河岩帯礪   作:海野ミウ

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「髪留めを貸そうか、渓月」

 

 渓月は何かの麺を啜っていた手を止めて、一度口の中のものを飲み込んでから、まず自分の胸元を確認した。うっかり髪の先を皿に垂らしたのかと思ったからだ。

 問題ないことを確認して、そこでやっと仙人は向かいに座る鍾離の顔を見た。特に他意のない表情をしている。

 

「どうして? みっともなかったか?」

「いや。ただ邪魔そうだ」

 

 彼の目線は左の側頭部あたりを示した。横髪を掻き上げて固定している左手のことを言われていると気付く。

 

「あ……うーん、どうだろう。邪魔だと思ったことはないけど……」

 

 手を添えないまま俯くと髪が全部重力に従うのは確かだ。

 渓月の髪は長いが、よく滑る上に軽い。毛先は腰ほどまでもあるのに、つるりと生地の上を滑って前にこぼれてくる。それを結ばずに無造作に垂らしているから、傍目には煩わしそうに見えるかもしれない。

 仙人はにまっと笑って、冗談のつもりで言った。

 

「それはつまり結んでくれるってことか?」

「いいだろう」

「えっ」

 

 こちらの様子にまるで頓着せずに鍾離は立ち上がった。手に予備か何かの髪留めを持っている。

 渓月は若干腰を浮かせた。

 

「ごめん、冗談だよ。やらせようとしたのは悪かったから」

「結ばせてくれるのだろう? あまり動くな、店の迷惑になる」

 

 結局、渓月が固まっているうちに鍾離はすたすたと背後に回ってしまった。仕方がないのでもぞもぞする尻を座面に戻す。

 男の指が丁寧な仕草で髪を梳く。生え際を滑ってきた親指が下から毛束をまとめて、

 ——ぞわっ、と鳥肌が立った。

 

「うっ……うわーっ!」

 

 突然奇声をあげて飛びのいた渓月を他の客や店員が胡乱な目で見ている。

 そんなものに構っている余裕はなく、仙人はぱっと背後の男を振り返った。

 

「ご、ごめん、鍾離」

「嫌だったか?」

「嫌というか…………く、首が捻じ曲がるかと思った……?」

 

 鍾離は愉快そうに口の端を持ち上げた。

 

「俺はそんなに怪力か?」

「そうではない、けど……」

 

 自分でもどうしてこんなに拒否反応が出たのかよくわからない。渓月は後頭部の髪を撫で付けながら首を捻った。

 

「嫌なら無理強いはしないが……なるほど」

 

 鍾離は元の席に戻って、心底面白そうな顔で告げた。

 

「確かに、お前は民の要望に応えて人間体で髪を結わせたことがあるな。そしてそのまま龍体に転変し、首や鬣が曲がったり絡まったりして大惨事になった」

「完全にそれじゃないか」

 

 全然覚えていないが、身体に刻まれたトラウマということか。

 渓月も着席し、それからうなじを擦りつつ文句を言った。本当に怪我をする気がして怖かったのだ。

 

「その事件を知っているならどうして髪留めの話をした?」

「覚えていないだろうと思ってな。それに途中まで乗り気だっただろう?」

「まあ……」

 

 確かに途中までは彼が言うなら結ぶべきかと思っていた。

 渓月は気まずくなり、場を誤魔化そうと残っている料理を口に運んだ。

 しかしそれで誤魔化されてくれないのがこの鍾離という男である。

 

「では、靴を履いてみる気はないか?」

「……それもまた嫌な予感がするな?」

 

 一体なにが「では」なのか。ひとまず渓月は続きを聞いてやることにする。

 

「いや、これに関しては昔から嫌いだったというだけで、きっかけはない。どうだ? 姿も変わったことだし心情にも変化があるかもしれない」

「うー……ん……」

 

 渓月はぺたぺたと裸足の足裏を踏みしめた。石を嵌め込んだ床面は少しひんやりしている。渓月は仙だから靴がなくても怪我をすることはないし、汚れにも困らない。

 

「……履いてほしいのか?」

「嫌でなければな」

 

 残りの料理はこちらに任せることにしたらしく、鍾離はゆったりと茶碗を取り上げて茶を啜った。

 

「街中で裸足でいるのは少々目立つぞ。お前は容姿も目を惹くからなおさらだ。それに良い靴屋を知っている」

「……わかった。試してみよう」

 

