転生エルフののんびり異世界生活 作:光合成で生きたい人
朝の澄んだ空気が、少しずつ街の活気を帯びていく。
王都のメインストリートから一本路地に入った、レンガ造りの建物の立ち並ぶ静かな通り。その片隅に、俺の営む小さな喫茶店「カフェ・コモレビ」はひっそりと佇んでいる。開店準備を終え、真新しいエプロンの紐を結び直したのと同時に、アンティーク調の真鍮のベルが、心地よい音を立ててドアの開閉を知らせた。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
「いつもので」
「かしこまりました」
カウンター越しに声をかけると、常連の老紳士が片手を上げて、いつもの特等席である窓際の席へと腰を下ろした。使い込まれた杖を壁に立てかけ、彼はほっと息をつく。
俺は手元のサイフォンに火を点ける。フラスコ内の湯がポコポコと沸き立ち、ロートの中のコーヒー粉とお湯が混ざり合う。竹べらで優しく攪拌し、火を外して抽出したばかりの琥珀色の液体を温めたカップに注ぐ。自家焙煎した豆の、深く香ばしい匂いが店内に広がっていく。
清潔なカウンター、魔道具から静かに流れるリュートのBGM、窓辺に飾られた小さな観葉植物。誰かの日常の、ほんの小さな止まり木のような場所。そんなありふれた、しかし俺にとっては奇跡のように愛おしく、何にも代えがたい日常。
だが、ほんの少し前まで、俺の生活はこれとは全く違うものだった。
──実を言うと俺は、元・日本人である。
前世の記憶は、ひたすらに薄暗く、そして慌ただしいものだ。
俺が勤めていたのは、絵に描いたようなブラック企業だった。来る日も来る日もすし詰め状態の満員電車に揺られ、終電を逃しては会社のデスクの下で丸まって眠る日々。
食事はコンビニの栄養ゼリーか、冷え切った缶コーヒーだけ。胃痛を安い薬で誤魔化し、白髪が交じり始めた頭を抱えながら、終わりの見えないタスクに向かってキーボードを叩き続けた。
「俺、このプロジェクトが終わったら有給とって、絶対に温泉に行くんだ……」
そんな死亡フラグめいた独り言を呟きながら身を粉にして働き、そして過労の末に倒れた。心臓が乱暴に握り潰されるような激痛の後、意識が途切れ……気がついたら、深い深い森の中に立っていた。
何の因果か俺は転生した。伝説の種族『エルダーエルフ』として。
エルフの中でも最上位、種の起源に近い存在。寿命という概念すら曖昧で、魔力そのものが血肉を巡り、「世界樹の化身」とも崇められる神話の種族だ。
前世の記憶を持っていた俺は、自分が置かれた状況を理解した瞬間、心の底から歓喜した。
「やった! 念願の異世界スローライフだ!!」
前世の労働地獄から完全に解放され、しかも最強クラスの能力を持つ種族。ノルマも、納期も、理不尽な上司の怒声も存在しない。あるのは圧倒的に美しく、優しい大自然だけだ。
気の向くままに魔法の練習をしたり、風や土の精霊と戯れたり、森に自生する甘い果実を食べたりと、最初の数十年はそれなりに異世界を満喫していた。指先一つで大樹を育て、手のひらに集めた光で夜を照らす。木々の呼吸が聞こえ、大地の魔力が直接体に流れ込んでくる感覚は、コンクリートジャングルで消耗しきっていた俺の魂を、これ以上ないほど優しく癒してくれた。
しかし、エルフ──とりわけエルダーエルフの「時間感覚」というやつは、人間のそれとは決定的に違っていた。
彼らにとっての1年は、人間にとっての数年、数十年に等しい。
何しろ、寿命が恐らく無いのだ。焦る必要は何もない。明日のことは来年考えればいいし、来年のことは百年後に考えればいい。意味が分からないと思うが、実際にそんな感覚になってしまうのだ。
その上暮らしていた森は豊かで、外敵もおらず、腹が減れば何なら空気中の魔力で満足すこともできる。雨が降れば葉の下で雨だれの音を一年間聞き続け、雪が降ればそれが溶けるまで目を閉じて瞑想に耽る。
「今日は天気がいいから、あの雲が山の向こうへ流れるまで空を見上げていよう」
そんな悠久の時の流れに、元日本人である俺のせっかちな精神も次第に、そして確実に同化しつつあった。
運命の日は、あるうららかな春のことだった。
苔生した巨大な倒木の上に寝転がっていた俺は、木漏れ日がぽかぽかとあまりに気持ちよかったため、「ちょっとだけ昼寝しよう」と目を閉じた。風が頬を優しく撫で、遠くでせせらぎが聞こえる。本当に、最高に心地よい昼下がりだった。
ほんの少し、前世で昼休みにデスクで突っ伏すような感覚だったのだ。
……次に目を開けた時。
「……ん、ふわぁ……よく寝た……って、体が重っ!?」
体を起こそうとして、猛烈な違和感に気づいた。寝違えたなんてレベルではない。体が、物理的に動かないのだ。
俺の頭には見知らぬ小鳥のつがいが立派な巣を作って卵を温めており、手足には太い蔦が何重にも絡まり、足元には見たこともない新種の極彩色キノコが群生していた。足先は土の中へ深く根を張りかけており、大地の脈動と完全に同調しかけている。
