転生エルフののんびり異世界生活 作:光合成で生きたい人
彼女の動作は、どれほど衰弱していても、貴族として徹底的に叩き込まれた礼儀作法を失っていない。音を立てることもなく、背筋を伸ばし、美しい所作で食事を進める。
だが、その瞳だけは隠しきれない感情を雄弁に物語っていた。時間をかけて煮込まれた鶏肉の柔らかさと、根菜の甘み、そして微かに香る森のハーブの風味が舌の上で広がるたび、彼女の銀色の睫毛が微かに震え、安堵に満ちた吐息が漏れる。
やがて、器の底が見えるまでスープを完全に平らげると、彼女は匙を置き、両手で静かに器を包み込んだ。
「……とても、美味しかったです。命を救っていただいただけでなく、このような温かいお食事まで……何と御礼を申し上げればよいか」
クロエは深く頭を下げた。その声はまだ微かに掠れていたが、昨夜の虚ろな響きは消え、確かな意志が宿っていた。
しかし、彼女が再び顔を上げた時、その端正な顔立ちには、先ほどまでの安堵とは異なる、切羽詰まったような悲壮感が張り付いていた。彼女は自身の膝の上で両手を固く握りしめ、何か重大な決意を固めるように、一度強く目を閉じる。
「この御恩は、決して忘れません。ですが……これ以上、あなたにご迷惑をおかけするわけにはまいりません」
彼女の言葉に、俺はトレイを受け取ろうと伸ばしかけていた手を止めた。
「私は家を追放された身です。私をよく思わない者たちが、すでに動いているかも。もし彼らがこのお店にまで現れれば……きっと取り返しのつかないご迷惑をおかけしてしまいます」
俺の脳裏に、先ほど路地裏で「取り返しのつかないご迷惑」の種となるはずだった五人のゴロツキたちが、植物の根に吊るし上げられ、涙と鼻水を垂れ流して逃げ帰っていった無様な光景がよぎる。しかし、彼女を安心させるために「すでに全員片付けた」と事実を伝えるのは、無用な恐怖と混乱を与えるだけだろう。
「すぐに出て行きます。……本当に、ありがとうございました」
クロエは毛布を退け、ベッドから降りようと身をよじった。
だが、高熱が引いたばかりの脆弱な肉体は彼女の意志に反逆し、わずかに足に力を入れた瞬間、その身体は糸の切れた操り人形のように力なく傾いた。俺が咄嗟に肩を支えなければ、そのまま床に倒れ込んでいただろう。
「無理をしないでください。まだ熱が引いたばかりです」
「平気、です。……行かなければ。ご迷惑に、なってしまうから」
自身の無力さに唇を噛み締めながら、それでもなお「他人の重荷にならないこと」を優先しようとする彼女の姿に、俺は静かなため息をこぼした。
「出て行くと言いますが、あなたにこの王都で身を寄せる宛てはあるのですか?」
俺の現実的で冷酷な問いかけに、クロエの動きが完全に停止した。
ちょっと意地悪な質問だったか。
宛てなどあるはずがないのだ。彼女は昨夜の夜会からそのまま追放され、金貨一枚、宝石の付いた装飾品一つすら持ち合わせていない。着ているのは泥に塗れ、引き裂かれた夜会用のドレスだけ。
しかし顔はまさに絵に描いたような美少女であり、そんな明らかに厄介ごとの気配を感じさせる彼女に声をかけるのはどんな種類の人間か。いくら治安のいい王都でも、その結果が悲惨なものになるというのは容易に想像がつくというものだ。
「……ありません。ですが、路地裏に身を隠せば、少しの間なら……」
「昨夜のような嵐が再び来れば、今度こそ命を落とします。あるいは、寒さと飢えを凌ぐ前に、王都の裏社会に巣食う悪意に飲み込まれるのが関の山です。お金も、行き場も、身を守る術もない少女が一人で生きていけるほど甘くはありません」
厳しい言葉だったが、真実だ。俺の言葉を受け、クロエは自身の絶望的な現在地を正確に理解したのだろう。虚勢を張っていた彼女の肩が、微かに震え始めた。
彼女は自身の行く末を悟り、ただ静かに死を受け入れようとしている植物のように、俯いて黙り込んだ。
「……名前を、お聞きしてもよろしいでしょうか」
長い沈黙の後、クロエが消え入るような声で問いかけてきた。
「私に最期の温もりを与えてくださった恩人の御名前だけは、胸に刻んでおきたいのです。……改めて、私はクロエと申します」
死を覚悟した者の、悲痛な願いだった。
どうしてそっちに覚悟キマってしまうの?
