河岩帯礪   作:海野ミウ

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 この国を愛している。

 この国の民を愛している。

 この国に、かつて神として在ったものを愛している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……」

 

 目を醒ます。それで自分が意識を失っていたことを知った。

 何かに拘束されているようで手足が動かない。渓月は唯一動く首をもたげ、頭を振って顔にかかる髪を払った。視界が開ける。

 

 そこに角があった。

 鹿のように枝分かれした角だ──その巨大さの尋常でないことと、まるで玉のように光る質感を除けば。

 灯火のない空間は、しかし角の放つ青い燐光に照らされてうっすらと明るい。それでここが洞窟かそれに類する地下構造だというのがわかった。周囲には濃密な水元素が満ちて、空間が歪む気さえする。ここまで強い力を発する物体の由来は、基本的には三つしかない。

 七執政か、天理か、過去の魔神だ。

 角の周囲には何かの装置が浮いていて、どうやら力を抜き出しているようだった。寝床に無限に湧いてきた魔物はこのせいか。

 

 加えて渓月自身は水元素のシールドで囲われていて、同じ組成の枷が手足首にもかかっている。力を込めてもびくともしないし、大角に周囲の水元素が引っ張られていてこちらの呼びかけには答えもしない。さらに言えば水元素でできたものにいくら水元素をぶつけても無駄なわけで、現状渓月にはこうして磔になっていることしか許されないようだ。

 仙は鼻を鳴らした。ずいぶん厳重な拘束だ。捕らえたぞ、と嗤った魔物を思い出す。よほどこの身が欲しいらしい。

 鍾離と旅人を置いてきてしまったが、渓月が目的だったのなら彼らが窮地に陥ることはないだろう。ひとまず安心だ。

 

「これが雨の魔神の角だ」

 

 アビスのざらついた声。

 渓月はそちらを見なかった。代わりに向こうから視界に入ってくる。

 

「哀れな魔神よ! 今やこうして我らの糧となるばかり」

 

 魔術師は渓月の眼前で煽るようにくるくると舞った。

 

「……それで? 魔神の力を使ってなにをするつもりだ?」

「何か勘違いをしているようだな」

 

 細くいびつな指が顎にかかった。矮躯にしては意外なほど強い力で持ち上げようとするのは、こちらを見下したいがためだろうか。仮面の奥から注がれる視線には粘度があった。

 

「お前は既に我々の道具にすぎない。質問の権利があるなどとは思わないことだ。それともなんだ? この状況でも未だに、我々の手中から逃れられると思っているのか? なあ──」

 

 渓月は答えなかった。それは質問ではなく侮蔑と嘲笑だったから。

 

「──雨の魔神、フォルカロルよ」

 

 白龍はひとつ、瞬きをした。

 それは既に亡んだ魔神の名だ。

 

「……見る目がないな。魔神に見えるか? この私が」

「傀儡にするのならば多少弱っているほうがいい。魔神の残滓が大地の底に残っているだけでなく、まさか平然と市井を歩くとは好都合なことだ」

 

 アビスの魔術師が顔を近づけてくる。渓月は不自由な姿勢の許す限り頭を引いた。

 

「記録を読んだぞ、フォルカロル。あの遺跡にあった記録を。それとも摩耗し記憶を失ったお前にはわからぬことか?」

 

 渓月は何ひとつ答えなかった。その必要がなかったからだ。

 過去の自分が何を語り、何を為し、何を遺したのか、もちろん渓月は覚えていない。ただ、起きたときに自分の名前がわかったように、あるいは玄君の号をも自らのものだと認識していたように、自分自身を表す語としてその魔神名は残っている。今は、まだ。

 雨神フォルカロル。それはおそらく過去の自分の名のひとつで、既に死んだものの名だ。

 

 アビスの魔術師は両腕を大仰に広げた。広い袖に隠した骨と皮ばかりの腕だ。

 

「かつて帰離原を治めた雨の魔神。戦争に敗れ、角を落とし、民からも忘れられた哀れな魔神! 己の正体すら忘れたとは惨めなことだ」

「……やはり、君は勘違いをしている」

 

