河岩帯礪   作:海野ミウ

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 何の冗談かと渓月は思った。

 

 しかし冗談でないことは明白だ。鍾離の双眸は静かな、あの一度決めたら動かない堅固さの色で、じっとこちらを見下ろしている。

 渓月は努めて冷静になろうと深呼吸した。

 

「……それは、どういう意味だ? 起きてこないほうがいい、だと?」

 

 いつの間にか茶会の用意は消え去って、今この場所には見渡す限りの草原しかない。匂い立つ瑠璃百合が物も言わずに揺れている。

 

「渓月。お前は変わったな。昔からそうだ。眠りにつくたびにお前は摩耗を受ける……」

「……変わっていく私を見るのは、辛いか?」

 

 鍾離の語調は静かだが沈鬱で、渓月は目を伏せるしかなかった。

 渓月は彼と違ってもろに摩耗の影響を受ける。記憶は時の中に剥がれ落ちていく。それを取り戻すすべはないし、抗うすべはない。

 渓月にとってはとうに受け入れたさだめだが——彼は違うのかもしれない。

 渓月はもはや忘れることしかできないものだ。ありとあらゆることを——この神の目に記録された願い以外のすべてを、いずれ忘れ去ってしまうだろう。新たに覚えることも、いつかできなくなるだろう。

 だが彼はそうではない。すべてを覚えているとはどういうことなのか、仙には想像することすらできない。

 

 戦乱で、寿命で、業障で死んでいった友たちの、その全てを覚えているのはどんな重みだろう。旧きものが時の波に削られ朽ち果てていく中で、己だけ揺るがずにいるには、どんな胆力が必要だろう。

 ——形を変え、容姿を変え、記憶を失って、別人のように成り果てながらそれでも友を名乗るものをそばに置くのは、どれほどの苦痛だろう?

 

 そういう意図なら、と渓月は思う。摩耗の疲労が鍾離さえも蝕むのなら、その体現たる渓月を友とするのが辛いなら、確かに身を引いたほうがいい。旧い友を苦しめるのは本意ではない。

 

「……いいや」

 

 だが、彼は否定で答えた。地面に落ちた影が首を振るのが見えた。

 

「いいや……そうではない。お前が疎ましいのではない……俺も、できれば最後のときまでお前と語り合いたいと思う」

 

 できれば。

 その言い回しが水門に詰まる枝葉のように胸に引っ掛かった。それは実際には達成が不可能なときの表現だ。渓月は説明を求めて視線を合わせ直した。

 山々の隙間から零れ出る夕景のような、憂いと慈愛の入り混じった瞳が、そこにはあった。

 

「なぜできないと思った」

「……無理をしているだろう、渓月。お前は俺のために無理をして起きている」

「……は?」

 

 こいつは、何を、言っているのか。

 鍾離は啞然とする渓月に構わず続けた。

 

「寝る前に何があったか覚えているか?」

「……覚えてない、けど、アビスとやり合ったらしい、とは」

 

 ヤマガラから聞いた。

 彼は頷く。

 

「……やはり覚えていないか。そうだ、俺は……お前が眠りに落ちたとき、また数百年起きてこないのではないかと思った。お前はそれほど消耗していた。たかがアビスの魔術師相手に、だ」

「私が弱くなったと言いたいのか?」

「ああ。お前は弱くなった。驚くほどに」

 

 あまりに直球の肯定だった。鼻白むより驚きが先に来る。

 

「それは……それは、仕方のないことだ。そうだろう? 天理から逃れることはできない」

 

 摩耗はさだめだ。人も、仙も、神も、いかなる元素生物も、摩耗から逃れることはできない。だから渓月が望むのは忘却(まもう)しないことではなく、摩り減り矮小になってなお、どうにかして友の隣に在ることだ。

 

「ああ。——気付いているか、渓月」

 