俺はその問いに対して、小さく首を横に振った。
「クロエさん。行く宛てがないのであれば、この『カフェ・コモレビ』で働きませんか」
俺の唐突な提案に、クロエの瞳が驚愕に見開かれた。
「は、働く……私が、ですか?」
「ええ。見ての通り、この店は私一人で切り盛りしていますが、有難いことにお客さんからの評価は上々。仕込みから接客、清掃までを一人でこなすには、少しばかり手が足りなくなってきたところだったのです」
もちろん、それは半分以上が建前だ。一人での営業に限界を感じるほど繁盛しているわけでもないし、エルダーエルフの魔法を使えば店舗の清掃など一瞬で終わる。
だが、この真面目で誇り高い少女に「可哀想だから保護してあげる」という施しを与えても、彼女の心に深い負い目と罪悪感を刻み込むだけだ。彼女に必要なのは、同情による無償の愛ではなく、きっと『自分の価値を証明できる場所』なんだろうなと思う。ビジネス書や、確か学校でも習った記憶がある。仕事というのは、もちろん生活のための金銭を得るためにあるが、『自己実現』の場でもあるのだ。
「住み込みのウェイトレスとして働くのはいかがでしょうか? 二階のこの部屋をあなたの私室として提供し、三度の食事と、ささやかですが規定の給銀をお支払いしましょう。もちろん、あなたがここを出て一人で生きていけるだけの蓄えができるまでの間、という条件でも構いません」
「だ、駄目です! そんなこと……私には、何もできません!」
クロエは弾かれたように首を横に振った。その瞳には、深い恐怖と自己否定が渦巻いている。
「私は、両親からも、婚約者からも『出来損ないの人形』だと捨てられたのです。愛想笑い一つ浮かべられず、何を考えているか分からない、気味の悪い女だと……。そんな私が表に出て接客などすれば、必ずお客様を不快にさせ、このお店の評判を落としてしまいます」
「笑顔がないから、不快になる?」
俺は彼女の自己否定の言葉を、鼻で笑って一蹴した。
「笑顔は大事ですよ。しかし、それが全てではありません」
俺は窓の外の、静かな路地裏の風景に視線を向けた。
「ここに来るお客様が求めているのは、過剰な愛想笑いや媚びへつらいではありません。美味しい食事と静かで落ち着ける時間。それだけです。あなたが無口で感情表現が乏しいというのなら、それは『落ち着いた静かな接客ができる』という立派な長所になりますよ」
「私の、無表情が……長所……?」
クロエは、生まれて初めて聞いたであろうその評価に、呆然と呟いた。
彼女のこれまでの人生において、表情に乏しい事は常に攻撃の対象であり、欠陥でしかなかった。それを『長所』だと肯定されることなど、一度たりともなかったはずだ。
「必要なのは、お客様に無事に食事を届けること。そして、清潔な環境を保つこと。それだけです。仕事のやり方は、私が一から丁寧に教えます。親の道具でも、誰かの妻でもない、あなた自身の力で生きていくための技術を、ここで身につければいい」
俺は彼女の目の前に、自身の右手をゆっくりと差し出した。
「どうですか、クロエさん。この名もなきエルフの店で、あなたの新しい人生を始めてみる気はありませんか」
差し出された俺の手と、俺の顔を、クロエは何度も交互に見つめた。
彼女の瞳に、再び涙の膜が張り始める。だが、それは昨夜のような絶望と悲哀の涙ではない。暗闇の底でようやく見つけた、細く、しかし決して切れることのない希望の糸に縋るような、温かい涙だった。
「良いんでしょうか……?」
「もちろん」
そして、震える両手をゆっくりと持ち上げ、俺の差し出した右手を、大切に、両手でしっかりと握りしめた。
「私で、よろしければ……。どうか、このお店に、置いてください。……一生懸命、働きます」
「契約成立ですね。よろしくお願いします、クロエさん」
俺は彼女の小さな手に僅かに力を返し、穏やかな口調で契約の成立を告げた。
クロエは安堵したのか、握りしめた俺の手の温もりに額をすり寄せるようにして、再び静かに涙を流し始めた。今度は嗚咽を漏らすこともなく、ただ静かに、心が浄化されていくような涙だった。
やがて彼女が落ち着きを取り戻したのを見計らい、俺は空になったスープの器をトレイに乗せ、立ち上がった。
「さて、雇用契約が結ばれたところで、店主としてあなたに最初の業務命令を下します」
「業務、命令……」
クロエは少しだけ身を強張らせ、背筋をピンと伸ばした。その健気な姿に、俺は口元を緩める。
「ええ。あなたの最初の仕事は、『完全に体力を回復させること』です。高熱が引き、自分の足で階段を降りられるようになるまで、絶対にこのベッドから出ないこと。体調不良の従業員を働かせるようなブラックな真似は、私の主義に反しますので」
「ぶらっく……?」
「こちらの言葉です。とにかく、元気になってからが本番だということです。焦る必要はありません。時間は、たっぷりありますから」
エルフの悠久の時間を生きる俺からすれば、人間の回復にかかる数日間など、文字通り瞬きをするようなものだ。
俺は小さく首を傾げるクロエに背を向け、客間の扉へと向かった。
「おやすみなさい、クロエさん。また後で、様子を見に来ます」
扉を閉める直前、背後から「はい。……おやすみなさい、マスター」という、不器用だが確かな温もりを持った声が聞こえた。
俺は扉を静かに閉め、店主という新たな肩書きの心地よさを噛み締めながら、一階の店舗へと続く階段をゆっくりと降りていった。