 渓月は静かに言った。

 この国の神は岩の神。水でも雨でもない。

 

「私がフォルカロルだったのは確かだろう。だが今の私は一介の仙に過ぎないし、おそらくは生まれながらに魔神だったわけでもない。せいぜい成り上がり止まりだ」

「なんだ? 抵抗のひとつもできないことの言い訳か?」

 

 かつて神だったものは緩く首を傾げた。

 

「神に神の眼差しは下賜(くだ)されないし……」

 

 今の渓月には神の目がある。その温もりを足首に感じている。水元素を血肉とする龍には使い方のわからない外付けの魔力器官だが、決して綺麗なだけの硝子玉でもない。

 

「もし私が真に魔神であるならば、()はその名で呼ぶだろう」

 

 渓月、と友は呼ぶ。それが答えだ。少なくとも呼ばれる側はそう定義した。

 

「魔神が欲しいなら他を当たれ。私は帰らせてもらおう」

「……フン」

 

 アビスの声は耳障りだ。仮面の奥から響く声は鼓膜に反響してうるさい。

 

「言ったはずだ。お前に質問の権利はない——当然、要求する権利もない」

 

 どん、と背中側に衝撃があった。

 

「がっ……!」

 

 数瞬遅れて焼け付くような痛み。何か刺さっている——何かに浸食されている。渓月の首は真後ろには回らないから、人間の姿はそういう構造をしていないから、何をされたのかが見えない。

 

「心配するな、大人しくしてもらうための『麻酔』だ。アビスの毒で死ぬことはない。我々の祝福を受けるだけだ」

「……」

「小癪な余裕がなくなったのはたいへん結構」

 

 魔術師を睨んだ。痛みはすべての生けるものの余裕を奪う。神仙とて例外ではない。

 深淵の魔物は歪んだ手を掲げる。

 

「では、その神の目をもらおうか」

 

 そのとき初めて、まずいと思った。

 

「——よせ」

 

 反射で動こうとした身体は枷に抑えられてままならない。

 魔術師が手を掲げる。足首に提げた金具が震えて、ぱきりと儚い音がした。

 吸い寄せられていく。柔らかな金色の光が、深淵へ落ちていく。

 

「——よせ!」

 

 身体は縛められて動かなかった。すぐに自由になるのは首だけだった。

 だから渓月は首を伸ばして——首を、ずるりと伸ばして。

 

 水の檻から出ていこうとする神の目を、咄嗟に噛んだ。

 

 唇に硬い感触。鱗の上を衣服が滑る。滑って落ちる。どん、と伸びた胴体がシールドにぶつかった。

 

「真の姿を顕わしたか。だが遅い!」

 

 魔術師が杖を振る。宝石を咥え込んだ牙が軋んだ。恐ろしい力だ。渓月は強く顎を噛み締めた。手を使おうと人間体に切り替えれば持っていかれてしまう。

 がちがちっ、と神の目が震える。理外の斥力で引かれている。だんだん強くなる。このままでは力負けする。

 

 渓月は嗤う魔術師を睨めつけた。

 奪われるわけにはいかない。転変に任せて枷こそ抜けたがこの檻を破れない。この神の目を、誓いの証を、奪われてはならない。

 記憶の楔を失えば、渓月は友の名すら忘れてしまう。それだけはあってはならない。

 

 それは本能的な行動だった。

 龍は煽るように首を振って、舌先の神の目を呑んだ。

 

 

 

 身体の最奥に落ちていく。魔力の生成器官が落ちていく。

 たとえ神の目が身体の外にするものだったとしても──

 喉を通った時点で、()()()()()()()()

 

 

 

 渓月は目を見開いた。

 岩の肌触り。硬く、強く、重い元素の力。親しんだ水とは違う気配──だが手に取るようにわかる。

 

「この──」

 

 アビスが何かするよりも、渓月が尾をしならせるほうが速い。

 全霊で元素を込めた尾は容易く檻を叩き壊す。硬質な音と共に結晶が舞った。

 自由を得た龍は咆哮する。

 