 唐突に鍾離の手が手首を掴みあげた。思いのほか強い力で引かれて仙はたたらを踏む。

 静かで、硬く、厳然とした託宣のような声で、かつて神だった男は言った。

 

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「……何を」

 

 渓月は笑ってみせた。

 

「そりゃあ私は弱くなっただろうが、この通り身体はしっかりしている。そこまで不安がることじゃ——」

「若陀が」

 

 被せてくる声がやはり硬い。こちらを見下ろす瞳は知らない色をしている。

 

「若陀が、摩耗し果ててなお俺たちを苦戦させるほど強かったように。また邪心に支配されても善良な部分が顕現したように。マルコシアスについては摩耗だけではないから別問題だが」

 

 知らない名前ばかりを鍾離は挙げた。それが知らないのではなく忘れたことなのだとはわかっている。璃月はいくつもの戦を経験してきた。その最中に多くの友人たちが散っていったであろうことは想像に難くなく、彼らのほとんどをもはや思い出せないだろうことも、また簡単に推測できる。

 

「発露の仕方に個体差があるとはいえ、摩耗でここまで弱り果て、自己の証明すら困難になった例はお前くらいだと、気付いているか?」

「……」

 

 渓月は絶句した。

 掴まれた手首を振り払えない。彼の手は少しも動かない。まるで大地に根付いた大岩のように。

 

「今回の傷も癒えるのに時間がかかった。昔ならば数日で回復したであろう傷だ」

 

 ……耳鳴りがする。遠く、ごうごうと唸る耳鳴りがしている。

 渓月、とため息のような声で鍾離は呼んだ。

 

「俺のために起きているのなら……かつての約束がそれを強いているのなら、その必要はない、と言わせてくれ」

「……き、みは」

「俺は神を辞めたが、これからも長い余暇があるだろう。……お前にも同じ時間があるようには……とても口惜しいことだが、思われない」

 

 渓月はただ喘ぐように息を吸った。雷でも落ちたかのように脳髄が痺れて、言葉を返すことができなかった。

 目の前の男はいっそ柔らかく聞こえるほど静かな声で、しかし渓月にとっては鋭利な刃に等しい言葉を、ゆっくりと刺していく。

 

「岩王帝君は死んだ。彼は全ての契約を破棄し、神の心を失った」

 

 耳鳴りがする。轟くような耳鳴りだ。

 鍾離は掴みあげていた渓月の手首を労るように撫でて、それから両手で包み込む形にした。

 

「もういいんだ。もう休め、渓月。俺はそうした。友の摩耗を加速させるのは俺とて本意ではない」

「……休め? 休め、だと? 君を置いて?」

 

 どうにか返した問いは震えて掠れていた。無二の友の宣告はそれほどの衝撃だった。

 ふ、と鍾離は微笑んだ。

 まるで咲き誇る瑠璃百合にそっと覆いを掛けるかのごとく、柔らかな布が落ちるような声で、彼は言った。

 

「……俺は往生堂の鍾離、送仙を生業とするものだ。──とうに覚悟はできている」

 

 耳鳴りがしている。ごうごうと鳴る。荒れ狂う激流の音だ。

 

「──ふざけるなよ!!」

 

 握られた手をあらん限りの力で振り払った。弾かれた肌が高い音を立てる。

 いったん噴き上がった激情はそれだけでは止まらなかった。渓月の怒りに応えて元素力が渦巻く。

 ——そう。これは怒り。血潮を轟かせるような、脳髄で唸りをあげる激怒。

 

「私が休みたいと言ったか!? 苦しいと言ったか!? ついていけないと言ったか!? どうなんだ!」

 

 覚悟——覚悟。

 渓月にだって覚悟がある。矜持がある。摩耗の果てにすべてを忘れ肉の体さえ失って、やがて知能のない元素生物に成り下がる未来を、想像しないわけはない。それでも変わらないものをこそ、誓いとそう呼ぶのではないのか。

 それを「俺のために無理をしている」などと——この男は!

