転生エルフののんびり異世界生活 作:光合成で生きたい人
激しい雨が、王都の石畳を乱暴に打ち据えている。
春の嵐とも呼ぶべき暴力的な豪雨は、普段であれば夜遅くまで喧騒の絶えないメインストリートから、瞬く間に人影を消し去ってしまった。王都の喧騒から少し離れた路地裏に静かに佇む俺の店、「カフェ・コモレビ」の窓ガラスも、絶え間なく水滴の打撃を受け続け、外の景色は水鏡のように歪んで輪郭を失っている。
「ひどい天気だな……」
俺は窓の外の暗闇を見つめながら、誰に聞こえるでもなく独り言を漏らした。
この容赦のない嵐では、まともな客足は期待できないだろう。諦めて明日の仕込みに専念した方が賢明だ。俺は通りに向けて窓に掛けていた営業中を知らせる木札を裏返し、入り口の鍵を閉めようとドアの真鍮製の取っ手に手を伸ばした。
その時だった。
入り口のドアに取り付けられたアンティーク調のベルが、激しい雨の音に掻き消されそうなほど弱々しく、しかし確かに来客を知らせる澄んだ金属音を鳴らした。
少しだけ開いたドアの隙間から、冷え切った夜風と共に一人の少女が店内に滑り込んでくる。
「まだ、営業していますか……?」
「はい、いらっしゃいませ」
事務的に声をかけた俺は、振り返って彼女の姿を視界に収めた瞬間、思わず目を瞬かせた。
そこに立っていたのは、年齢にして十七、八ほどの少女だった。透き通るような銀色の髪は雨水を限界まで吸い込み、彼女の青ざめた頬や首筋に重く張り付いている。華奢な身体は、寒さのせいか小刻みに震え続けていた。
身に纏っているのは、素人目に見ても最高級の絹で仕立てられたと分かる豪奢な夜会用のドレスだ。しかし、その美しい布地は泥に汚れ、ところどころが鋭い木の枝か何かで無惨に引き裂かれている。足元を見れば、本来であれば美しい装飾が施されていたであろう華奢なヒール靴は片方しか履いておらず、もう片方の足は泥だらけの素足のままだった。
王城のある貴族街からこの路地裏までは、馬車を使ってもかなりの時間を要する。一体どれほどの距離を、片靴のままこの嵐の中を彷徨い歩いてきたというのか。
しかし、何より俺の目を引き、そして背筋を寒くさせたのは、彼女の「表情」だった。
これほど悲惨で痛ましい状況にあるというのに、彼女の端正な顔立ちには、焦燥も、悲哀も、助けを求める恐怖すらも、一切の感情が浮かんでいなかったのだ。
まるで一流の職人が魂を込めて作り上げた精巧な人形のように、光を宿さない虚無の瞳で、彼女はただ静かに俺のことを見つめている。
「……お金、ありません」
少女は、ひび割れたように乾燥した唇をわずかに開き、抑揚の全くない平坦な声で事実だけを告げた。
「でも少しだけでいいので、ここで雨宿りさせていただけませんか?」
「もちろんです。どうぞ、一番暖かい暖炉の近くの席へ」
俺はこみ上げてくる無数の疑問を強引に飲み込み、急いで清潔で厚手のタオルを取り出すと、彼女をカウンターの奥にある席へと案内した。
彼女は「クロエ」とだけ名乗った。濡れた髪を拭こうともせず、ただ渡されたタオルを膝の上に置き、その上で両手を自身の指の関節が白く変色するほど強く握りしめている。
寒さと疲労で小刻みに震え続ける彼女の細い肩を見て、俺は足元に下級の火の精霊を喚び出した。
俺の本来の種族であるエルダーエルフの強大な魔力を行使して、直接彼女の身体を温めることも可能だ。しかし、極限まで衰弱している人間に強力な魔法を直接当てれば、加減を誤った際の反動が恐ろしい。そのため、俺は暖炉で燃える炎の熱を精霊に運ばせ、彼女の濡れたドレスが早く乾くように、温かく心地よい空気の層で彼女の身体を周囲から包み込む手法をとった。
前世の記憶を持つ俺にとって、魔法というものは未だに夢物語のような側面があるが、こういう時に精霊と直接意思疎通が出来るエルダーエルフという種族の特性は、本当に便利でありがたい。