 この場において水元素は意味を為さないが。

 いまこのとき、龍は岩元素の使い手である。

 

「小賢しい!!」

 

 アビスもまた吼えた。魔神の残滓に寄生した機械が震える。深淵から湧き出る無数の魔物。空を飛ぶもの、矢を番えるもの。魔法を飛ばすもの。一様に龍を射落とさんと構える。

 素直に落とされてなどやるものか。

 

「星よ!!」

 

 落とすのは岩。荒削りの玄岩。まとめて巻き込んで圧し潰す。魔物の悲鳴などに心は痛まない。

 長躯をうねらせる。数瞬前まで胴体のあった空間を矢が貫いていく。たとえ体積を増やしても矢を避けることなどたやすい。近付く飛行生物を嚙み砕き、叩き落とし、岩元素を纏った爪で(ほふ)る。その間にも地上の有象無象に岩の雨を降らす。

 

 ちか、と視界の端に閃く赤い光。アビスの——違う、その光を弾いた岩壁の色。

 渓月は素早く首を振る。残像を残して流れる視界、そこに映し出されるアビスの魔術師。杖を振り上げている、その先が光っている——

 避けきれない。

 

「行け!」

 

 だから避けなかった、代わりに岩塊を喚んだ。火球は鱗の代わりに岩肌を炙って、そのまま魔術師に突進する。

 敵は聞き取れない罵声を残してまた姿を消した。

 

 渓月は喉の奥で唸った。これでも状況はさきの三人での戦いの焼き直し、いやあれよりいささか悪い。

 相変わらずアビスの魔術師は神出鬼没で、湧いてくる魔物はやはり際限を知らず、火力の高い魔術師の対処を優先すると雑魚の殲滅が追い付かない。背中を任せられる仲間はいないから、人型になって武器を取れない。龍の姿でなければ制空権が確保できない。

 おまけに背中に突き刺さった深淵の呪いが元素を乱してずきすき痛んだ。長細くなった身をよじって刺された物体自体は振り払ったが、影響はまだ拭えない。そのうちとうとう矢の何本かが鱗を掠った。

 

 渓月は鼻面に皺を寄せて覚悟を決めた。あまり手を出したくなかったが、背に腹は代えられない。

 龍はもう何度目かわからない咆哮をあげる。岩の槍が飛ぶ。

 

「貴様っ……!」

 

 魔術師が語調を変えたがそれこそもう遅い。

 アビスの火球が体表を焼き焦がす。しかし岩槍は狙いたがわず大角に群がった装置のひとつを粉砕した。

 吸い上げていた力の余波か何かが身体の深いところをしたたかに叩き、空間を揺らす。

 しかし敵もまた何割かが消え失せた。心なしか湧きも遅くなった気がする。

 

「……ハ」

 

 渓月は昂る感情のままに牙を剝いた。

 あれを壊すには防御を犠牲にするほかない。今しがた岩元素の扱いを知った、水に頼れない龍にはそれが精一杯だ。残る装置はざっと見積もって五つ以上。

 ——自分が大元を破壊しきるのと、力尽きて傀儡と化すのはどちらが早いだろうか?

 

 

 

 結論から言えば。

 最も力あるのは神であった。

 

 気配を察したのはアビスより渓月のほうが早かった。それは彼の持ち物のせいだ。

 白い気配。小さな白、水に満ちた鱗、渓月自身の分け身。それが背負うのはよく知る岩の——……

 ()()()()()()()()() 。

 

「天道——ここにあり!!」

 

 轟、と岩の天蓋が崩れ落ちる。

 

 もはや戦っている場合ではない。慣れぬ岩元素を編んで身を守るのが精一杯。次々に叩き付けられる岩塊に元素力を消耗する。手助けされる気配はあったがそれでもぐらぐら身体が揺れた。

 負荷が収まったころにはとっくに敵の首魁を見失っていて、逃げたのか死んだのかすら定かではなかった。燐光を放っていた大角も大量の瓦礫に埋もれてもう見えない。

 

「渓月! 動けるか!」

 

 土埃の向こうを振り仰ぐ。姿が見えなくてもその声を聞き間違えるはずがない。

 

