転生エルフののんびり異世界生活 作:光合成で生きたい人
さて、行き場のない彼女に居場所を提供すると心に決めて格好をつけてみたものの、今後の具体的な対応策については一考の余地があった。まさか、彼女を絶望の淵に追いやった婚約者や実の娘を切り捨てた両親の元へ乗り込み、関係者全員の生首をコレクションしに行く訳にもいかない。
もちろん、エルダーエルフである俺の規格外の魔力と戦闘能力を以てすれば、一国の王城を更地にすることすら不可能ではない。ただ、実行出来ないとは言わないが、それを行動に移す気にはなれなかった。只人の国でありながら他種族の文化に寛容なこのノイエン王国は非常に居心地がいいし、王都の路地裏で小さなカフェを営む「風変わりなエルフ」という現在の穏やかな立場は、何にも代えがたいほど捨て難いのだ。
そもそも彼女の語った内容によれば、彼女は実の家族からも完全に絶縁され、家名すら剥奪された状態だという。つまり、法的な手続きがどうなっているかは不明だが一先ず彼女は完全に自由の身であり、まして誰かの所有物ではないということだ。ならば、向こうから何らかの理不尽な要求を突きつけてくるまで、意図してこちらから波風を立てる行動を起こす必要もないだろう、といったところか。
王都の貴族社会における権力闘争の余波を考えれば、遠からず厄介事は舞い込んで来るだろう。だが、その時はまぁ、正当防衛ということで。
そして今、件のご令嬢は俺が渡した厚手の毛布に全身を包み、静かな寝息を立てて安らかに眠りに落ちている。外は一歩歩くことすら困難なほどの激しい嵐だ。そんな過酷な環境の中を、薄着のドレスと片方だけの靴で彷徨い歩いていたのだから、肉体的にも精神的にも限界を超えて疲労困憊しているのだろう。
俺は今度こそ店の外に置いていた看板を店内に引き入れ、入り口の分厚い木扉に備え付けられた金属製の鍵を厳重に下ろした。
いくら暖炉のそばとはいえ、硬い椅子の上で寝かせておくわけにもいかない。年頃の、しかも意識のない少女の身体に直接触れるのは気が引けたが、背に腹は代えられない。俺は小さく丸まった彼女の細い身体を、両腕で慎重に抱き上げた。
腕の中に収まったその身体は、驚くほどに軽かった。上質な絹で幾重にも仕立てられたドレスの布の重さを差し引けば、彼女自身の肉体の質量など無に等しいのではないかと錯覚してしまうほどだ。
貴族の令嬢として、いかなる時も完璧な人形のような存在であることを求められ続けたと語った彼女は、自身の感情の表現を抑圧されていただけでなく、食事や睡眠といった生物としての基本的な営みすらも、見栄えを維持するために厳しく制限されていたのだろう。そのいびつな教育の痕跡が、この危ういほどの軽さに如実に表れていた。
俺は彼女の硝子のように脆い身体に一切の負担をかけないよう、足運びにも細心の注意を払いながら店舗の奥の階段を上り、二階にある客間へと向かった。埃一つない清潔なシーツが敷かれた来客用のベッドに彼女の身体を静かに横たえ、厚手の毛布を首元まで丁寧に掛ける。
室内の空気が冷えないよう、下級の火の精霊を喚び出して暖炉の火を適切に保つように命じると、俺は彼女の眠りを妨げないように足音を殺して部屋を後にした。
翌朝。
窓から差し込む眩い陽光が、昨夜まで猛威を振るっていた荒れ狂う春の嵐が完全に過ぎ去ったことを告げていた。
俺は一階の厨房に立ち、消化に良い温かいスープの仕込みを始めた。細かく刻んだ根菜と鶏肉を弱火で時間をかけて煮込み、彼女が目覚めた時にすぐに栄養を摂取できるよう、細やかな準備を整える。一段落したところで、俺は彼女の様子を確認するために、再び二階の客間へと足を運んだ。
しかし、静かに扉を開け、ベッドの中で身を丸める彼女の姿を視界に収めた瞬間、俺は息を呑んだ。
彼女の呼吸は昨晩よりも明らかに荒く、苦しげな音を立てている。透き通るようだった真っ白な肌は不自然なほど赤く染まり、額には無数の汗が浮かんでいた。手を当てて熱を測ると、まるで火のように強い熱を発している。
