人のガイドだという仙霊めいた子供が驚くほど無遠慮な声を上げる。水夫はそれを窘めようと唇を開いて、

 

「凡人の身でよくぞはるばるやってきたものだ」

 

 ──岩陰から伸び上がった白い影に、そのまま言葉を忘れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自分を見上げてひとしきり呆けたのち平伏せんばかりの勢いで長々と感謝を述べ始めた凡人を、やんわり言葉を尽くして帰らせるのには少しばかり苦労を伴った。

 山道を下っていく後ろ姿をしっかり確認してから、龍の姿の渓月はうーんと首の筋肉を伸ばす。

 

「ああ──ずいぶん熱心だったな、彼は。案内ご苦労さま」

「こっちも依頼がひとつ片付いたから、大丈夫」

 

 水夫と共にやってきたが帰りはしなかった旅人は、渓月を見上げて──今の全長は大人の人間四人ほどもあって高さもそれなりだ──にこりと微笑んだ。その肩の後ろでパイモンがふわふわそわそわしている。

 龍は深く切れ込んだ口の端を緩めるようにして笑って、人間の姿のときと比べれば一回りも二回りも大きな頭を寄せてやった。

 

「触るかい?」

「いいのか!?」

 

 渓月の頭には角がないから、周りを小さな子供が飛び回っていても危なくはない。鱗をぺたぺた触ったり耳飾りのついた耳を揉んだりする小さな手を感じながら、龍は旅人のほうにも鼻先を向けた。

 

「君は?」

「仙人なのに、いいの?」

「私が困るのは街中で仙人だと騒ぎ立てられることで、凡人と触れ合うことじゃあない。龍は珍しいだろう?」

「じゃあ、ちょっとだけ……」

 

 旅人は丁寧な手つきで鼻面を撫でる。

 渓月は凡人が好きだし、関わることは苦ではない。白龍の仙人を探す依頼があるから協力してくれないかと頼まれて、人間体ではなく龍体で一芝居打つことにしたのは、威厳を保つためではなく顔を覚えられたくなかったからだ。

 その原因たる男の声が、背後から笑い含みで飛んできた。

 

「ずいぶん楽しそうなことをしている」

 

 ぴゃ!  と声を上げたパイモンが離れていく。 旅人も照れたような顔で手を引いた。

 渓月は横目でちらっと目線を投げて唸った。

 

「こら、驚かせるんじゃない。君も好きに触ればいいだろう」

「そうか?」

 

 手袋越しの掌が気安い仕草で細長くなった胴を撫でて、それから鍾離の顔が視界に入る。

 すべては彼の凡人生活に付き合うために必要だったことだ。渓月が仙だと認知されれば、その仙人とのんきに酒を呑んでいる鍾離まで勘繰られかねないのだから。自称とはいえ彼は凡人、その意向は汲まねばならない。

 鍾離は身を隠していた岩を指した。

 

「旅人はお前にもう一つ用事があるそうだ。そろそろ着替えてきてはどうだ?」

「あ、そうだったのか。……それはすまない」

 

 旅人とパイモンが頷いている。渓月はちょっと気まずくなって耳を伏せた。

 先ほどの小芝居に参加しなかった鍾離がこの場にいるのは、渓月が絶雲の間に先行しているうちに旅人との約束を忘れかねなかったからだ──というか彼の談によれば二回ほど聞き直している。そして今もひとつ忘れ物が判明した。

 

 渓月は長く伸びた胴体を折りたたむようにして岩陰に入ると、身体を編み直して人間体をとった。このままだと全裸なので、ややもたつきながら畳んであった服を身につける。この手間があるからできれば人間の姿でいたいのだが。

 身なりを整えた渓月は鍾離と何やら話している旅人に歩み寄った。

 

「それで、用事というのは?」

 

 旅人がこちらを向いて口を開く──前に、パイモンがびしっと人差し指を突きつけてきた。

 

「服代五千モラ! きっちり返してもらうぞ渓月!」

「えっ」

「……」

 

 契約の神の視線が頬に突き刺さった。

 

 

 話を聞いた渓月は額を押さえた。

 つまりは今着用しているこれは自分が頼んで彼らの懐から出してもらったものだと、そういうことか。

 

「それは由々しき問題だ」

 

 腕を組んだ鍾離がいかめしい顔で頷く。

 