 結局渓月は折れた。璃月の仙は概して彼らの神のおねだりに弱いのだ。

 彼の言うことも一理ある。璃月人の一般的な装いとして靴は履くべきだ。

 

 

 

 

 

 翌日鍾離に案内されたのは確かに高級そうなたたずまいの店舗で、彼は店主と知った仲のようだった。

 

「これはこれは、鍾離先生。ようこそおいでくださいました。お履き物の調整ですかな? それともお連れ様の?」

「世話になるな、店主。これに靴を見繕ってやってくれないだろうか。色は白がいい。履き心地を重視したいから、素材と形は色々試してくれ。俺は柔らかい布がいいのではないかと思うが……」

「はい、はい、ええ、承知いたしましたとも。お二方ともお掛けくださいまし!」

 

 店主はふっくらした座面の椅子を示して奥へ消えた。

 手慣れた具合のやり取りをあっけに取られて見ていた渓月は、鍾離が平然と腰掛けたのを見てそっと隣に腰を下ろした。

 

「……驚いた。商人とはあんな感じか」

「彼は確かに商魂たくましいが、腕もまた一流だ。安心して任せるといい」

 

 この男が気に入ったのだから本当に腕は確かなのだろう。

 そのうち別の店員が出てきて、足を拭かれたり測られたり揉まれたりする。あまり好ましいくすぐったさではなかったが渓月は我慢した。

 検分が終わったあと、今度は目の前にずらりと試し履き用の靴が出てくる。両手の指よりまだ多い。

 まさかこれを全部履いてみろというのか、と仙人は目を回した。

 

「さあさあ、どれがよろしいでしょうかね。履き心地といえば仔牛の革に勝るものはございませんが。もちろん御要望の布靴も用意してございますよ」

「そうだな、ではこれと……こちらを試してみよう。それでいいか、渓月」

「……う、うん。任せるよ」

「承知いたしました。沓下はお使いに? ならない? ええもちろんわたくしどもはそういった方のお足元も心得ておりますよ。さあさこちらをどうぞ」

 

 凡人の買い物とは難しいのだな、と思う。終始店主の勢いに圧倒されたまま、勧められたものに勧められるままに爪先を滑り込ませる。

 

「……」

 

 足がなにかに覆われているのは奇妙な感覚だ。渓月は膝を縮めて、靴の中で指を握ったり開いたりした。もぞもぞする。

 

「おや、小さいでしょうかな? それとも裏地の生地がお好きでない?」

「……い、いや、慣れないだけだ。問題ない……と思う」

「さようでございますか。きちんとお作りするときにはもっとおみ足に合うようにいたしますからね。今はこれでご容赦いただきますよ。ええ、ええ、ではどうぞお歩きになってみてくださいまし」

 

 どうしても違和感が拭えないが、急かされてしまっては仕方がない。渓月は浮かせていた足の裏をそうっと地面につけて、恐る恐る立ち上がり、

 うわあ、と情けなく悲鳴を漏らした。

 

「しょ、しょ、鍾離……!」

「……なんだ」

 

 笑いをこらえている声で返事があったが笑い事ではない。

 渓月はぎこちなく足を踏みかえた。足の裏になにか嫌なものが張り付いているようで、それがどんなに足踏みしても取れないかのようで、なんとか逃れようとする身体の反射を抑えられない。首筋に変な汗をかく。

 

「ぬ、脱いでいいか……!?」

 

 返事がとうとう引き笑いに入った。

 店主の顔が困惑を通り越して引き攣っているのがわかるが、これを我慢するのは無理だ。申し訳ないことに。

 

「……っは、は、まあ、無理強いはしない。強引に連れてきて悪かったな」

「怒ってるわけじゃ、なっ、ない、けど!」

 

 本当にぞわぞわして纏まった言葉が紡げない。

 性急に腰を下ろし、靴を脱ぎ捨てる——のはさすがに無礼だと自覚があったので、せめて動作だけはゆっくり丁寧に脱ぐ。足裏を直接床に付けるとほっと肩の力が抜けた。

 

「……申し訳ない。貴殿とこの店に無礼を働いたことを謝罪する」

「裸足のお客様に靴を誂えてさしあげるのが靴屋の原点とは申しますが、いやはやわたくしどももまだ精進が足りないようでございますね」

「本当に申し訳ない……」

 