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「侮辱なら受けて立つぞモラクス!!」

 

 手が力んで強張る。それほどの怒りがある。力のままに掌中に水元素を喚んだ。

 神の目を得た瞬間のことも、そのきっかけも、その日の出来事も、渓月は覚えていない。

 覚えているのはただ「願い」だけだ。

 

「璃月を去る最後の仙は——この私だ!!」

 

 瞬間、場に凝集した水元素が爆発した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 友の足首に揺れる岩色の宝石を見ると、鍾離はいつも思い出す。もはや友が覚えていないだろう過去を、友の代わりに思い出す。

『神の眼差し』が──彼ではない神の眼差しが、渓月に注がれた日のことを。

 まるで昨日のことのように。

 

 その日玄石の仮面を外したときの、冷たく硬い感触を覚えている。

 隣に立った友が吐いた深く重い息の音も。

 それから、目の前にそびえた伏龍の木の、その梢の形さえも。

 ——時の流れに摩り切れてしまった若蛇龍王を、総力を持って封じた日のことだ。

 

 ふう——……と、彼も——岩神も、息を吐いた。

 疲労があり、哀惜があった。それは死闘を繰り広げた疲れであり、ひとりの友をこの手で封じた哀しみだった。

 長い沈黙があった。岩神と白龍は高さも形も違う肩を並べながら、各々物思いに耽っていた。

 

「……ああは……なりたくないな」

 

 やがて龍がそう呟いたことを覚えている。

 彼は少し首を曲げて隣の友を見下ろした。友はこちらを見なかった。

 当時の渓月は女によく似た外見をしていて、そのために玄君の号を持っていた。今と変わらず白く長い髪が、まろい肩に流水のようにかかっていたのを覚えている。

 

「……しかし、未来に何が起こるかは、たとえ天理でさえ断言できないことだ」

「うん」

 

 岩神は答えて、龍は頷いた。

 今ほど極端でなかったとはいえ、当時の渓月にも既に摩耗の兆しがあって、思い出話をしても曖昧な反応しか返ってこないことが時折あった。それは今よりももっとずっと不安で恐ろしいことだったのだ。

 特にそのとき、彼らは摩耗の行き着く果て、その一つを目の当たりにしたばかりだったから。

 

「私が若陀のようにならない保証はない……摩耗に逆らうことも、またできない。わかっているさ」

「ああ。そして彼のようになりたくはないと思う気持ちも、また理解できる」

 

 うん、と渓月はもう一度言った。僅かに顎を上げた横顔の輪郭を覚えている。今は失われた形だ。

 白龍は伏龍の木を眺めていた。まるでその葉の一枚一枚に、若陀龍王と過ごした日々が記されているかのように。あるいは、進むべき道の指針が刻まれているかのように。

 

「……」

 

 その横顔を見ながら岩神は深く長く息を吸ったのだった。吸った息は丹田に溜まり、腹の底に渦巻く気の塊を作った。覚悟を決めるためにはその作業が必要だった。

 これからも似た出来事は起こるだろう。摩耗は長命のものたちを蝕み、否応なしにすべてを変質させるだろう。あの戦争を生き抜いた数少ない旧き友たちを。その心を、記憶を、思いを。

 それを岩神は見送るだろう。彼はいっとう摩耗に強かったから。

 

 ——そのとき、手を下すのは己だろう。

 岩神モラクスは契約の神だ。「璃月を守る」——その契約が破られれば、あるいは契約に定められた状況に達すれば、行ってしかるべき行動をする責務がある。

 最後まで。あるいは、最期まで。

 

 ——大丈夫だ。できる。

 岩神は冷静に判断した。たとえそれが心には辛く苦しいことだったとしても、彼にはできる。それは期待でも楽観でもなく、ただの事実だ。

 掌に残ったままの仮面の冷たさと重みを感じながら、岩神は友の横顔を見ていた。四千年あまりの間背中を託してきた友の横顔を。

 そのとき自分がどんな顔をしていたのか、今でも彼は知らない。

 