「たとえ書面を交わしたものでなくても、金銭の借用と返済は厳密に履行されるべき契約だからな」

「……えっと、モラは持ってる?」

 

 旅人に慎重な声音で問われて渓月は微笑んだ。

 

「これを売ったらいくらになるかな?」

 

 指で耳に提げた飾りを持ち上げる。大きな(めのう)でできた手触りは滑らかで、少なくとも二束三文で買い叩かれることはないだろう。

 

「つまり持ってないってことじゃないか!」

 

 白い子供が空中で地団駄を踏む。起きたばかりなんだ、と渓月は言い訳をした。

 モラはあらゆる術の触媒にして世界を巡る貨幣だが、仙道に住まう者は別にモラに縋らずとも生きていけるのである。

 

 難しい顔をした鍾離が距離を詰めてくる。手袋を外した指を伸ばしてくるので、渓月は軽く髪を掻き上げて珂に触れやすくしてやった。

 ひとしきり確かめるように撫でてから彼は評定を下す。

 

「これは今は採れない種類の玉石で、加工方法もごく古い。保存状態も良好なようだ。価値のわかる者に売れば良い値がつくだろう」

 

 旅人の頭の上から白いのが身を乗り出した。

 

「おお!」

「パイモン、あの耳飾りを貰えるわけじゃないからね」

「わ、わかってるぞ……でもワクワクするだろ!」

「しかし、仙人が長く身につけていたものが凡人にどんな影響を与えるかは、俺にもわからない。それに……」

 

 彼らのやりとりにあまり頓着せず鍾離は続け、一度黙った。眉を上げて続きを促すと黄金の瞳が軽く細まる。

 

「贈り物を金銭のために売り飛ばされるのは、あまりいい気がしない」

「ご、ごめん」

 

 反射的に謝ってから、渓月は困った形に眉を寄せた。

 

「じゃあ……他になにか良案はあるか?」

 

 借金は何としてでも返さなければいけないわけで、渓月は今身にまとっているものの他にろくな資産を持っていないのだ。洞天くらいどこかにあるのかもしれないが全部忘れた。

 

「もちろん」

 

 鍾離はキュッと手袋をはめ、託宣のごとく厳かに告げた。

 

「就職先を探すといい、渓月」

「おお! オイラもそれがいいと思うぞ!」

「モラが貯まるまで待つよ」

 

 四方から賛成意見が飛んでくる──が、渓月は表情を苦くした。

 労働の対価は金銭である。

 それは岩王帝君がこの世に契約をもたらす前から存在する、最も原始的な契約の形──履行するには、そもそもその存在を覚えている必要がある。

 

「……鍾離?」

「なんだ」

「私のこの状態で、誰かと雇用契約を締結できるかな?」

「……ふむ。雇用形態によるな。事前にこと細かに申告しておけば揉め事は避けられるだろう……」

 

 鍾離はしばし首を傾げて、目線を滑らせて旅人を見た。

 

「どうだろう、旅人。これに冒険者は務まると思うか?」

 

 うーん、と母音を長く伸ばした唸り声がふたりぶんあった。

 顔を突き合わせてごにょごにょと相談したあと、あっ! とパイモンから高い声が上がる。

 

「そうだ! 旅人、冒険の証を見せてやったらどうだ? 書きつけておいたら忘れても大丈夫かもしれないだろ? ……おまえ、字は書けるよな?」

「書けるよ」

 

 渓月は笑って答えた。読み書きに不自由はない。……今のところは。

 旅人が示したのは茶色の表紙の手帳だった。こなすべき依頼や、めぼしい魔物の位置などが記されている。

 

「なるほど。これは便利だ」

「冒険者協会のキャサリンってやつはすごく親切なんだ! おまえのことも説明したらわかってくれるかもしれないぞ!」

「少なくとも相談してみる価値はあると思う。協会はいつだって冒険者を募集してるしね」

 

 なるほどなるほど。渓月は頷いた。

 

「君がそう言うならなんとかできるかもしれないな。すまないが案内を頼めるか?」

「もちろん」

 

 旅人はにこやかに了承してくれた。

 うーん、とパイモンが空中で伸びの仕草をする。

 

「今から璃月港に戻るとお昼を過ぎちゃうぞ……オイラお腹が空いてきた……旅人、渓月、先にお昼にしないか?」

「うーん、鶏肉があるよ。スイートフラワー漬けでいい?」

「オイラしょっぱいものが食べたいなー」

 