 凡人にここまで謝り倒したのはもしや初めてなんじゃないか? と渓月は思った。

 ぽん、と肩に大きな手が乗る。鍾離だ。

 

「連れてきた俺にも責任はある。俺からも謝罪する、店主。……お前もそう落ち込むな。元々服を着ているだけで上出来だ」

「……!?」

 

 後半はこちらにだけ聞こえる囁きだったが、そのあまりの内容に渓月は目を剥いた。辛うじて小声で返すだけの理性が働く。

 

「そっ……そ、それはどのレベルで……!?」

「昔のお前は全裸だった」

 

 仙人は頭を抱えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——龍を見た。白い龍だ。

 

 鍾離は忘れえぬものだから、当然その龍を初めて見たときのことも覚えている。

 遠く上古の時代。まだ地上に璃月も帰離集も、魔神のもたらす戦火もなかったころ。

 

「──誰か」

 

 渡ろうとした河を割って頭をもたげた、白く巨大な龍の姿を。

 当時の彼が岩王帝君ではなかったように、当時の渓月もまだ恵雨玄君ではなかった。

 

 まだ庇護する民も少なく、腰を据える領土すら不確かだった岩の魔神は、その龍とひと悶着——のほかにふたつかみっつかよっつの激闘を起こしたあと、同盟を結ぶことにしたのだった。

 ……仕方のないことだ。もう何千年も前の話、両者とも今よりずいぶん喧嘩っ早かった。そういう時代だったから。

 

 河辺の民は、モラクスの守護下へ。岩辺の民は、河に囲まれた土地へ。

 それは今はもう遺跡すら残っていない小さな郷だった。渓月が——『恵雨玄君』が、璃月最古の仙と呼ばれていた事実にだけ、わずかにその残り香がある。

 

 閑話休題。

 当時の渓月はあまり人間と交流する気のない様子で、若陀龍王に比肩しようかという規模の龍体のまま、両の枝角だけを水面に出して河に寝そべっていたのを覚えている。

 ただときおり、必要があれば人型をとることもあった。その時代は龍が玄君と呼ばれるよりもずっとずっと前のことで、龍の姿が今や女仙の時代と違うように、人型もまた後の時代とは違った。まだ性差もはっきりしない年ごろの子供に似ていただろうか。身の丈より長い髪を引きずるようにした子供だ。

 

 その後数千年ばかり何が問題だったかといえば、本人が服を嫌がって全裸で郷を闊歩したことだった。子供の見た目で。全裸で。

 

 原初の郷も、その次の住まいも、帰離集も、人型をとった渓月はひとひらの布もまとわずに練り歩いた。モラクスを含めほとんどのものが苦言を呈し続けたが、実りがあったのは来客があったときくらいだったと記憶している。

 他の仙のように凡人の文化を理解していないのとは違った。めんどうでぞわぞわして龍体に切り替えたらぼろぼろになるから嫌だ、と、つんとした無表情でこうである。言葉の通りたいていの時間を龍体で過ごしていたのだけが救いだった。

 

 それが二千年ほど前までの話。時が経ち、戦があり、龍は傷を負って眠りについた。

 女仙に大変身して起きてきた渓月がきちんと衣服を身につけていたのを見て、岩神が深く安堵の息をついたのも当然と言えよう。

 

 

 

 

 

 

 この国を愛している。

 この国の民を愛している。

 この国に、かつて神として在ったものを愛している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 渓月は少し手に馴染んできた冒険の証を開いて、ふと首を傾げた。

 最近はようやく受付の女性を覚えられるようになってきていて、同時に依頼の達成率も上がっている。手帳に残された日々の依頼のうち、頭に印がついているのがそれだ。

 

 今日の依頼を残していないか、報告はしたか、その他に果たすべき約束はないか、確認するために手帳を開いたのだが──書き留めるのを忘れているのでなければ問題はないようだった──渓月は残っている履歴を不思議に思ったのだ。

 戦闘特化として認識されている渓月に回ってくるのは討伐系の依頼が多いが、それにしても妙にアビスの魔物が多い。あとは突然凶暴化したとかで「危険」の赤い判子が押してある依頼。

 

 渓月はてくてく歩いて、協会前の掲示板を見に行った。貼り出してある依頼はそこまで種類が偏っているようには見えない。住民からのちょっとしたお使いの依頼などもあった。ついでに魚肉の納品依頼を書き留めておく。漁は得意だ。

 脇のカウンターから声がかかった。

 