それだけではない。風景もすっかり変わっていた。目の前にあったはずの小川は干上がり、代わりに立派な広葉樹の森が形成されていた。小鳥どころか、リスや鹿のような動物まで俺の腕(だったはずの枝)の周りで安らいでいる。
パニックになりながら、俺は慌てて周囲を漂う光の玉──精霊に「どれくらい寝ていた!?」と尋ねた。
すると彼らは、無邪気にくるくると回りながら、楽しそうにこう答えたのだ。
『あなたが眠ってから、ちょうど100回目の春が来たところだよ!』
……血の気が引いた。
「100年? 100年だと!? 嘘だろ、ちょっと眠っただけだぞ!? 電車で一駅寝過ごすくらいの感覚で、一世紀も!?」
俺は危うく、文字通り森の一部になりかけていたのである。このままあと数回「二度寝」を繰り返していれば、俺は完全に植物としての自我に溶け込み、二度と人型に戻ることはなかっただろう。
「冗談じゃない!!」
俺は全身に絡みついた蔦を魔力で引きちぎり、頭上の鳥の巣をそっと近くの枝に移してから、森に響き渡る声で叫んだ。動物たちが驚いて逃げていくが、それどころではない。
このままじゃダメだ。
折角の異世界転生が、誰とも言葉を交わさず、美味しいご飯も食べず、ただ光合成をして終わるだけの「究極の隠居生活(物理)」になってしまう。
俺が夢見ていたのは、こんな植物まがいの余生ではない。活気ある街、人間たちの営み、美味しい料理、そして俺を支えてくれた温かいコーヒーのある生活だったはずだ。
そうして俺は、初めて森を出た。
長すぎる耳を認識阻害の魔法で少しだけ短く見せ、「森から出てきて都会に馴染む珍しいエルフ」という体で、この王都で念願のカフェを開いたというわけだ。
資金源については、『世界樹の森』と呼ばれていたあの森の隅に転がっていた美しい魔石をいくつか換金しただけだ。人間界では国宝級の価値があったらしく、王都の一等地でこの理想の店舗を買い上げ、アンティークの家具を一式揃えてもお釣りが来るほどだった。
ちなみに売るときにひと悶着あったが、その中でいい出会いもあったのでそれはまた今度語るとしよう。
「マスター、今日もいい香りだね」
「もうすぐできますよ」
老紳士の穏やかな声に回想から引き戻され、俺は淹れたてのコーヒーと、ふんわりと焼き上げた特製のパウンドケーキをウッドトレイに乗せてテーブルへ運ぶ。
「お待たせいたしました。コモレビ・ブレンドと、木の実のパウンドケーキです」
「おお、ありがとう。ここのケーキは絶品だからね」
老紳士が嬉しそうに目を細める。
ちなみに、この店で出しているメニューは、ただのカフェメニューではない。
コーヒー豆こそ知り合いの商人から特別に仕入れているが、ケーキに入っている木の実は精霊たちがあの森から定期的に運んでくる物を使用している。
まともに市場に出せば金貨の山が築ける代物と知ったのはいつだったか。
だが使わなければいたずら好きな精霊たちに部屋を木の実で埋め尽くされるので、こうして使わざるを得ないのだ。
老紳士はコーヒーを一口啜り、ケーキを頬張ると、至福の表情を浮かべた。
「ふぅ……美味い。マスターの淹れるコーヒーを飲むと、寿命が10年延びる気がするよ」
「あはは、それは大げさですよ」
流石に直接的に寿命を延ばすようなぶっ飛んだものは餞別して使っていない。
しかしそれでもあの森産の究極のオーガニック食品ではあるので、身体の調子が良くなることで寿命が伸びるというのはあるかもしれない。悪い事じゃないんでいいでしょ、くらいに考えている。
ふと視線を向けた窓の外では、馬車が石畳を鳴らして行き交い、人々がせわしなく歩いている。
市場へ急ぐ商人、剣を腰に下げた若い冒険者、花束を抱えて走る恋する青年、道端で泣きじゃくる子供とそれをあやす母親。
人間の一生は、エルダーエルフからすれば瞬きするような短さだ。俺が一度昼寝をする間に、彼らは生まれ、老いて、そして死んでいく。
しかし、その短い時間の中で彼らは笑い、泣き、怒り、恋をして、全力で生きている。一瞬一瞬を燃やし尽くすように輝いている。
100年をうたた寝で消費してしまう俺たちには決して作れない、濃密で愛おしい時間。その熱に触れているだけで、俺自身の心も温かくなっていくのを感じるのだ。
「やっぱり、人間の世界はいいな」
誰に聞こえるでもなく、俺は小さく呟いた。
長寿の種族としてののんびりとした隠居生活は、あと1万年くらい先でいい。いや、もうご神木になりかけるのは御免だ。
今はただ、この小さな店で、忙しなく生きる人間たちに一杯の安らぎを提供する、この「普通の生活」を満喫しよう。美味しいコーヒーを淹れ、客の笑顔を見て、今日という日をしっかり噛み締めるんだ。
再びベルが鳴る。どうやら、次のお客さんがいらっしゃったようだ。
「いらっしゃいませ!」