 どうやら軽く野営する話になっている。鍾離も異論はないようだが、渓月は少し考えた。

 璃月港までには確かに距離がある。徒歩で向かうとなると時間がかかるのも確かだ。彼らは仙人のように空間を渡ったり駆け通したりできるわけではないし、仙人よりずっと速く貴重な時間に生きている。

 

「旅人、もし君が良ければだが、港まで送っていこうか?」

 

 ふたりは同時にきょとんと瞬き、そしてパイモンが顔を輝かせながら身を乗り出した。

 

「いいのか!? 背中に乗せてくれるのか!?」

「でも、すごく目立ってしまうと思うけど……」

 

 彼らが何を勘違いしているのかを理解して、渓月はちょっと笑った。

 

「ああ、龍体では目立つし嵩張るな。それにまた服の脱ぎ着をするのは面倒だ。ただの仙法の一種だよ。期待に添えないのは申し訳ないけど、借金をしているうえに案内までしてもらうのなら、足くらいにはなろうかと思って」

「それなら、ぜひ」

「仙法なのか? オイラたちに何か手伝うことあるか?」

「大丈夫。ただ、少し場所を変えよう。──君も来るだろ?」

 

 静かに成り行きを見守っていた鍾離に確認すると、彼はああ、と頷いた。

 頷き返した渓月は山道を下へ先導する。少し下るとすぐに小さな池に行き当たった。

 水の仙はざばざばと中に入っていって、ある程度のところで振り返って岸辺へ両手を伸ばした。

 

「ほら、手を」

「えっと……」

「心配はいらない。濡らしたりしないし、本当にすぐ着くから」

 

 出した手にまず鍾離の掌が乗る。戸惑っている様子の旅人とパイモンを見てか、彼は口を添えてくれた。

 

「多少慣れない体験かもしれないが問題はない。俺もこの慶雲頂に同じ方法でやってきたが、腕前は衰えていなかった。大丈夫だ」

 

 彼の保証が功を奏したか、まず旅人の手が、ついでパイモンの小さな手が、逆側の掌に重なった。

 渓月はにっこり笑って、ぎゅっと彼らの手を握った。

 

「息は止めなくてもいいからね」

 

 ──とぷん。

 

 

 

 

 

 

 

 かつて渓月が賜った仙号は恵雨玄君という。

 雨を恵むもの。璃月最古の仙のひとりにして、豊穣と癒しを司る白き龍。

 しかしてその本性は──河、である。

 

 

 

 

 

 

 

「──っぷはぁ!」

 

 顔を出した途端誰かが大袈裟に息を吸う音がして、渓月は連れてきた三人を慌てて陸地へ押し上げた。

 

「ご、ごめん! 苦しかったか!?」

 

 渓月には馴染んだ移動方法だが凡人を連れるのは初めてだ。鍾離はいいとして、旅人とパイモンの顔色を慎重に窺う。

 二人はぷるぷると頭を振った。

 

「大丈夫だよ」

「オイラも大丈夫……ちょっとびっくりしただけだ」

「よかった。うっかり濡れたりもしていないな?」

 

 うん、とふたりぶんの頷きが返ってくる。胸まで水に浸かったまま渓月はほっと息をついた。

 

「渓月」

 

 目の前に鍾離の手が差し出される。

 仙は有り難く手を借りてざばりと水から上がり、指を振って全身から水元素を除去した。渓月自身はずぶ濡れでも全く気にならないが、それで街中を闊歩するわけにはいかない。

 

「すごい……もうこんな近くまで来ちゃったんだ」

 

 旅人の呟き。視線を追って仰ぐと活気に溢れた璃月港がすぐそこに見える。ここは港のすぐ北にある浜辺だ。

 

「すっごく速く泳いでるみたいな感じで面白かったな! 思わず息を止めちゃったけど……」

「ああ、だいたいそんな感じだ」

 

 渓月は肯定した。璃月の仙の何人か──誰だかは忘れた──は空間を渡る術を持つ。渓月のこれは水脈に溶け込んで移動するもので、速度と呼吸を除けば泳いでいるのとあまり変わりない。欠点は水脈のないところには行けないことか。

 ううん、と仙人は伸びをした。

 

「さて、それじゃあ行こうか──先輩?」

「おう! オイラのことも先輩って呼んでいいぞ、後輩!」

 

 調子に乗りすぎ、と旅人が叱った。

 

 

 