「渓月さん、何かご用でしょうか? 本日の依頼は達成済ですよ」

「ああ──えっと……そう、キャサリン。こんにちは。いや、少し気になったことがあって」

 

 緑の服の受付嬢にことの次第を説明する。

 彼女がやんわり苦笑の混じった微笑みを浮かべるのを見て、渓月は気まずく視線を逸らした。

 

「……もしかして連日聞きに来ているかな?」

「実はそうなんです。アビスの魔物や、それらに影響を受けたとみられる凶暴な魔物の目撃情報は実際に増えています。冒険者といっても渓月さんほど腕の立つ人ばかりではありませんから、戦闘成績の良好な人に優先して依頼を受けていただいています」

「……な、なるほど……」

「根本的な原因については協会の者が調査中です。ご安心くださいね」

「わかった。ありがとう」

 

 渓月は頷いて、今の情報を手帳に書き留めた。これでもう日ごとに彼女を問い詰めずに済むだろう。

 

 

「──渓月」

 

 

 遠く、友の呼ぶ声がした。

 渓月は顔を上げる。

 

「……では、私はこれで。何度も手間をかけさせてすまなかったな」

「いいえ。協会への貢献に感謝します」

 

 にっこりと笑うキャサリンを背に港町から離れる。渓月は耳を澄ませるようにして気配を探った。友の呼ぶ声は渓月が寝床にしていた建物のあたりからだ。ずいぶん水脈に近い場所にいる。

 ひとつ頷いて、周りに人目のないことを確認して、渓月はするりと川へ飛び込んだ。

 

 

 

 

「ごきげんよう、……えっと、鍾離。どうかしたかな?」

「うわっ!」

 

 うわっとはなんだ。

 もっとも、水面から顔を出した渓月に驚いたのは鍾離その人ではなく、共にいた人間のほうだった。金髪の歳若い人間と、そのそばに浮いた仙霊のようなものだ。

 渓月は地上に上がって身なりを整えながら眉根を寄せた。

 

「あー……君たち、会ったことがあるな……? たまに鍾離と話しているだろう。名前を失念してしまってすまないが……」

 

 二人は一度顔を見合わせてから綻ぶように笑った。白いのがぶんぶんと手を振る。

 

「おう、友達だぞ! オイラはパイモン、こっちは旅人だ!」

「覚えててくれて嬉しい」

「よろしく」

 

 彼らから視線を移して、それで、と腕を組んで佇立する鍾離に尋ねる。

 

「何か用でも?」

「ああ。まずは旅人から」

 

 目線を戻す。異邦の旅人は金髪を揺らして頷いた。

 

「最近アビス教団が活発なのは知ってる?」

「アビス教団……似たような話ならついさっき聞いたけど」

 

 冒険の証を引っ張り出して確認する。走り書いてある内容を読み上げた。

 

「うん、それ。その調査を任されたんだ。色々調べた結果、このあたりが根城じゃないかってわかったんだけど……」

「具体的には、あそこだ」

 

 鍾離が言葉尻を引き取って、つと一点を指さした。何もない、ただ小さな川があるだけの開けた平地──

 いや。

 渓月は目を細めた。

 

「……何か隠してあるな。仙人の洞天か?」

「お前の寝所だ」

「えっ」

「渓月、ここを出る時におまえが隠したんだぞ。『いない間に寝床を荒らされては困るからね』とかって」

 

 あまり似ていない声真似でパイモンが教えてくれたが、覚えていないものは覚えていない。寝床がこのへんだとは思っていたが目の前だったとは。

 渓月は渋面を作った。

 

「それでアビスに侵入されては元も子もないな……」

「元々あった術は簡単な目くらましだろう? うまく利用して結界の効力も持たせたようだ。恐るべき技術力だな」

 

 仙人は他人事のように敵を称賛する男を軽く睨んだ。

 

「……事情はわかったが、あんな術なら君だって解けるだろう。私を呼んだのはなぜだ?」

 

 鍾離は白々しく言い放った。

 

「俺はただの凡人だ。仙術を解くことなどできない」

「凡人は私を呼びつけたりしないけどな」

「凡人ジョークだ。家主の許可なく寝所に入るわけにはいかないだろう」

「その凡人ジョークとかいうの私以外に言わないほうがいいぞ」

 

 だがまあ、そちらの理屈なら呼んだ理由はわかる。

 渓月は旅人に向かって頷いてみせた。

 