「……う、ごけなかったら、どうするつもりだったんだ、まったく……!」

 

 文句を投げ返して宙を泳いでいく。地下洞窟だった空間は今やただの大穴だ。その縁に立つ人影が二つ……いや、三つある。

 

「渓月ー! 大丈夫かー!?」

 

 子供の声がする。大丈夫だよと渓月は答えて、それからやっと彼らのところまで辿り着いた。

 旅人と……名前は忘れたがそのお供の白いのと、槍を持って立つ友がいる。

 

「やあ。君たちも無事だったか。置いていって悪かったな」

 

 挨拶をすると旅人たちがさっと顔色を変えた。

 

「そりゃオイラたちは無事だけど!」

「本当に大丈夫!?」

「大丈……うわあ」

 

 そんなに心配されるほどか、と自分の身体を見下ろして、龍は思わず感嘆の声をあげた。寄ってたかって攻撃されたとは思っていたが。

 

「見てくれ、血が出てる……」

「……怪我をしたなら当然だ」

 

 鍾離が厳しい声でびしりと返事を寄越した。

 

「背中の傷がひどいな。見せろ」

「背中……ああ」

 

 長い首をねじって患部を視認する。最初に何か打ち込まれた箇所はどうにも身体に悪そうな色をしていた。浸食が体内元素を引っ搔き回してかなり痛い。

 

「服はどうした?」

「今ごろ瓦礫の下だな。丁寧に脱いでいられなかったものでね。転変するとこれだから……」

「ほら」

 

 鍾離が上衣を脱いで広げた。貸してくれるらしい。このままかさばって目立つよりはマシか、と渓月はすとんと身体を編み直し、

 地についた足がそのまま崩れた。

 

「う……わっ」

 

 鍾離に受け止められて事なきを得たが身体のあちこちが不愉快でうまく動けない。渓月は立ち上がろうと試みながら首をひねった。これはどうしたことか。

 頭の上から特大の嘆息が降ってきた。

 

「暴れるな。……旅人、これは押さえておくから傷を診てくれるか」

「いや大丈……」

「動くな」

「あ痛っ」

 

 汚れるので上衣を返したかったのだが。

 結局渓月は鍾離の肩に顎を乗せたまま旅人に背中を晒すことになった。腰にマントをかけてくれた優しさが沁みる。

 

「これアビスの……ちょっと待って、浄化できると思うから」

「すごいな、旅人……」

「あまり喋るな」

「大丈夫だって。なんでそんなに当たり強いんだ君……」

 

 傷のあたりが温かくなる。脈打つ痛みがゆっくり引いていくのを感じながら渓月はぼんやりと瞬いた。窮地を脱したからか今さら疲労が押し寄せてくる。

 

「眠いか」

「ああ、少し疲れた……」

「……少し休め。あとのことはやっておく」

「うん……」

 

 労わるように肌を撫でていく指が少しぎこちない。

 鍾離の横顔を盗み見る。表情は平静を装っているのにまるで迷子の子供みたいな目をしていたから、渓月は呆れて笑ってしまった。

 呑んだ神の目はまだ腹の中にある。その力を感じながら仙は呟いた。

 

「……この程度では死なないよ。大丈夫だ、君を置いて死んだりしないから」

「……」

 

 もう一度鍾離が落としたため息にはなぜか怒りの色が混ざっていた。

 

「……いっそ文句を言いたくなるな」

「もう言ってるじゃないか……」

 

 どうやら言葉を重ねると怒らせてしまうようなので、お言葉に甘えて寝ることにする。

 男の広い肩の上でもぞもぞと寝心地のいい姿勢を探り、渓月は深く息をついた。

 

「じゃあすまないが、少し寝る。すぐ起きるから……おやすみ、鍾離……」

「……ああ。おやすみ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この国を愛している。

 この国の民を愛している。

 この国に、かつて岩神として在ったものを愛している。

 

 この国を愛している。

 この国の民を愛している。

 この国に、かつて雨神として在ったものを愛している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目を覚ましても、しばらく頬に滑らかな敷布の感触を感じたままでいた。