 旅人は真実一目置かれる存在だったらしく、冒険者協会の受付を一手に担っているという女性は渓月の入会を快諾した。記憶力の惨状を説明したうえで、だ。

 

「承知いたしました。こちらでまめにお声掛けしますね。日々の依頼はこなせなくても罰則はありません。旅人の推薦なら戦闘力も問題ないでしょう」

 

 しかも種々の優遇措置つきだ。なんともありがたい。

 渓月は受け取った手帳をしげしげと眺めた。表紙と中身の新品なほかは旅人に見せてもらったのと全く同じものだ。中には渓月のものではない、書きたての字で、今日こなすべき依頼とその留意事項が記してある。

 一日に回される依頼は大から小まで四つ。報酬は一件ごとにだいたい五千モラだから、今日中に一件こなせば旅人に借りたモラは返せることになる。……報告を忘れさえしなければ。

 

 旅人は自分の依頼に行ってしまった。じっと成り行きを見守っていた鍾離も、「一人で使いができるか見物だな」と心底愉快そうに言い残して用事を済ませに行っている。

 鍾離には発信器代わりの鱗を持たせてある。もし一切合切を綺麗さっぱり忘れたとしても、彼の居場所だけはわかるから最低限どうにかなるだろう。

 もう一度手帳の中身を読み返して、新人冒険者はよし、と呟いた。

 

 いざ、一つ目の依頼は帰離原──依頼名「拡張する邪悪」。なかなか小洒落た名前である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そのへんの魔物など渓月の敵ではない。

 渓月は仙にして武人、かつては岩王帝君と璃月を守る契約をしていた──であろうと推測されるものだ。今となっては心当たりすらないし、神本人が契約を全廃棄したそうなので無効だが。

 ともかく、冒険者協会の依頼は渓月にとって苦ではなかった。凡人なら苦労するだろう膨大な移動距離も、水脈に潜れる仙人にとっては問題にならない。

 

 三件目の依頼までを手帳を見つつこなし、四件目の現場にやってきたところで渓月はふと眉を寄せた。

 書き留めた内容によれば依頼はこの萩花州のあたりに出没するヴィシャップ類の群れ、その討伐。注意事項:凶暴。

 遠目にもその群れは視認できたが、ただ無秩序にうろついているのではなく、何かに引き寄せられるように動いているのを見咎めたのである。

 

 渓月は駆け出した。裸足の足裏を名もなき草が擽る。

 目を凝らす。どっしりと幹を構えた木の陰、草むらに埋もれるようにしている何かの塊──いや、人影。

 渓月は手元に水元素を構えつつ声を張った。

 

「お起き、お嬢さん!」

「ぅひゃっ!?」

 

 飛び起きた人影──に飛びかかるベビーヴィシャップ──に炸裂する水弾。

 

 軽く跳ね飛ばされた魔物が起き上がる間に、渓月は人影の前に滑り込んだ。眼前で戦闘態勢を整えつつある禍々しい群れから目を離さないまま、背中側に向かって声を投げる。

 

「おはようお嬢さん。怪我は?」

「し、していません。あの……ありがとうございます」

「うんよかった。でもいくら天気がいいとはいえこんなところで昼寝をするものではないよ。今片付けるからちょっと待っ──おっと」

 

 ヴィシャップは大きいのが一、小さいのが三。背後の、おそらく少女を庇いつつ尻尾の薙ぎ払いを避ける。

 渓月はちょっと困った顔で立ち回りを考えた。多少凶暴だろうとヴィシャップごときやはりこの仙の敵ではないが、人を守りながら四対一は少し勝手が違う。とりあえず足を踏み鳴らし、噴出する濁流で相手を打ち上げておく。

 ──と、肩の横を鋭い冷気が通り過ぎた。

 

「お手伝いします」

 

 弾けた矢から氷の華が咲く。途端に凍り付いて墜落したヴィシャップどもを見て、渓月は笑った。

 水を呼ぶ。研ぎあげられた槍のごとく、硬い装甲の隙間を穿つ水を。

 

「ハハッ──いい腕だ」

 

 

 

 

 その後わずか十数秒で無事に魔物は討伐された。

 軽く霜の降りた草原はさすがの渓月でも少し足指が冷たくなる。そっと裸の足を踏みかえてから、仙はそこで初めて背後の少女を直視した。

 