「そういうことなら、承知した。我が寝床に招こう。中のアビスはどうするんだ? 捕縛するのか?」

「総務司に連れていければ一番いいけど、アビス教団を捕まえておくのは難しいし……その場で目的を聞き出すのも得意じゃないから、とりあえず拠点を潰せればいいってことになると思う」

 

 渓月は若い人間の善良そうな顔を眺めた。確かに拷問してでも聞き出せとかいうのは無茶だろう。腕が立つのとはまた別の問題だ。

 

「了解。乗りかかった船だ、中の調査も手伝おう。準備はいいか?」

 

 三者三様の頷きが帰ってくる。パイモンの返事が一番力強かったが、この子はこのなりで戦えるのだろうか。

 

「では──散!」

 

 気合一閃。

 仙力を込めて踵で地面を叩く。他人に好き勝手に弄られた術など丁寧にほどいていられない。多少強引に壊してしまったほうが楽だ。

 目隠し兼結界の術は狙い通り霧散し、外見には異常のない岩元素の建屋が姿を表す。

 

「よし、行こうみんな」

 

 剣を抜いた旅人の後に最古級の仙人ふたりが続く。

 贅沢なチームだ、と渓月は忍び笑った。

 

 

 

 いや笑っている場合ではない。

 

 決して広くはない建物に湧いてくる──正確には召喚されてくる魔物の多いこと多いこと。しかも軒並み邪気か何かで凶暴化している。多少強くなっていてもようと三人にとって大きな問題ではないが、たとえ無傷だろうと気力は消耗するのだ。

 しかも取り巻きを倒しているうちに本体の魔術師は行方をくらますわ、何かの器物を持ち去ったあとがあるわ、魔物が多すぎて思うように動けないわで、敵に撤退猶予を与えているのは火を見るよりも明らかだった。

 

 魔物の群れというか塊に水元素を叩き付けながら渓月は叫んだ。

 

「あとどれだけ湧いてくるか賭けでもしようか!」

「数え終わったころには逃げられているだろうな!」

 

 冷静沈着を常とする鍾離でさえやや語気が強い。カン! と槍を蹴り抜く高い音が響く。

 

「どうする、旅人。応援を呼ぶか」

「それだと結局相手の尻尾は掴めなくなっちゃう……!」

 

 この場で一番称賛されるべきは玉障シールドを提供する鍾離でも純前衛の渓月でもなく、パイモンを守りながら戦う旅人かもしれない。剣筋は確かだが表情には精神的な疲労が窺える。

 このままではこちらが消耗しきるのが先だ。仙人と自称凡人は一瞬目を見交わした。

 

「鍾離、この建物解体できるか」

「崩落が怖いな。壁を抜く程度なら」

「速攻でいこう。何秒欲しい?」

「三秒」

「承知。——旅人!」

「荒星!」

 

 会話に入ってこないからといって旅人が何も把握していないわけではない。鍾離の手を空けさせるべく、星落としの剣が敵を分断する。

 それを渓月が波濤でさらに押し流したあたりで、鍾離が岩元素を操る掌を上げた。

 彼が指すのはある一点。いくら時間稼ぎをしようと、構造を変えられないのならば最奥の位置もまた変わらない。守りたいものは一番奥に押し込むのがあらゆる知性体の性質だ。

 

 轟音と共に岩元素が破砕される。瓦礫と土埃の向こう、ちらりと光る魔術師のシールド。赤い光だ。炎元素の。

 逃がすか。

 渓月は床を蹴った。

 

「飛ばせ!」

 

 地面からほとんど水平に伸びる岩の柱。足の裏で踏みしめて跳んだ、その背を暴風が押してくれる。

 視野が広がる。アビスの魔術師が見える。空間が裂けて、その向こうに逃げようとしている。届く。この速度なら届く。

 半ば吹き飛ぶようにして渓月は肉薄した。手を伸ばす。指の先から水元素が伸びる。火のシールドなど河の前にあまりに脆い。障壁は消失する。魔術師が崩れ落ちる。

 そのローブの先を掴む——掴んだ。

 

「捕らえたぞ」

 

 ──魔術師の嗤笑。

 

「渓月!」

 

 後ろから鍾離の声がしたのと、

 

「貴様、」

 

 渓月がそのまま亜空間に引きずりこまれたのは、ほとんど同時だった。

 

 

 




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