「温かいものを淹れますね。お代は結構です。こんな激しい雨の夜に来てくださったお客さんへの、当店からの特別なサービスです」
彼女がこれ以上の負い目を感じないよう、俺は努めて軽い口調でそう言い残し、カウンターの中で静かに作業を始めた。
提供するのは、かつて俺が眠りについていた『世界樹の森』から仕入れた、ラベンダーに似た謎の花を用いた薬草茶である。
ガラス製のティーポットに熱湯を注ぐと、乾燥した花弁が緩やかに開き、透明だった湯が鮮やかな淡い紫色へと染まっていく。華やかでありながらどこか大地を思わせる甘い香りが立ち上り、店内の湿って冷たい空気を優しく塗り替えていく。精神の緊張を緩和し、芯から身体を温めてくれる特別な一杯だ。もちろん、寿命が延びるような人間にとって劇薬になりかねない成分は、抽出の段階で完全に間引いてある。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
クロエは両手でティーカップの側面を包み込むように持ち、湯気を立てる紫色の液体に静かに口を付けた。
今まで口にしたことのない未知の味だったのか、彼女はわずかに目を瞬かせた。しかし、ゆっくりと嚥下した直後、彼女の口から深く長い感嘆の息が漏れた。
「不思議な、味です」
「お口に合いますか?」
「はい、とても美味しいです」
「それは良かった」
短い会話を交わした直後、静寂に包まれた店内に、空腹を訴える腹の虫の音が響き渡った。
クロエは動作を完全に停止させ、無表情のまま、しかし明らかに困惑した様子で自身の下腹部を押さえる。貴族としての厳しい教育で感情を殺すことには慣れていても、生物としての本能的な生理現象までは完全に制御できなかったらしい。
「あ……」
「こちらも、もしよろしければどうぞ。今日はこの嵐のせいで客足が全くなく、このまま廃棄する予定だったもので申し訳ないのですが」
貴族の令嬢である彼女に、これ以上の惨めさや「施しを受けている」という屈辱を感じさせないよう、俺は優しい嘘を口にしながら、戸棚から取り出した特製のパウンドケーキを厚めに切り分けて彼女へと差し出す。
「本当に、何から何までありがとうございます」
クロエは短く感謝の言葉を紡ぎ、銀色のフォークを手に取った。
そして、添えられたパウンドケーキを小さく切り分け、相変わらずの表情を欠いたまま、ただ栄養を摂取するための機械的な動作で口に運ぶ。
──変化は、劇的に訪れた。
咀嚼しようとした彼女の顎の動きが、完全に停止した。
「……あ」
本当に微かな、意味を持たない短い音声が漏れた。
光を持たなかった銀色の瞳が大きく見開き、信じられない魔法の産物でも見るかのように手元のパウンドケーキを見つめ、幾度も瞬きを繰り返す。
パウンドケーキの優しい甘さと、生地に練り込まれた精霊の木の実が持つ澄み切った魔力が、雨に冷え切り、生命力をすり減らしていた彼女にとっては特効薬となったのだろう。
「おかわりはまだありますから、好きなだけ召し上がってください」
「……はい」
そうしてしばらくの間、店内には陶器と銀器が触れ合う微かな音と、窓を打つ雨の音、そして時折遠くの空で鳴る雷鳴だけが響いていた。
「……私、おかしいんでしょうか」
クロエはフォークをゆっくりと皿の端に置くと、俯いたまま、言葉を探すように途切れ途切れに話し始めた。依然として表情の起伏は乏しいが、その声には先ほどまで存在しなかった微細な震えが混じっていた。極限まで張り詰めていた精神の糸が、温かさに触れてようやく解け始めている証拠だった。