 おや、と眉を上げる。

 見事に氷元素を操っていた人物の外見は正しく少女だが、緩く巻いた頭髪に紛れて二本の黒い角が生えていた。渓月はその形を知っている。

 

「ああ……麒麟か。もしかして余計なことをしたかな」

「いいえ! とんでもないことです」

 

 少女の見目をした仙は首を振った。薄い色の(たてがみ)が揺れる。

 

「その……お恥ずかしい話ですが、一度寝入るとなかなか目を覚まさない体質なのです……」

 

 娘は本当に恥じ入る様子で俯いた。仙人には珍しい気質のものだ、と渓月は半ば感心する。凡人みたいでちょっとかわいい。

 

「本当に、ありがとうございました。私は甘雨と言います。貴方も仙人とお見受けしますが……」

「うん、そうだよ」

 

 渓月は頷いた。どっかの誰かさんとは違い、渓月は凡人に擬態するつもりはあまりない。正体を吹聴しないだけだ。同胞にならバレて困ることはなかった。

 

「私の名は……うん? 甘雨?」

「えっ? はい、甘雨です」

「えっと……ああ!」

 

 渓月は改めて麒麟の顔を凝視し、ややあって手を打った。

 思い出した。

 

「君、留雲のところの半麟か!」

「えっ……えぇっ!?」

 

 麒麟が──半仙が裏返った声を上げる。

 麒麟の雄を麒、雌を麟という。留雲の弟子は娘だから麟、半仙だから半麟、だ。

 ちなみに龍には雌雄の別はない。ので、渓月自身の自認はいつも肉体の見た目が優先となる。

 

「その呼び方……ま、まさか、玄君……!?」

「今はこの通りだから渓月でいいよ」

 

 渓月はにこにこした。特別に顔を覚えていたとか声音に聞き覚えがあったとかではないが、ともかく思い出せてよかった。

 

「大きくなったな! 昔はこーんなに小さかった気がするけど……」

「い、いつの話ですかっ」

 

 それは忘れた。

 甘雨は顔を赤くしてひとしきり抗議したあと、ぎゅっと目を瞑って息を吐いた。溜息というよりは、自分を落ち着けるための動作に近いだろうか。

 

「……玄君は、いつお目覚めになったのですか?」

「つい何日か前だよ」

「お加減の悪いところは……」

「ないない」

「そうですか……」

 

 ふう、と麒麟は瞼を上げる。睫毛の影にけぶった瞳は深い感傷を宿して煌めいていた。

 

「ご無事で……」

「──……」

 

 そう言われるほどのいかなる有事の記憶もなかったけれど、渓月は惚けても馬鹿ではないから、ただ微笑んだ。

 

「ずいぶん心配をかけたようだ。すまないな」

 

 

 

 

 本当にとんでもない心配をかけたらしい。

 渓月が実感としてそう悟ったのは、それから一時間ばかりあとのことだ。

 いくつか世間話を交わしたあと、甘雨は絶雲の間に出向くことを強く勧めてきた。

 

「留雲真君も、玄君のご無事な姿を見ればきっと喜ばれるだろうと思うのです。もちろん他の方々も」

 

 本人は仕事があると言ってその場を辞したが、そうまで言われて無視するのも忍びない。というかその場で行動しなければ、忘れ去った末にあと五十年くらい顔を見せないおそれがあった。

 そういうわけで渓月はぐるっと水脈に潜って絶雲の間まで赴き、仙境の前でたのもう、と声をあげたのである。

 律儀に出てきた鹿の姿の仙人はこちらを見下ろしてしばらく黙って、それから口を開いた。

 

「……そなたは?」

 

 こちらが仙人だというのはわかったのだろう。顔に覚えがないと見た。お互いさまである。

 渓月は笑って、胸の前で両手を組んだ。

 

「久しいな、ほら、私だ私、渓月だ。えっと君は……」

「……削月だが、玄君!?」

 

 幸い苦労して正体を証明する必要はなく、鹿は角を振り立てて驚いた。

 それからはあっという間に状況が進み、削月が仙術を飛ばして呼んだ仙人たちがまあ来ること来ること。みな口々に渓月の無事を喜び、理山が酒を持ち込み留雲が食事を持ち込み削月までもが蔵から樽を出してきて、なし崩し的に宴会が開催されてしまった。

 