無理もないか、と俺は内心で息を吐く。感情を完全に押し殺すという極限の精神状態で、あの骨の髄まで冷え切るような冷たい豪雨の中を、防寒具もなく彷徨い歩いていたのだ。さらに、限界まで張り詰めていた精神の糸が、温かい茶と菓子によって切れたことによる急激な弛緩。長年の抑圧で限界を迎えていた脆弱な人間の肉体が、ここにきて一気に熱を発して悲鳴を上げ始めたのだろう。
もちろん、エルダーエルフである俺が強力な治癒魔法を行使すれば、この程度の熱や肉体の疲労など瞬時に消し去ることは造作もない。だが、長年精神的に酷使され、極度に衰弱しきった脆弱な人間の肉体に対して、強大な治癒魔法を直接流し込むのは推奨できない。それは例えるなら、完全に干上がってひび割れた脆い大地に対して、巨大な濁流を無理やり注ぎ込むようなものだ。最悪の場合、魔力の負荷に耐えきれず、彼女の命の器そのものを内側から破壊しかねない危険性を孕んでいる。
俺は魔法による直接的で強引な治療を諦め、自然の薬草を用いた物理的で緩やかな看病に専念することを選択した。
精霊の運んでくる草の中でも特に薬効があり、万が一にと保管しておいた幾つかの薬草を取り出し、乳鉢で細かくすり潰す。そこに水霊が宿る清らかな湧き水を加え、人間の身体でも拒絶反応を起こさずに受け入れられる安全な濃度にまで希釈し、特製の解熱薬を作り上げた。
それを小さな匙ですくい、彼女の乾燥した唇の隙間から少しずつ、確実に流し込んでいく。
同時に下級の水霊を喚び出し、彼女の額や首筋に滞留している危険な熱を、物理的に穏やかに奪い去るように指示を出す。
根気よく、付きっきりで看病を続ける中、高熱に苦しんで身をよじる彼女の口から、微かなうわ言が漏れ始めた。
「……申し訳、ありません……お父様……私、もっと……上手に、笑いますから……。教えられた通りに、完璧に振る舞いますから……。だから……あの暗い部屋には、入れないで……見捨てないで……」
無意識の底から繰り返されるその言葉は、あまりにも闇が深すぎた。
熱に浮かされ、意識の領域に深く沈み込んでなお、彼女の精神は自身を縛り付けていた呪いの言葉に囚われ続けていた。
完璧な人形であることを周囲から強要され、わずかでも個人の感情を見せれば容赦なく叱責される。粗相があれば、光の届かない冷たい暗所に閉じ込められ、孤独の中で震えることを強いられる。そうして幼い頃から徹底的に個人の意思を剥奪し、都合の良い道具として教育しておきながら、最終的には「愛想がない」「何を考えているか分からない」と理不尽極まりない理由で切り捨てたのだ。
彼女の魂は、いまだに王城の夜会と、愛情が完全に欠落した生家の冷たい記憶から一歩も抜け出せずにいるのだろう。救いのない悪夢の中で、彼女は誰にも届かない謝罪の言葉を延々と繰り返し続けていた。
「大丈夫、安心してゆっくりお眠り。ここに君を害すものはなにもないんだ」
俺は高熱を発して震え続ける彼女の小さな両手を掌で包み込み、祈るように低い声で語りかけた。
この言葉が彼女の深い意識の底まで届くかは分からない。だが、せめて今この瞬間だけは、彼女を縛るすべての呪縛から解放してやりたかった。俺は極めて微弱な魔力を、触れ合った掌を通じて彼女の内側へとかつての記憶と共に流し込んでいく。
それは、かつて俺が数百年という途方もない時間を過ごした、あの深く静かな森の記憶だ。
視界を覆い尽くすほどの巨大な世界樹の枝葉。その隙間から柔らかく降り注ぐ、黄金色の太陽の光。肌を優しく撫でる春の風と、名も知らぬ生き物たちの穏やかな鳴き声。そして何より、一切の外敵が存在せず、誰にも傷つけられることのない絶対的な安息の空間。
その純粋で温かい情景を、彼女の閉ざされた暗い意識の底へと広げていく。深い闇に囚われていた彼女の精神に、一筋の温かい光を届けるように。
「あり、がとう……」
俺の言葉と魔力に反応したのか、それとも時間をかけて飲ませた薬草の効能が全身の血流に乗って行き渡り始めたのか。彼女の苦痛に満ちて歪んでいた表情が少しずつ和らぎ、荒かった呼吸が次第に穏やかで規則的なものへと変化していく。