「——大丈夫だ、渓月」

 

 岩神はそう言った。主語も目的語も明示せずに、ただそう言った。

 何が? とでも言いたげな表情で、そのとき初めて渓月は岩神の顔を見て、

 

「っ……!」

 

 血相を変えて彼の顎をぶん殴った。法器の角だったと記憶している。

 いかに武神とはいえ、感傷に浸る友人からいきなり攻撃されるなど思ってもみなかった。とっさに回避し切れなかった岩神は少したたらを踏んで、顎を押さえながら呆然と龍を見つめた。

 

「な……なんだ、渓月」

「きみ——君、その、顔、なんて顔を」

 

 切れ切れに返ってきた返答の、その息遣いまでもを彼は覚えている。滑らかに言葉を紡げない様子は相当の動揺を表していると、当時の混乱の中でもわかった。

 白魚のような手が伸びてきて、衣を引きちぎるかと思うほど強い力で岩神の襟首を引き寄せた。後ろに寄っていた重心が今度は前に引き戻された。

 

「何を——何を考えていたか、言ってみろ。今、この間に」

「……もし、皆に——そしてお前に、摩耗の『果て』が訪れたとしても」

 

 問われたから、岩神は答えた。見開かれた瞳の一番深いところにある、激流のような揺らぎを覗き込みながら。

 

「心配はいらない。俺が摩耗に強いというのはおそらく事実だ。契約に従い、俺はすべての処理を完遂する。必ずだ」

 

 また殴打されかけたが、さすがに今度は手首を弾いて事なきを得た。渓月が見た目に反して手が出やすいのは、なにもそのとき突然始まったことではなかった。

 

「それで……それで、君は、どうするつもりだ。来たるべき終わりのときに」

「……」

 

 終わりはすべてのものにやってくる。五千年を生きた岩神といえど例外ではない。当然彼はそれを理解していたが、具体的に考える段階にはなかった。彼には背負うべき国があり、守るべき民があった。

 

「……俺もまた璃月のものだ。すべては契約に従い履行される」

「この馬鹿!!」

 

 岩神は唖然と瞬きを繰り返した。それは罵倒にあまりに躊躇いがなかったからでもあるし、そんな調子で友から罵られたのが初めてだったからでもあった。

 

「ど……どうした」

「どうしたもこうしたもあるか……!」

 

 それは絞り出すような怒声だった。渓月は岩神の胸元を掴んだままずるずると崩れ落ちた。いきおい彼も一緒に地面に座り込んだ。

 どこか負傷でもしたのかと思ったが、そうではなかったのだ。

 

「……そんな寂しいことを、言わないでくれ」

 

 寂しいこと。

 岩神は怪訝に思った。友が何を指しているのかは明らかだったが、そう表現される理由がわからなかったからだ。

 

「どうして置いていかれることを前提に話す? ただ君が、誰よりも頑強だからというだけで」

 

 その声にあった深い哀しみの色を覚えている。当時の彼にとっては予想外のものだった。

 友を失うことは当たり前に哀しい。それは長命のものであっても、七執政モラクスであっても変わらない。ただ彼はある程度の諦念を備えているだけだ。喪失は仕方のないことだから。散っていった友に囚われてしまっては、この長き生はあまりに苦しいから。

 

「もちろん俺が先に斃れる可能性もあるが……それは不測の事態にあたる。そのときの処遇もすべては契約に……」

「君が!」

 

 渓月は顔を伏せたままだったから、そのときの表情を彼は知らない。ただ縋るような手の力を覚えている。

 

「仙を皆見送ったら、君は独りになってしまうだろう……誰も君を見送るつもりがないなんて、寂しいじゃないか……」

「……そうだろうか」

 