「伯爵家の長女として、常に完璧に、いかなる時も感情を乱さぬよう厳格に育てられました。痛くても泣くことも、楽しい時に大声で笑うことも許されず、ただ両親の命令に従い侯爵家の方と婚約し、彼の完璧な妻になろうと……必死に、教えられた通り生きてきました」
彼女の強く握りしめられた両手から、再び血の気が引いていく。
「でも、今日……王城で開催された夜会の席で、その婚約者から、大勢の貴族が注目する中で一方的に婚約破棄を宣言されました。『お前は愛想もないし、何を考えているか分からなくて気味が悪い』と。……両親にも、家の恥晒しだと罵られ、その場で縁を切られました」
語られたのは、あまりにとんでもない話。王城で催される夜会ならば、当然王家の人間だって参加しているだろう。そんな場で婚約破棄だのなんだのと揉め事を起こすのは、貴族なんてものとはほど遠い俺でも相当えらいことになるというのは容易に理解できた。
「……婚約を破棄されて、帰る家も家族も失って。絶望して悲しいはずなのに、どうやって涙を流せばいいのかも、分からないんです。私は本当に、気味の悪い人形みたいで──」
クロエが自嘲するような言葉を紡ぎかけた、その時だった。
彼女の瞳から大粒の雫が重力に従ってこぼれ落ち、ティーカップのソーサーを濡らして微かな水音を立てた。
「え……?」
クロエ自身が、この世の信じられない現象を目の当たりにしたような顔をした。自身の頬を伝う温かい液体の感触に気づき、呆然としている。
一度決壊した感情の堤防は、もう誰の力でも修復することはできなかった。無表情の仮面が剥がれ落ち、彼女の端正な顔立ちが、見苦しいほどに不格好に歪んでいく。大粒の涙が次々と瞳から溢れ出しては、彼女の膝の上へと落ちていく。
「わたし、どうして……。違う、人前で泣くなんて、はしたない……だめ、なのに……」
「はしたなくなんて、ありませんよ」
俺はカウンター越しに手を伸ばし、清潔な布地のハンカチを彼女の目の前に置いた。
「美味しいものを食べて、安心できる場所に辿り着いて、限界まで張り詰めていた心がようやく解けたんです。……人間は、泣きたい時に泣いていいんです。ここはただの路地裏の喫茶店です。あなたの涙を見て、あなたを責める人間はここには誰もいませんよ」
俺のその言葉が、彼女の心を繋ぎ止めていた最後の枷を外す引き金になった。
クロエは両手で顔を覆い、そのままテーブルに突っ伏した。
雷鳴が轟く静かな店内で、少女の生まれて初めての、まるで迷子になった幼い子供のような悲痛な嗚咽が響き渡る。
俺はこれ以上気の利いた慰めの言葉を探すことをやめ、ただ静かにカウンターの中で茶器を洗いながら、彼女の感情の嵐が過ぎ去るのを待った。
エルダーエルフが持つ悠久の時間感覚から俯瞰すれば、人間の抱える悩みや一族の権力闘争など、瞬きをする間に消え去る朝露のような幻に過ぎないのかもしれない。
けれど、今俺の目の前で声を上げて涙を流す彼女の痛みと絶望は、決して幻などではない。紛れもない、重さを持った本物の感情だ。
(……こんな姿を見せられて、流石に見過ごせるわけがないよな)
温かい薬草茶と甘い焼き菓子、そして激しい雨風を凌ぐ場所。
今はまだそれくらいのものしか提供できないが、彼女が再び自身の足で立ち上がり、自身の意志で未来へ歩み出せるようになるまで。せめてこの小さな喫茶店が、傷ついた彼女の羽休めのための居場所になれればいい。
「ゆっくりでいい。たくさん泣いて、温かいお茶を飲んでください」
俺の口から出た小さな呟きは、激しい雨の音と少女の泣き声の中に溶けて消えた。
エルフになって随分と価値観は変わってしまったが、それでも人として失ってはいけない義理人情までも捨てたつもりはない。面倒事は御免であるが、今回ばかりはそうも言っていられないだろう。
俺は密かに、この不器用で健気な少女を、理不尽な運命と悪意から徹底的に保護することを心に固く誓ったのだった。