 こうまで喜ばれるからには何やら寝る前に大層なことをやらかしたらしい、と渓月はさすがに悟ったのである。

 ただそれを訊ねるにはあまりに場の空気が和やかすぎた。記憶力の件は伝えたものの、明らかに自分がボロ負けしたか何かの件を無遠慮に問いただすほど馬鹿ではない。

 だから渓月はその疑問をいつ崩れるかわからない記憶の片隅に引っ掛けて、樽から柄杓で直接酒を煽りながら、ただ聞き役に徹していたのだ。

 

 

「──渓月」

 

 

 脳裏に別の声が聞こえて、ぴく、と仙は顔を上げた。

 

「玄君?」

「もう玄君はよしてくれって言っただろう。……彼に呼ばれてしまった」

 

 よいせ、と渓月は立ち上がる。

 既に日が落ちて久しい。夕飯にでも誘われるのだろうか。仙はおおむね空腹とは無縁だが、満腹とも縁が遠いからちゃんと出されたものは食べられるだろう。

 

「では皆、またいずれ。用があったら迎えを寄越してくれると助かるよ」

「いかさま」

 

 この宴を主催する形になった削月が頷く。

 かつて恵雨玄君だった仙人はひらりと手を振って、爪先から水に潜った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ごきげんようモ……えっと、今の名前なんだっけ?」

「鍾離だ」

「ごきげんよう、鍾離」

「ああ。いい夜だな」

 

 持たせた鱗の気配を頼りに見つけ出した友は大衆食堂にいて、向かいに座った人物と既に食事を楽しんでいるようだった。

 その人物は変わった服装をした金髪の異邦人と小さな人型の仙霊で、少し緊張した面持ちでこちらを見つめている。

 渓月はじっと二人を見つめた。失礼だと自覚はあるがだんだん眉間に力が入る。

 

「……一度……会ったことがある、かな? すまない、物覚えが悪くてね……うまく思い出せない……」

「いやすごい進歩だぞ渓月!!」

「うわっ」

 

 椅子から飛び上がって突進してきた白いのを慌てて受け止める。見ると金髪のほうも表情を緩めていた。

 

「オイラはパイモン、こっちは旅人だ!」

「何度か会ったことがあるよ。ちょっとでも覚えててくれて嬉しい」

「そ……そうか……」

 

 二人は歓迎してくれる雰囲気だが渓月はそっと目を逸らした。『すごい進歩』ということは面識があったにも関わらず綺麗さっぱり忘れていた前例があるということだ。凡人相手にこれは申し訳ない。

 

「渓月、ほら!」

「うん?」

 

 すぽっと渓月の腕の中から抜け出したパイモンは、顔の高さにふわふわ浮いたまま手を突き出した。

 

「ちゃんと依頼はこなせたか? モラはあるか? これも契約の一種だぞ!」

「…………すまないが、何の……?」

 

 全然覚えがない。

 がっくりパイモンが項垂れた。旅人も苦笑ぎみだ。

 

「やっぱりだめかあ……」

「仕方ないよ。確認のために呼んでもらったんだし……あ、気にしないでね、渓月。怒ってないから」

「渓月」

「……う、うん」

 

 顔を合わせる勇気はなく、横目でちらっと鍾離を窺う。誰が契約を反故にしかけている局面で契約の神を直視できるものか。

 

「茶色い手帳を持っているはずだ。一番新しい記述を確認してみろ」

「えっと……これか」

 

 まだ新しい手触りの手帳を開く。

 

「……」

 

 数分後、事情を把握類推した渓月はがばりと顔を上げた。

 

「──すまない! 本当にすまない!! すぐ協会に報告してくるから!」

 

 裸足なのに石畳が割れるんじゃないかと思ったよ、と後で旅人から聞いた。

 

 どうにかこうにか借金を返すと、じゃあまた何かあったらよろしくね、と金髪の異邦人は帰っていった。

 鍾離が空いた席を勧めるのでそれに従い、皿に残った料理をつまむ。なぜだか海産物が多い。あ、蛸。

 

「美味いか?」

「美味い。……聞いておいてなんでそんな微妙な顔をしてるんだ君は」

 

 鍾離は何かすっぱいものでも食べたような顔をしている。訊ねると彼は曖昧に首を振った。

 

「いや意外と……嫌なことを思い出すなと……」

 

 はぁ、と渓月は箸を止めぬまま眉を上げた。鍾離がわざわざ負の話題に言及するのは珍しい。これは深掘りしてやるべきだろうか。

 

「どれが、どうか?」

「……」

 