 『誰も』が岩神自身をも含んでいることにくらい、当時から気付いていた。

 彼は友の主張を理解したし、孤独な葬列が寂しいものだという感情にも同意できたが、……それでも、そびえ立つ岩たる彼が最も丈夫であろうことは明らかな事実だった。

 

 深く、深く息を吐く音がした。同時に上下する丸まった背中も、彼は見ていた。

 

「よし──決めたぞ」

 

 その決然とした声の響きも、上げられた顔に浮かぶ意志の色も、瞳に宿った渓流の色さえも、やはり彼は覚えている。

 ずっと胸元を掴んでいた指からやっと力が抜けた。細くまろい指先がそっと乱れた衣を整えて、それから渓月は胸の前で手を組んだ。旧い礼の作法だった。千年も前でさえ、もう民草が忘れ去っていたほどの。

 

「私が君を送ってやろう。璃月が滅び、神がこの地から去るそのときを見届けよう。唯一君に送られないものになろう」

 

 それは高らかで厳かな宣誓だった。声音も、指の組み方も、表情も、全てが龍の覚悟を示していた。彼はそれに何かしかるべき応えをする必要があった。

 だが彼は──彼はそのとき、困り果ててしまったのだ。

 

「……だが、お前には」

 

 そびえ立つ岩たる彼の頑丈さが明らかな事実であるように、流れゆく水たる渓月の変容も、また明白であるように思われた。

 大河が年月とともに流路を変えるように。あるいは、大地を流れゆく水が一瞬たりとも停滞しないように。かつて白龍が住処にしていた河が、今や名すらもこの世に残ってはいないように。

 お前には無理だ。

 岩神はそのような内容をできるだけ婉曲に伝えようとした。想ってくれるのは嬉しいが、不可能な契約を結ばせるわけにもいかなかったからだ。どう言葉にしようかとほんの少し言いあぐねた瞬間だった。

 

 ふたりの間にあった、腕を伸ばしたほどの小さな空間に、黄金の光が射したのは。

 彼らは光が目線の高さで形を持っていくのを無言で見つめていた。驚きに言葉が出なかった。

 やがてころりとした宝石になった光を、渓月がそっと掴み取った。

 

「——はは」

 

 友は持った神の目を振りかざした。天に向かって。遠く星空を背負う神々の島に向かって。

 

「天理よ、私にこれを下賜したな! 見ているがいい——私が、私こそが、璃月を去る最後の仙だ!」

 

 渓月は煌めく瞳でモラクスを見つめ、

 

「——我が君」

 

 ただ一言だけを発して、優雅な動きで身を伏せた。

 それは叩頭という礼の形だった。建前上仙人扱いされていたとはいえ、以前は神でさえあった龍が、初めて明確に示した臣従の姿勢だった。真珠貝のような爪が弾いていた光の色を、その揃えられた指の形を、肩から地面へ滑り落ちた白髪の艶を、彼はしかと覚えている。

 神に神の視線は注がれない。魔神だった龍は仙へ落ち、己の運命を岩神に紐付けた。

 

 龍の——女仙のつむじを見下ろしながら、彼はふと眉間の力を抜いた。

 今この瞬間彼らの上下関係が決まったのだとしても、彼が神で龍が仙なのだとしても、それでも彼らは旧いふるい友人同士だった。こうしてお互いに地面に尻をつけたまま語り合う仲なのだった。

 ならば契約ではないとの宣言に甘えるのではなく、その磨き抜かれた珠玉のごとき覚悟を受け取るべきだ。彼はそう思った。

 彼は少し前のめりになって、平伏した友の肩に手をかけた。

 

「さし許す。……契約のくくりには入れずにおくが、俺も義理は果たさせてもらうぞ」

 

 顔をあげて微笑んだ女仙の、額の汚れを拭ってやったことを覚えている。

 