 ゆっくりと目を開ける。焦点の合わないほど近くにきらめく宝石があって、やはりそれをしばらく眺めていた。

 

「……」

 

 やがて渓月はむくりと身を起こした。

 寝かされていたのは紗のかかった寝台だ。霓裳花の絹でできた寝具と夜着は滑らかで肌に心地よい。寝台から足を下ろすと毛足の長い絨毯が指の間をくすぐった。

 

 用意されていた着替えをしばらく見つめたあと、渓月は諦めて着替えることにした。服の脱ぎ着は面倒だが、寝間着で外を闊歩するわけにもいかない。

 着替えながら自分の身体を観察する。男の特徴も女の特徴もあまりない肌はつるりとしていて、痛みはなく、傷はなく、違和感もない。少し疲れがあるが許容範囲内だろう。帯を締めてから耳飾りと足飾りをつけた。

 寝台に置かれていた神の目を取り上げて口付ける。そのまま少し考えたが、結局所定の位置に装身具として取り付けた。

 こん、と足首に当たる宝石は岩の色をしている。渓月にはやはり扱い方がよくわからない。

 

 房室(へや)の外に出ても人の気配はしなかった。渓月は少し顎をあげて空気の匂いを嗅ぐ。外景の力を感じた。仙人の洞天だろう。

 おそらく鍾離だろうな、と渓月は衣の袖をつまんだ。仕立てや柄の趣味がそんな感じだ。わざわざ自分に合わせて仕立てたのかと思うと少し面映ゆかった。

 

「お目覚めですか、玄君」

 

 玄関から出たところで声がかかる。青いヤマガラの精霊だった。呼称からして知り合いらしいが、当然こちらは覚えていない。

 

「その呼び方はおよし。おはよう。ここは鍾離の洞天か?」

「はい。お目覚めなら知らせを出すように言われていますので、このままお待ちください」

 

 ヤマガラは簡単な仙術を使って知らせを飛ばした。洞天の外に消えていくのをふたりで見送る。

 

「帝君がお戻りになるまで何をしましょうか? お茶を飲まれますか? お菓子もありますよ」

 

 弾んだ調子で精霊が提案をする。渓月は少し笑った。洞天からは出してくれないようだがまあいい。

 

「では、君のおすすめの茶を。ついでに話相手になってくれないか?」

「ええ、喜んで! 景色のいい場所を知っています!」

 

 嬉しそうに囀るヤマガラはこの洞天の管理者であるらしい。外景の力をうまく操って見る間に洞天内を転移し、茶の準備を整えた。

 話を聞くところによると名前はマル。仙号もある。渓月はアビスにとっ捕まって消耗し、ひと月ほど眠っていたらしい。鍾離は仕事に出掛けている。旅人——誰だ——も元気でやっているらしい。アビスの活動は一旦収まったそうだ。

 

 話が弾みきったころ、背後から静かに草を踏む音がした。

 

「渓月」

 

 マルが一礼して席を外す。

 渓月は立ち上がって友を迎えた。

 

「鍾離。おはよう」

「おはよう。調子は?」

「問題ない」

「そうか」

 

 返事はあったが、表情を見るにどうやら信用されていない。そのまま距離を詰めてきた鍾離は手を伸ばしてきた。仕方がないので好きにさせてやる。

 彼はわざわざ手袋を外した手で渓月に触れた。頬の輪郭をなぞり、額を撫でる。無言で腕を出すよう要求されたので袖をまくってやり、背中側を探るようにする掌を甘んじて受け入れる。

 

「……渓月」

 

 やがて気が済んだらしく、鍾離は手を下ろし、しかし詰めた距離を戻さずに呼んだ。

 

「どうか?」

 

 少し高い位置にある黄金の瞳を見返して、渓月は訊いた。

 

「……」

 

 友はゆっくり瞬いた。虹彩に睫毛の翳が落ちている。

 

「……ここでずっと眠っている気はないか。おまえはもう、起きてこないほうがいいと思う」

「——は?」

 

 

 

 

 足元に瑠璃百合が揺れている。




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