やがて熱は完全に引き、彼女の頬から不自然な赤みが消え去ると、彼女は深く安らかな寝息を立て始めた。
その寝顔は、昨日見せた仮面のような虚無の表情でも、先ほどの悪夢に怯えきった表情でもなく、年相応のあどけなさを残す、普通の少女のものだった。
俺は深く息を吐き出し、彼女の細い腕を布団の中へ慎重に戻すと、看病に使用した道具一式を片付けて、一階の店舗へと続く階段を降りた。
厨房では、夜明け前から弱火で煮込んでいたスープが良い匂いを漂わせている。
細かく刻んだ甘みのある根菜と、形が崩れるほど柔らかく煮込んだ鶏肉。そこに、胃腸の働きを助け、体力を回復させる効果を持つ森のハーブを数種類ブレンドしてある。長期間にわたってまともな食事を与えられていなかったであろう彼女の衰弱した身体でも、これなら無理なく栄養を吸収できるはずだ。
仕込みの時間はとっくに過ぎていたが、今日は大人しく臨時休業にするべきだろう。通りに向けた木札を休業のままにしておき、俺は店内の客席に腰を下ろした。そして、看病の間にすっかり冷めきってしまった自分のためのコーヒーを口に運ぶ。
平和な朝だ。
荒れ狂っていた昨夜の嵐が嘘のように、澄み切った朝の空気が窓の隙間から入り込んでくる。
俺が異世界に転生し、百年のうたた寝を経て、森を出てまで求めていた何気ない人間の営みと静寂の時間がここにある。
──だが、その愛すべき静寂は不意に破られた。
俺の視線が、手元のコーヒーカップから外の路地へと鋭く向けられる。
空気が、明確に異質なものへと変わった。
王都の石畳のさらに下、地下深くに張り巡らされた無数の植物の根。俺がこの場所に店を構えてから密かに時間をかけて育て、街全体に広げていた強大な探知ネットワークを通じて、周囲の環境の異変が瞬時に俺の脳裏へ伝達されてきたのだ。大地の脈動が、不自然な震動を捉えている。
複数の足音が近づいてくる。
それも、朝の市場へ向かう商人の活気ある足音や、散歩を楽しむ市民の軽やかなものではない。重く、淀み、訓練されていながらもどこか粗暴さを隠しきれていない足運びだ。
路地裏の澄んだ朝の空気に、微かな安物の鉄の匂いと、油の匂い、そして隠しきれない明確な暴力の意思が混じり始めている。
足音の数は五つ。迷うことなく、一直線にこの「カフェ・コモレビ」を目指して接近してきている。
昨夜、衆人環視の中で婚約破棄を突きつけたという元婚約者の差し金か。それとも、家名に泥を塗った彼女を物理的に隠滅しようとする実家の追手か。
彼らが何者であり、どのような事情を抱えているのかは分からない。ただ、彼らが放つ黒い感情の矛先が、二階の客間で眠る少女に向けられていることだけは明白だった。
「……随分と早いご到着な事で」
俺は空になったコーヒーカップを音を立てずにテーブルに置き、ゆっくりと立ち上がった。
人間としての短くも濃密な、穏やかな時間は好きだ。この国の人間の営みは愛おしいと思っている。だが、理不尽な暴力で他者を脅かす存在まで、慈悲深く受け入れるつもりは毛頭ない。
チートを持って生まれた俺の譲れない我儘である。
俺はカフェの入り口のドアに向かって歩みを進めながら、人間社会に馴染むために被っていた穏やかな青年の仮面をほんの少しずらすことにする。
その内側に隠し持っていた、エルダーエルフとしての強大で圧倒的な魔力を、静かに、しかし確実に解放していく。足元から緑色の淡い光が立ち上り、店内に飾られていた観葉植物が一斉に異常な速度で成長し、蕾を綻ばせる。周囲の空気が、世界樹の起源たる圧倒的な質量と威圧感を伴って震え始めた。
「さて、戦うの久しぶりだな」
俺の背後に、膨大な魔力に呼応した見えない巨大な世界樹の幻影が立ち上る。それは、大自然の怒りそのものを具現化したかのような威容だった。
迫り来る不穏な気配を完全に排除し、この小さな聖域を守り抜くため、俺は静かにドアの鍵に手をかけた。