 今になって——実際に摩耗の進行を目の当たりにした今になって思えば。

 当時口にした「義理」とは、何も誓いの完遂に協力することだけではないと、そう鍾離は判断する。

 その柔軟さが彼らの間では許される——誓約は契約ではないのだから。

 

 鍾離は忘れえぬものだ。彼はありとあらゆることを記憶する。

 だが友はそうではない。忘れてしまうとはどういうことなのか、彼には想像すらできない。

 戦乱で、寿命で、業障で死んで行った友たちの、その全てを二度と思い出せないのはどんな苦しみだろう。在りし日の姿も記憶さえも失って、己の証明すら危ぶまれても立ち上がるには、どんな覚悟が必要だろう。

 ——それを鍾離の存在に強いられているとしたら、どれほどの苦痛だろう?

 元々起こすつもりはなかったのだ。旧い友を苦しめるのは本意ではない。

 

 

 

 

 

 

 服の裾がはためく。鍾離は少し腰を落として、元素力の奔流から身を守っている。視界を閉ざすほどの濁流だ。

 

「——!」

 

 その向こうから水槍が伸びてくる。常人ならば避けられない完璧な奇襲——

 ——だが鍾離は違う。

 

「堅如盤石!」

 

 輝く玉障が穂先を阻む。それはかつて岩神が操った障壁によく似ていた。敵の攻撃を完全に防ぎ味方の攻撃を一切阻まない、神の手なる障壁だ。

 刺突の勢いのままに飛んできた蹴りをもシールドは阻む。薄く輝く玉障には罅すら入らない。

 当然鍾離は反撃する。槍を繰り元素を喚ぶ。洞天内の造られた大地は穿たれ、割られ、抉られ、次第に荒野と化していく。

 叩きつけられるのは濁流のような怒り。彼はそれをいなし、捌き、ときに防いで、足場の良いところを選んで立ち回る。

 

 彼らの戦いは長引いた。それはひとえに鍾離が手加減したからだ。

 かつて岩神だった男は強い。かつて雨神だった龍とは違って。それは技術ではなく力の差で──記憶を失ったとはいえ、身体に刻んだ武術は未だ無事だとみえた──彼が全力を出せば今の渓月など相手にならないのだ。

 けれど鍾離はそうしなかった。

 相手を叩きのめしも、手を抜いて負けたふりもしなかった。それは一種の組手に近かったかもしれない。

 ただ彼らは体力の続く限り刃を交え、言葉のない会話を交わした。

 

「ふっ──!」

「はっ──!」

 

 既に戦場は足場の端、仙人の脚だろうとこれ以上退がる場所はない。陽光を弾く穂先と重い拳が交差する。

 シールドが軋む。構わず崖の端へ追い詰める。蹴りを弾くと渓月の身体が泳いだ。即座に槍を突き込む。避けられるはずがない。その足場がなく、猶予がなく、隙がない。

 だが渓月の身体は一切の躊躇なく後ろへ跳ねた。虚空へ。

 置き土産に放たれた水弾が爆発し、とうとうシールドが砕け散った。すかさず身体に巻きつく純水の鞭。強引に道連れにされ、二人の神仙は浮島の端から落ちていく。

 金と青の目線が交錯する。こちらを睨み据える目元は何よりも雄弁だ。絶対に引き下がるものかという覚悟、それからなんとしてでも鍾離に一撃入れてやりたいという怒り。

 

「──ハ、」

 

 飛沫を含んだ風が頬を叩く。鍾離は自分が笑ったことを意識の隅で自覚した。凶暴な笑いだ。

 闘いを愉しむ性質を彼は持っていないが、久方ぶりの友との手合わせとなれば話は別だ。

 

「天道──」

「我が奔流は、」

 

 元素力を結集する。喚び落とすのは巨岩。空が翳り、天星が墜ちる。

 龍の呼び掛けに応えて河が生まれる。奔流がとぐろを巻く。

 これが最後の一撃だと、暗黙のうちに了解があった。

 