 鍾離はますます目元をすっぱくして、それからぼそりと言った。

 

「……お前が昔海魔を踊り食いしていたのを」

「これを海魔と一緒にするのは乱暴すぎるんじゃないか!?」

 

 渓月はびっくりして声を裏返した。

 しかし元神は渋い顔を崩さない。

 

「驚くべきはかつてのお前の暴挙のほうでは?」

「暴……本当に嫌だったんだな君……」

 

 心中は理解したものの、うーんと現仙人は唸った。

 

「海魔ってことは水に属するものだろう。水元素で攻撃しても意味がないから……ある種合理的な対応だと思うけど」

「掃討に一役買ったのは事実だが……これだからお前は……」

 

 心底嫌そうなのがいっそ面白い。悪かったって、と渓月は適当に謝った。彼も怒っているわけではないだろう。

 昔といえば、と仙人は消えかけの記憶の端から話題を探った。

 

「削月たちに会ったよ。皆元気そうだった」

「ああ、だろうな。彼が好んでいる香の薫りがする」

 

 そうなのか、と袖をつまんで鼻に近づける。確かにしっとりとした薫香がした。

 

「ずいぶん歓待されてびっくりしたよ。……ああ、そうそう。ひとつ聞きたいことが……あった気がするな」

「なんだ?」

 

 えっと、と渓月は考えた。覚えているのは仙人たちと宴をしたこと。彼らが大層喜んでいたこと。

 

 ――ご無事で、と万感を込めて言った誰かの声。

 

「私は、寝る前どうしていた?」

「どう、とは?」

「つまり……」

 

 渓月はぱちりと瞬きをした。

 仙人たちとの関係と、このかつて岩神だった男との関係は少し違う。それは性格の違いでもあるし、立場の違いでもあるし、付き合い方の違いでもある。

 

「五体満足で顔を出したら驚かれるような、とんでもないしくじりをしたのかどうか、ということだ」

 

 彼らには尋ねなかったことを、こうして訊けるくらいには。

 

「しくじってはいない」

 

 鍾離は言下に否定した。

 

「だが無事を喜ばれるような有様だったかという意味なら、そうだと返そう。具体的には……渓月、頭をこっちへ」

「うん? うん」

 

 多少卓子を避けて、身を乗り出すようにして顔を寄せてやる。

 手袋の指が額にかかった髪を搔き分ける。指は骨の少し出っ張った部分を撫でるようにしてから、気が済んだらしく離れていった。

 

「ふむ、今は問題ないようだな」

「な、何が……?」

 

 渓月は思わず固唾を飲む。

 鍾離は姿勢を正して茶碗を持ち上げながらさらりと言った。

 

「五百年前に大きな戦があった。俺たちは勝ったが、お前は角を折った挙句胸に大穴を開けて力尽きて寝た」

「心配をかけて本当に申し訳ない」

 

 

 

 

 この国を愛している。

 この国の民を愛している。

 この国に、かつて神として在ったものを愛している。

 

 

 

 

 鍾離は忘れえぬものだ。

 風化を受けつつも岩が大地の記憶を身に刻むように、たとえ摩耗に蝕まれても彼が過去を忘れることはない。

 だから彼は、あの日――黒い軍勢との戦いが終わったあの日のことも、もちろん覚えている。

 

 璃月において仙人は一騎当千の武人であり、そして千の兵を率いる将である。

 殺生を専任とする夜叉たちを除けば、仙人たちはいつも兵士を指揮しつつ得物を振るった。

 渓月と岩王帝君とて例外ではない。まだ鍾離ではなかった神が指揮系統の頂点にいたとはいえ、彼らは別々の隊を率いて、別々の場所で深淵の魔物と死闘を繰り広げ、そして辛くも勝利した。

 血と泥に塗れて疲れきった兵士を集め、冷静な顔で彼は損耗を確認した。手当を受けている者の数。助からない者の数。行方不明の者の数。死んだ者の数。七星や甘雨と情報を交換し、物資を手配し、民を鼓舞した。

 

 彼は神だった。その場で最も全能に近いものであり、この国を背負うものであり、民に縋られるものだった。

 だから、渓月とその隊の報告が上がってこないことに気付いていても、探しになどいかなかった。彼は神で、王だったから。

 岩王帝君が初めて諸々の処理を中断したのは、遠くの人混みでざわりと悲鳴があがったときだった。

 