「万象──!!」

「星をも穿つ!!」

 

 まあつまるところ──鍾離も渓月も、根が得物を振るう武人なので。

 こうして拳を通してこそ伝わる機微というものが、確かにあるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 見た目に違わず逞しい男の腕が難なく渓月を受け止めて、まるで骨董の花瓶か何かのように地面に下ろした。

 

「無事か?」

「……おかげさまで」

 

 洞天は広いように見えて実は外景の力でやりくりしているだけの空間だから、奈落へ落ちてもいずれ地上に戻ってくる。

 ただ最後になりふり構わず大技を放った渓月は体勢を整えられず無様に墜落するところだったというわけだ。

 仙は渋面で鍾離を見やった。

 周囲の地形が変わり果てたというのにこの男ときたら髪を一筋ほつれさせたくらいで、微風にひらめく衣装の裾ひとつ傷ついていない。さらに言えば落ちた瞬間は渓月のほうが下だったはずで、何かズルをして先回りしたあげく無駄に繊細に受け止める余裕まであったと、そういうことらしい。

 対してこちらは起き抜けに身につけたばかりの服があちこち掻き裂かれてぼろぼろだ。肌が無事なのは自分の実力ではなく相手の実力である。

 どうやら岩も驚くほど渓月が弱くなったというのは事実のようだ。やれやれ。仙は肩をすくめた。

 鍾離もまた爽快とは言い難い顔をしている。深い嘆息を落としたあと彼は言った。

 

「……まったく、お前がこれほど頑迷とはな」

「逆に聞くが、寝ろと言われて私が大人しく永眠すると本当に思っていたのか?」

「その言い方はよせ。……そうだな、二割は」

「二割に賭けてくれてよかったよ……」

 

 むしろ渓月はおののいた。これだけ彼我の実力差があるなら神の目を毟って封印に放り込んでしまうこともできただろう。そうしないからこそ彼は渓月の友なのだが。

 

「……とにかく」

 

 渓月は咳払いした。手加減されたのは腹立たしいが、地形を変えるほどの大喧嘩は別の議題によって起こったものだ。

 

「私は寝てなどやらないぞ。私の顔も見たくないほど苦しいというなら別だが」

「……」

 

 鍾離は肩の線が揺れるほど深い嘆息を落として、片方の手掌で顔を覆った。

 

「……まったく……」

「寝ないぞ」

「ああ、わかった」

 

 仙はぴくりと白い眉をあげた。語調が承諾のそれではなかったからだ。

 

「お前がいくら言っても寝ないことはよくわかった。俺の負けだ」

「……本音は?」

「五十年後に気が変わっている可能性はある」

「……」

 

 むっすりと渓月は黙りこんだ。こうして神の目を持っている以上誓約の内容だけは摩耗しないはずだが、断言しきれないのもまた確かだ。どちらかというと一日か二日で喧嘩したのを忘れるほうが確度が高い。

 鍾離は朱を引いた目尻を下げて苦笑を浮かべた。

 

「そう怒るな。俺とてお前と過ごす時間が増えるのは喜ばしい」

「……ああ、わかったよ」

 

 最後の仙になるという宣言も、いいからもう寝ろという宣告も、互いに生半可な覚悟で発したものではない。渓月は自分が摩り切れ果てる可能性を理解しているし、鍾離だって覚悟を踏みにじる暴力性を理解しているだろう。二人とも幾千年を生きたのだ。たった数時間の論争で曲げられる意見などもはや持たない。

 しかし妥協することはできる。

 渓月は胸の中の空気を丸ごと吐き出して、目を伏せて笑った。

 

「まあ……そういうことにしよう。五十年だな。定期的に喧嘩するのも、まるで凡人みたいで悪くない」

 

 そうだな、と、自称凡人は少し嬉しそうに言った。

 

 




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