「玄君──玄君! しっかりなさってください、玄君!!」

 

 娘の悲鳴がした。甘雨だとわかった。兵士たちのざわめく声もする。

 岩神は顔を上げて、少し考えたのちに騒ぎの元へ向かった。友のためではなく、兵士の混乱を収めるために。

 

「何事か」

 

 声をかけると人垣が割れる。

 その中心で甘雨にほとんど抱きかかえられるようにしている、人型の白い龍を見た。

 当時の渓月は女によく似た外見をしていて、そのために玄君の号を持っていた。今と変わらず白く長い髪が、項垂れた頭から何かの飛沫に汚れて落ちていた。

 

「……」

 

 彼は神の仮面の下でそっと息を吸った。

 

「……ただいま、戻りましてございます、帝君。ご無礼を……お許しいただきたく……」

 

 帳のように垂れた白髪の奥から声がした。その掠れた響きを今でも彼は覚えている。星螺が海の音を記録するように。

 

「……よく戻った、恵雨玄君」

 

 岩神は応えた。

 

「皆も大儀であった。これは俺が預かろう」

 

 それから周囲にも聞こえるように声を張って、甘雨から渓月の身体を受け取った。

 彼は岩王帝君だった。凄惨を極めた戦のあと、民草がどれほど神を求め、仙人の死に動揺するかを理解していた。

 ──こうやってどれほどの友が散っていったかを、すべて覚えていた。

 

 仙術で人目につかない場所まで飛んだあと、そこで初めて、彼は抱えた友の顔を覗き込むことができた。

 

「渓月、――渓月。聞こえるか」

「ああ……」

 

 ほとんど吐息のような声で返答がある。その身体を仰向けに抱き起こしてやって、

 ――たぶんそのとき、表情を取り繕えてはいなかっただろうと、今では思う。

 

 右額にあったはずの角が無惨な断面だけを晒していた。女の見目に従って柔らかな膨らみのあったはずの左胸には衣ごとなにかに貫かれた孔が開いていて、それを視認してやっと、彼は背中側を支える掌が濡れていることに気がついたのだ。

 死闘を物語る傷からとろとろと垂れているのは血液ではなかった。それは薄青い光を放つ水元素で、河を本性とする仙にとっては血液よりも生命力を担うものだった。

 ひとつの喘鳴もしなかった。既に生物の真似を辞めた身体だったから。

 

 焦点の合わない瞳が岩神を見上げてゆっくりと瞬いた。

 

「……預かった兵は、あまり、守れなかった。詳しい損耗は……甘雨に伝えたから……」

「ああ。……あまり喋るな」

「はは、らしくないな、モラクス」

 

 離別の痛みを、終焉の冷たさを、孤独の寂しさを、彼はあまり恐れない。全ては長い生について回るものだからだ。彼はそれらとの付き合いを心得ている。

 それでも、別れに、終わりに、独りに、何も感じないわけではない。

 彼は今でも、あの冷え切った体温を──水温を、まざまざと思い出せる。

 

「この程度では、死なないよ。大丈夫……」

 

 当時の岩神はそれに返す言葉を持たなかった。神仙が不滅の存在なのは経験的にも明白だったが、傷が深すぎるのもまた明らかだった。

 

「ただ、少し、疲れた……」

「……ああ。休暇を許す」

 

 岩神は女仙を支えている手をずらして、ちょうど首のすわらない赤子にするように、そっと頭を支えてやった。

 

「甘雨は……あとでちょっと、叱ってやってくれ。民が……不安がっていたから……」

「承知した」

「すまない……少し、寝る……すぐ起きるから……おやすみ……」

 

 彼は友の瞼が閉じていくのを、最後までじっと見つめていた。まるで視線に物理的な力があって、眠りに落ちるのを阻止できるかのように。

 

「……」

 

 それから彼はひとつ息をついて、すべてを友の願った通りにし、休息が邪魔されないように建屋を作った。

 

 

 

 

 それが五百年前の顛末だ。

 おそらくほとんどの仙人たちは、渓月はもう起きてこないと信じていたように思う。

 岩神モラクスは──そして往生堂の鍾離は、必ずしもそうではなかったし、実際に友は起きてきた。

 しかし起きてきたからこそ、彼はたったひとつの文句をぶつけられずにいる。どうせ本人は覚えていないだろうことなので。

 

 ──五百年はいくら神仙といえども『少し』ではない、と。

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